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たりない思い(第二章)/小説【創作大賞2024・お仕事小説部門】

◆ 第一章はこちらからお読みいただけます。

 【前回までのあらすじ】
 舞台はAIが人間の代わりにエンターテイメントを作り出すようになった未来。
 ナツ(藤堂菜月)は、AIが作り出した作品に”人間味”を足す仕事である
“ヒューマンエディター”として働いている。

 しかし、人間の手で一から作り上げられた“紙の本”を読んだことがきっかけとなり、仕事でスランプに陥ってしまう。

 そんな中、“翻訳”を愛する青年、今野から“翻訳”をすることで、突破口が見つかるのではないかと提案を持ち掛けられた。

翻訳はAIに代えられる仕事なのか。
エンタメがAIに奪われた世界を通して
翻訳に焦点を当てたお仕事小説。



― 6.行動  ―


「私、翻訳をやってみようと思います」
「本当ですか? 嬉しいです! では、こちらをどうぞ」

 次の日も私は図書館にいた。受付で今野さんを読んでもらい、翻訳に挑戦してみたいことを伝えると、一冊の薄い本を手渡された。パラパラとめくると紙が少し焼けていて、フチが茶色を帯びている。

「ありがとうございます。紙の洋書なんて初めて見ました。これも図書館に保管されているのですか?」
「これは、私物です。昔、古本屋で運よく見つけて買ったんです。だから少し古びているのですが、文字は問題なく読めると思います」
「ありがとうございます。大事に扱いますね」
「それと、これをお使いください」
 手渡されたのは、紙のノートと筆記用具だった。
「久しぶりに見ました。職場では全て電子ですから、学生時代以来かもしれません」
「せっかくなので、手書きで書いてみてもいいんじゃないかなと思いまして。ぜひ翻訳機能を使わないで取り組んでみてください」
「ありがとうございます。今度新しいのをお返ししますね」
「お気になさらないでください。私のわがままでもあるんですから」
 少し後ろめたさもあったが、ここで押し問答をする気にもなれず、さっと受け入れることにした。
「では、お言葉に甘えて使わせていただきます」
 私がノートを受け取ったことで満足げな表情をされている今野さんを見て、少し心が軽くなる。
「それで、進め方なのですが、まずは試しにやってみるのが良いと思うんです。私は藤堂さんの英語のレベルが分かりませんし。本日できた分を見せてもらって、それを基に何か教えられることがあれば教えたいと思います」
 お仕事があるから、私にかかりきりではいられないだろう。けれど、何かしらの指南がいただけることを期待していた。まあ、英語は得意だからできないこともないと思う。
 「分かりました。では、また閉館の時間になったら受付に伺いますね」
 そうあっさり引き下がったことを、後で後悔するとは思わなかった。
 
「なんか、日本語に違和感がある」
 渡された洋書の内容は女の子の学校生活を描いたシンプルなストーリー。使用されている単語も難しいものはなく、英語学習の初期に覚えるようなものばかりだった。
 一つのワードを日本語に置き換えるようにして文章を作った。もちろん、語順は日本語と異なるから、自然な流れになるように情報を並び替える。
 そう。自然な日本語に並び替えたはずなのに、違和感があるのだ。まるで、小学校の頃に学習教材で使用した、形式的な文章のようになってしまっている。日常生活でこんな言葉は使わない。
 もちろん、作品の内容はきちんと理解できている。それとこれとは別の話だ。日本語で文章を書くのが苦手なわけじゃない。就職の選考の際に重要視されていた筆記試験も合格ラインを越えていたのだから、間違いないだろう。けれど、英語の原文を正確に訳すことと日本語の表現を自然にすることが両立できていない。
 何がいけないのだろうか。慣用句を見落としているとか、文法的に誤った解釈をしているとか。気になる表現をネットで調べる。それでも、意味自体に誤りはないようだ。
 今野さんに、もう少し翻訳のコツを聞いておくんだった。そう後悔しても、もう遅い。仕事が忙しいだろうから、次に会えるのは今日の閉館時間後だ。
 今は日本語表現が不自然でも構わない。後でアドバイスをもらってから修正をしよう。そう思い、ただひたすらに英語のワードを日本語に置き換えていく作業に集中した。

 閉館の時間が近づき、周りで本を読んでいた利用者が次々と席を立っていく。結局一日で進んだのは、十数ページほどだった。物語の全体像は把握できたが、日本語に変換していく作業に苦戦したのだ。
 普段から文章を直す仕事をしているのに、こんな質の低い文章を作ってしまうなんて。今野さんに拙い文章を見せることを恥ずかしく思った。
 ノートの文章を読んではため息をつき、重い足取りで受付へと向かう。
 受付にいた女性に声をかけ、今野さんを呼んでもらう。
 急用か何かで、早退されたりしていないだろうか。連絡もなくそんなことをする方ではないと分かっている。けれど、ノートを見せたくなという後ろめたさから少し願った。
 そんな願いもむなしく、奥の部屋から今野さんが出てくる。
「お疲れ様です。翻訳の進み具合はいかがですか?」
「一通り読んでストーリーは把握したのですが、翻訳自体はまだ十数ページしか終わってません」
 恥ずかしさを照れ笑いで隠しながら言う。
「初めてで、そこまで進んでいれば大したものですよ。私が挑戦したときには一日数ページも進みませんでしたから」
「今野さんも翻訳されたことがあるのですね」
「はい、自分でも翻訳してみたいと思って、その本を購入したんですよ。なかなか洋書を置いてる本屋がなくて探すのに苦労しました」
「そうですよね。今じゃ古本屋で置いてあるのも珍しいですから」
 手に入れた経緯を聞いていると、薄い短編の洋書だが少し重みを感じた。
「それでは、藤堂さんの翻訳を、僭越ながら私が拝読してもよろしいでしょうか。少し場所を移動しましょう」
 そう言うと、前回と同じカフェテリアに向かった。移動中は手元のノートから意識をそらすように、他愛もない話をした。それでも、刻々と近づくお披露目の時間に胸の鼓動が収まらなかった。

「どうでしょうか。日本語の表現が拙いですよね。どうしてもうまくいかなくて」
 今野さんがノートをめくるたびに表情を伺う。沈黙が耐え切れず、最後のページを読んでノートを閉じるや否や、早口でまくし立ててしまった。
「そんなに悲観されることはないですよ。とても考えて翻訳されたことが伝わってきました」
「でも、日本が不自然ですよね。英語の原文に、どうしても日本語も引っ張られてしまって」
「確かに原文が“透けて見える”訳文だとは感じます」
「透けて見える?」
 聞きなれない表現に思わず聞き返す。
「日本語の後ろに、英語の原文が隠れているのが分かると言うのでしょうか。『これは英語から翻訳された文章ですよ』と読者に分かりやすく伝わってしまうということです」
「やっぱりそうですよね」
「英語から日本語に変換しようとすると、最初は原文に寄りがちになってしまいます。けれど、翻訳者は黒子なんです」
「黒子?」
 舞台で演出の手伝いをする人を黒子と呼ぶが、それと同じものを指しているのだろうか。
「陰で支える人みたいな意味です。翻訳者はそこに存在を感じさせてはいけません。あたかも最初から日本語の文章であったかのように翻訳することが求められます」
「大変な作業なのに、それを感じさせてはいけないなんて、何だか報われないですね」
 私の納得がいっていないような表情を受けて、今野さんが続ける。
「そうですね。でも黒子に徹して、読者に違和感を覚えさせずに作品を楽しんでもらえることで得られる達成感もあります」
「そうなると、私の翻訳は黒子に徹することができていませんね。何がいけないのでしょうか」
「藤堂さんは、一度本を通して読んだとおっしゃっていましたよね。その時は何か違和感を抱きましたか?」
 初めて洋書に目を通した時を思い返す。
「いえ、英文は普段の業務でも触れているので、スッと頭の中に入ってきたと思います」
「読んでるとき、頭の中ではどんなことを考えていましたか?」
 一ページ目を読み始めた時の感情を思い出そうとして頭をひねった。
「そうですね。文章から想像できる情景などを思い浮かべていたと思います」
「では、藤堂さんが翻訳された文章を読んだときに、それと同じ情景は浮かんできますか?」
 ノートを手渡され、文章に目を通す。最初に原文を読んだときには、冒頭の学校の様子が描かれているシーンで、季節感や校舎の造り、生徒の賑わいなどが伝わってきた。しかし、私の書いた訳文から伝わってくるのは断片的な情報の羅列で、脳内に同じ情景は浮かんでこなかった。
「最初に読んだときに想像できた情景が伝わってこないです」
「自分が読者として受け取った情報や情景を、日本語で読む人にも同じように伝わるよう翻訳する。そうして初めて、自然な表現が作れるのだと思います」
 翻訳の本質が分かったような気がするのと同時に疑問がわいてくる。
「でもそれって、原文と全く同じにはならないんじゃないですか? 原文にない情報を入れることは黒子に徹しているとは言えませんよね」
「そうですね。なので、原文には忠実でいないといけません。けれど、原文に寄りすぎてもいけない。だから一度、頭の中で“意味”を捉えるんです」
「“意味”?」
 抽象的な言葉に理解が追い付かなくなった。
「英語や日本語を理解する時、頭の中に情景といった思考のイメージが沸きますよね。それが“意味”です。ただの英語を日本語に置き換える作業ではなく、英語と日本語の共通イメージを意識することで、原文に引きずられることなく日本語の文章を作れるんです」
 概念的な説明を聞いて、うまく理解できずにいると今野さんが続けた。
「言うは易しで、実際はその感覚をつかむのが難しいんですけどね。なので最初は、翻訳をした後に、原文を一度忘れて日本語を直すのがいいかもしれません。その後には再度、原文と照らし合わせて、意味が離れすぎていないか見直す必要がありますが」
 具体的な方法を聞いて、なんとなく分かったような気がしてきた。
「ちゃんと理解しきれているか分かりませんが、プロセスはなんとなく分かりました。今日、翻訳した文を手直ししてみようと思います」
「そうですね。でも、やはりメディアのお仕事をされているからか、目的がはっきりとした文章になっていますね。表現も子供向けで、キャラクターの口調からもエンタメ性を感じます」
 お世辞かもしれないが、褒めてもらえると嬉しくなる。
「そうですね。ヒューマンエディターとして、AIがどの視聴者層をターゲットに定めているのかであったり、キャラクターの口調であったり。そうしたことは常に気を付けているので、翻訳の際にも意識をしていたかもしれません」
「やっぱり翻訳者の素質があると思います。翻訳でもどういう目的で書かれるかが重要なんです。常に読者はどんな人で、何のために読むのかを意識することで、何に気を付けて文章を作ればいいのかが明確になりますから」
 自分の仕事との親和性が分かり、少し靄が晴れたような気分になる。
「ヒューマンエディットとの共通点もあるんですね」
「どちらも最終的には読者に読まれることが目標ですからね」
 今野さんの説明を聞いて、ますます翻訳に興味が膨らんだ。きっとまだまだ知らないことがいっぱいあるのだろう。もっと知りたい。
「新しい視点から見れるようになって、すごく勉強になりました。あの、もしよろしければ明日も翻訳を見ていただくことはできますか?」
 自分にしては積極的すぎてしまったかと少し後悔を覚えつつも、期待を胸に抱いた。
「そのつもりでした。僕自身も翻訳のプロセスにはまだまだ分からない部分があるので、藤堂さんの翻訳を通して学ばせてください」
 さっきまで抱えていた不安が嘘のように霧散し、胸の奥に熱意が沸いてくるのを感じた。きっとこの本を翻訳し終えた時には、桜庭さんと七瀬さんに言われた課題も解決しているはず。一本の光の筋が雲間から見えるようだった。
 
 家に帰り、ノートの文章を見つめる。自分の拙い文章にむずがゆい気分。けれど、こうして向き合って文章をより良くすることが大切なんだ。
 ヒューマンエディターになったばかりの時もそうだった。研修で初めて手掛けた作品は、誰かに見せるのも恥ずかしい出来だった。それでも、正面から向き合った。先輩の作品を見ては、自分のエディットはどこがいけないのだろうかと反省し、一つずつ改善していった。
 なんでこんな文章を書いちゃったんだろう。幼稚な表現しかできない自分が嫌になる。そんなことを思いながら、ただひたすらに文章を直していった。だからこそ、ヒューマンエディターとして先輩方と肩を並べられるようになったんだ。
 スランプに陥ったばかりの時には、またスタートラインに戻されたような気がして、とても悔しかった。また最初からやり直しなんだと。
 でも違った。ヒューマンエディターとしてやってきたことが今の私を作っている。翻訳を通して、もうひと段階上を目指すための新たなスタートラインなんだ。
 前までの私だったら、こんなことを思えなかった。今野さんの翻訳に対する熱意が私にも伝播したのかもしれない。そう思うと少し可笑しくなって笑いがこみあげてくる。
 きっといい方向に向かってる。
 大丈夫。私は今、間違っていない。

「一日でこんなに変わるなんて。見違えました。プロの翻訳者が手掛けたみたいです」
「そこまで言っていただけるなんて、恐れ多いです。今野さんにアドバイスをいただいたおかげですよ」
 コツがつかめてきたのか、今日はペースが上がって、だいぶ進めることができた。今野さんの反応を見るに、質も上がったのだろう。
「私が翻訳するより断然うまいです。もう教えることないです」
「そんなことありません。まだまだです。そういえば、今野さんもこの本を翻訳したことがあるんですよね。今度ぜひ読ませてください」
 恥ずかしそうに笑いながら今野さんが答える。
「学生の頃に趣味で翻訳しただけですから、お見せできるものじゃないですよ。藤堂さんほどうまくないですし」
 私は少し首を横に振って言った。
「そんなことないと思います。翻訳って、もちろん原文が一番正しいと思うんですけど、どういう日本語になるかは人によって違うじゃないですか。だから、きっと今野さんの翻訳も今野さんならではの良さがあると思うんです」
「そういっていただけて嬉しいです。でも、多分もう捨ててしまったと思います。何年も前ですから」
 もったいないな。せっかく時間をかけて翻訳したのだろうに。そう思いつつ続けた。
「そうなんですね。それは少し残念です。実は解釈に悩む箇所があって、今野さんがどう翻訳をされたのか教えていただきたかったんです」
「どこの部分ですか? 翻訳したもの手元にありませんが、覚えている範囲であればお答えできると思います。参考になるかはわかりませんけれど」
「ありがとうございます。二十ページのこの部分です」
 問題の文章を指さしながら伝えると、今野さんが本をのぞき込む。
「ああ、ここは私も悩みました。確か、何か他の作品を基にしたセリフだったと思うんですが……そうだ! 当時はやっていた映画のワンシーンに、別れの言葉として出てくるんですよ」
 そうか。今まで電子辞書とばかりにらめっこをしていたが、もっと深く作品を知る必要があるんだ。その情報にはインターネットも駆使して調べないとたどり着けないだろう。
「そういう背景があるんですね! でも、このまま訳しちゃうと、別れの言葉だとは伝わらないですよね。だからと言って、そのまま『さよなら』と訳すにも、もったいない気がします」
「そうですね。できるアプローチとしては、おっしゃるように意味を優先して『さよなら』と訳すか、日本の作品で別れの言葉の代わりに使う言葉を持ってくるかですかね。昔であれば、カタカナに直して原文そのままの言葉を残してもいいと思うのですが、現代ではこういう表現は受け入れられませんよね」
 エディットルールは、頭の中の引き出しの一番取りやすい場所に入っているようで、すぐに思い出せる。
「海外特有の文化であったとしても、AIが翻訳するときに全て日本の文化に置き換えるのが主流ですね」
「それも分かりやすくて良いですが、やっぱりそのまま翻訳することで異文化も知ることができたり、異国の雰囲気を残すことができたりと、元の作品の良さを残せると思うんですよね。それに、自分で調べてみて、こういうことかって合点がいく瞬間が嬉しいですし」
 今野さんが続けて言った。
「ですが、原文の表現に合わせるのか、日本の表現に置き換えるのかは、基本的に翻訳者の判断です。藤堂さんが決めていただくのが良いと思います」
 ヒューマンエディターとしての私であれば、迷うことなく「さよなら」を選ぶだろう。それでも翻訳者としての私は、原作者がその表現を選ばなかった思いを大事にしたい。
「少し考えてみます」
「ぜひ藤堂さんらしい翻訳をしてみてください。原作は原作者のものですが、この翻訳は藤堂さんの作品でもあるんですから」
 私の作品。ヒューマンエディットをするときには、そんなこと考えもしなかった。AIから生み出される作品は、AIの作品だ。私たちヒューマンエディターがエディットをしたからといって私たちの作品になることはない。エディットに私たちの色は出さず、AIの作品に支障のない範囲内で“人間味”を足す。
 でも、翻訳は原作者がいても、翻訳者の手が加われば翻訳者の作品でもある。原作に忠実であることは大前提だ。翻訳者が原作の良さ生かすこともあるし、逆に良さを殺してしまうこともある。それでも、どう原作を日本語で表現するかは翻訳者次第だ。
 翻訳って、なんて窮屈でなんて自由なんだろう。
「私、翻訳が好きかもしれません。これがヒューマンエディットに生かせるかどうかは、まだ正直分かりません。でも、挑戦してみて良かった。あのとき、翻訳することを勧めていただき、ありがとうございました。私、残りの期間で絶対に翻訳を完成させます」
 そう言って、その場から駆けだした。
 すぐに続きに取り掛かりたかった。今野さんに別れを告げたかどうかも思い出せない。この熱い思いがあるうちに、翻訳にすべてを注ぎ込みたかった。

 今日が期日の最終日。数十ページあった洋書も、残すところわずかだ。左手でつまんだページの厚さを感じて、これまでの苦労を思い返す。
 一週間前の私は、まさかこんな大変なことに取り組むなんて思っていなかった。原作があるから、何かを0から作り出したわけじゃない。けれど翻訳はルールだけの世界じゃなかった。どう表現するかは自分の腕にかかっている。
 文字を目で追い、頭に入れる。頭の中で理解して、情景を描く。情景を文字に起こし、紙に書く。ヒューマンエディットでは使わない部分の脳が活発に動いているのを感じる。  
 ただ文字を置き換えるだけでない。
 なぜこういう表現になっているの?
 どうしたらそれをうまく活かせるの?
 もっとふさわしい言葉はない?
 前の文との繋がりはおかしくない?
 次々と出てくる問いに自分の頭を使って答えを導き出す。翻訳に唯一の答えはない。だから、どこまでこだわれるかは自分と時間との勝負だ。
 さっきまで青空が広がっていた窓の外で、日の光が温かみを帯びてくる。閉館の時間がタイムリミット。それまでにどうにか間に合わせたい。
 耳に入ってくるのはノートの上を走るペンの音と、調べもののためにパソコンのキーボードを叩く音だけ。自分の周りのヒトやモノの存在を忘れるくらいに集中している。
 視界の右下に移る、白い空白。近づくたびに、あと少しあと少しと胸が高鳴る。小学生の頃、白いゴールテープに向かって走った、あの時のラストスパートのようだ。物語の最後が作品の印象を決める。はやる思いを落ち着かせて、焦らず着実に。

「間に合った!」
 ちょうどその時に閉館のアナウンスが流れた。窓の外はもうすでに日が落ちて、オレンジと暗闇の間にグラデーションが広がっていた。
 本当であれば、何度か読み直して手直しをしたかった。けれど期限内に終わらせることができたことにホッとしていた。ちゃんと約束を守れた。
 ノートと洋書を胸に、早歩きで受付まで向かった。
 受付にたどり着くと、いつもは他のスタッフがいるところ、今野さんが立っていた。
「終わりました!」
「お疲れ様です。そろそろいらっしゃるだろうと、お待ちしておりました」
 やはり、待っていてくれたんだ。嬉しさ半分、待たせてしまった申し訳なさ半分。
「お待たせしちゃいましたね。でも、まだ見直しができていないので、完璧ではないと思います」
「私が待ちたくて待っていたんですよ。今か今かと読むのが待ちきれなかったんです。オフィスでソワソワしてたら、外で待ってるよう追い出されちゃいました」
 首の後ろをかくようなしぐさをしながら、恥ずかしそうに笑って言った。
 そんな様子に可笑しくなって、つられて私も笑った。

 いつものようにカフェテリアのお決まりの席に座る。それでも、いつもとは少し違う緊張感があった。
「こちらをどうぞ」
「ありがたく、読ませていただきます」
 うやうやしくノートを差し出すと、今野さんも頭を下げて受け取る。卒業証書の受け渡しのようだ。
  他人に自分が手掛けた文章を読まれるのは、ひどく怖い。ヒューマンエディットの時にもフィードバックをもらうことが頻繁にあるから、もうそろそろ慣れてもいい気がする。それでも、何度経験しても心臓がバクバクするのだ。
 自分のミスが指摘されることに対しての恐怖もある。それと同時に、何か頭の奥にある取り出してはいけない記憶のようなものと反響している。そんな怖さを感じる。
 私の過去の記憶の中には靄がかかっている部分がある。もちろん、すべての過去の記憶を覚えている人なんていないから当たり前だと思うだろう。でも、それとは少し違う感じだ。
 正確に言えば、思い出した記憶の中に靄がかかっているのだ。何かのたびに過去のいくつかのシーンが思い浮かぶのだけれど、自分を何かから守るように抜け落ちた部分がある。
 人に自分の文章を読まれているときは、その靄の先が見通せそうになる。見ないほうがいいと、心の中で誰かささやく。早く見ないとと、ささやく誰かもいる。
 最初にそれに気が付いたのは、ヒューマンエディターとして働き始めたばかりの頃だった。初めて任せてもらった作品のフィードバックのため、先輩が私の目の前で文章を読む。その時に、意識が遠のくような感覚があった。視覚には先輩がディスプレイをのぞき込んでいる光景を捉えているのに、頭の中で映し出されている光景は、あの靄がかった記憶だった。

「藤堂さん?」
「あ、はい。すみません。ちょっとボーっとしてしまって」
 物思いにふけっていると、今野さんから声をかけられた。あの時の先輩と今野さんが重なって見えて、自分の現在地を一瞬、見失った。
「これだけの分量を一週間で翻訳したんです。疲れていらっしゃるんでしょう」
「そうですね。お恥ずかしながら、寝る間も惜しんで取り組んでました」
「それは心配です。今日はゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。そうします。それで、いかがでしたか?」
 おずおずと今野さんを見上げた。
「うん。素晴らしかったです。途中から翻訳されたものを読んでいる感覚が無くなるくらい、とても自然な文章でした。特にキャラクターの描写が好きです」
「そう言っていただけて嬉しいです。でも、完ぺきではないですよね。どこに改善の余地があるのでしょうか」
 今野さんは少し考えるそぶりを見せると、こう言った。
「藤堂さんがいない所でしょうか」
「私がいない?」
 何を言っているのか分からなかった。原作者の作品なのだから、私はいらないじゃないか。
「ある意味、完ぺきではあるんです。文章がきれいで、原作に近い文章になっている。きっと前に私が黒子という言葉をお伝えしたことも意識されているのでしょう。藤堂さんは、まさに黒子です。だからこそ“人間味”を感じないというか、翻訳者が手掛けることでの介在価値が足りないと言うか」
今野さんは頭をひねると、言葉を絞り出すように言った。
「AIの作品みたいなんですよね」
「AIの作品」
 私の気分を損ねたと思ったのだろう。慌ててフォローの言葉を入れる。
「今のは気にしないでください。本当に完ぺきです。初めて翻訳されたとは思えないくらい。やはりヒューマンエディターとして日々活躍されてるだけありますね」
 AIの作品とはどういうことを言ってるのだろうか。正確性という意味では評価されているのだろう。でも“人間味”を感じないとは、ヒューマンエディターとして失格なのではないだろうか。
「あの。具体的に、どういう所に“人間味”が足りないのですか?」
 慌てて今野さんが答える。
「本当に気にしないでください。私のとらえ方の違いなので」
「今野さんにとってのAIの作品と“人間味”のとらえ方ということですか? 今野さんは“人間味”に対してどういう捉え方をされているんですか?」
 まるで、初めて会ったあの日のようだ。けれど、今回は私が質問者となり、今野さんを問い詰めている。
 今野さんは表情が分かりやすい。あからさまに余計なことを言ってしまったと読み取れる顔つきをしていた。
言葉を迷うように口を開けかけては閉じて、うーんと唸る。
 困らせている自覚はある。それでも、ここで聞いておかなければいけない。そんな気がした。
「お願いします。普段、“紙の本”に親しんでいる今野さんだからこそ分かることもあると思うんです」
 少し考え込んだ様子を見せた後、観念したように困ったような顔で言った。
「分かりました。でも、これは私の主観です。これを聞いた後であまり深く考えたりしないでくださいね」
 私が首をわずかに動かしてうなずくのを見ると、続けて言った。
「私はヒューマンエディットが施された後のAIの作品にも違和感を覚えています。そこにあるのは加工された“人間味”であり、“紙の本”の本当の“人間味”とは似て非なるものだと思うんです」
 私の表情を伺うようにしながら、続ける。
「もちろん、AIが作り出した生の作品よりは、ヒューマンエディターに加工された作品の方が親しみやすいです。それでも、人の手で0から作り出された“紙の本”とは異なる。そう感じるんです」
 桜庭さんも同じようなことを言っていた。『ヒューマンエディターとしての“人間味”』と『人間が一から作り上げた“紙の本”の本当の“人間味”』。私の翻訳は前者なのだろう。私はもう、『ヒューマンエディターとしての“人間味”』に染まっていると言うことなのだろうか。
「あくまで“紙の本”に親しんでいる私の主観です。あまり気になさらないでください。今、大衆に受け入れられているのはヒューマンエディットが施されたAI作品なんですから」
 そうだ。私は翻訳者ではない。あくまでAIの作品を引き立たせるヒューマンエディターだ。
 視聴者に作品を届ける目的は一緒であれ、求められている役割は異なる。ヒューマンエディターにオリジナリティは必要ない。であれば「AIの作品みたい」だなんて、最高の誉め言葉ではないだろうか。
 頭ではそう考えているのに、どこか心が追い付いていない感じがした。
 「ありがとうございます。そうですね。確かに私はヒューマンエディターです。この一週間、翻訳と向き合ってみて、その違いが分かりました。仕事に活かせる部分もあると思います。それを糧に、明日からはヒューマンエディターとして頑張ろうと思います」
 今野さんはうなずいて、言った。
「無理にお勧めしてしまったので、藤堂さんの目的が達成できるのか少し不安に思っていました。何かヒントになったのならよかったです」
 ふと手元の洋書とノートを思い出した。
「この洋書とノート、貸していただいて、ありがとうございました。洋書はお返ししますね。ノートは……」
「そのまま持っていてください。この1週間、藤堂さんが頑張った証なんですから。きっと何かの役に立ちます」
「ありがとうございます」
 ノートを大事に鞄の中にしまい込んだ。
「お仕事がお忙しいと思いますが、また図書館に遊びに来てくださいね。まだもう少しの期間であれば、翻訳書のコーナーも残っていますので」
「はい、きっとまた来ます。本当に今野さんには、いくらお礼を言っても足りません」
「こちらこそです。貴重な体験をさせてもらいました。ありがとうございます」

 たった1週間、それも閉館後の数時間を一緒に過ごしただけなのに、なぜだか昔から知っているような存在になっていた。図書館に用がなくても、今野さんに会いに行きたい。そう思える程度には親しみが生まれていた。
  この人にはまた会えるだろうな。この人と会うのは今日が人生で最後になるかもしれない。そういう予感みたいなものは、人との別れを経験するたびに敏感になっている。きっと今野さんとは、また会うだろう。そんな予感を胸に、帰路に就いた。

 

― 7.葛藤 ―


 久しぶりの自分のデスクだ。季節の花をモチーフにしたカレンダーに自分用のマグカップ。
 まだ、ここに自分がいていいんだと言われている気がしてほっとした。
「おはよう。一週間どうだった?」
「七瀬さん、おはようございます。時間をいただいたおかげで、たくさん学ぶことができました」
「それは良かった。桜庭さんも心配してたから、朝来たら報告してあげて。毎日、私の所に相談しに来るくらいだったんだから」
 この一週間の作業は毎日、日報として提出していた。一週間のまとめとして報告書も作成した。報告の際に持っていくことにしよう。
「ご心配をおかけしました。今日からは後れを取った分も精一杯頑張りますので、引き続きよろしくお願いします」
「頼もしいね。新しい担当作品はもう送ってあるから、後で確認しておいて」
 そう言うと、七瀬さんはミーティングに参加するため、会議室へと向かった。
 パソコンを開くと、七瀬さんからのメッセージが届いていた。ファイルをダウンロードし、作業の準備に取り掛かる。

 ふと入口の方を見やると、ちょうど桜庭さんが出社してきたところだった。報告書を片手にデスクに向かう。
「おはようございます。一週間、時間をいただき、ありがとうございました。報告書を作成したので提出しますね」
「おはよう。後でじっくり読ませてもらうよ。1週間どうだった?  洋書を翻訳したと日報に書いてあったと思うが」
「はい。いつもはAIが手掛けている部分も経験することで、そのプロセスが明確になりました。すごく大変な作業でしたけど。ヒューマンエディターとしても取り入れられることがあると感じています」
 桜庭さんは、遠い目をしながら言った。
「そうか。私も昔、翻訳をしたことがあってね。ついその頃のことを思い出してしまったよ」
 翻訳をしたことがあるなんて、なんだか意外だ。
「桜庭さんも翻訳をされていたのですね」
「遊びでね。学生時代の友人に翻訳者をやっている奴がいてね。そんなに面白いなら俺もやってみるかと軽い気持ちで手を出してみたんだ。あんな大変な作業、もうできないと思ったね」
 そうは言いながら、どこか嬉しそうにも見える。
「ご友人は今も翻訳を?」
「いや。さすがに職業としては食っていけないから本業は別の事をしているが、今も趣味で続けているはずだよ」
 確かに現代において、翻訳を仕事にするのは難しいだろう。でも、その才能を別の職業で発揮できているのかもしれない。例えば、ヒューマンエディターとか。
「その方もヒューマンエディターをされているのですか?」
「いや。あいつはヒューマンエディターを嫌ってるからな。AIが作った作品の手直しなんて翻訳じゃない。そんな仕事をするくらいなら全く関係のないを選ぶ。とか言って今は全く無関係な仕事をしてるみたいだ」
「共通する部分も多いと思うんですけどね。少しもったいない気がしちゃいます」
「そいつにとっては、翻訳と違う部分こそが大事だったらしい」
「そうですか」
 ご友人にとっての大事だった部分。翻訳にしかなかった部分って何なのだろうか。そう考えながら自分のデスクに戻った。

 一週間、作業に取り掛かれていない分、これまで以上クオリティの作品に仕上げなければいけない。ちょっとしたプレッシャーを感じつつ、作業を進めた。
 翻訳に取り組む中で、ヒューマンエディットに取り入れられる要素をずっと考えていた。その中で、考えるヒントとなったのが、翻訳とAI作品が作られるプロセスの違いだった。
 私が担当している海外作品の場合には、海外で作られたAI作品をAIが日本語に変換する。
 AIは文法や単語のデータをもとに原文の構造を把握する。同時に、世界各国から集められた学習データをもとに文章のニュアンスをくみ取り、自然な表現になるよう翻訳している。この際に、文化的な差異がある場合には、日本の文化に置き換えられるそうだ。AIは常に学習して進化を続けるため、細かい部分までは分らないが、海外のAI作品が日本語に変換されるプロセスは大体こんな感じだと思う。
 一方で翻訳は、文法や単語、文脈や背景情報などから意味を解釈する。その後、その意味を日本語で捉えなおして言語化する。これが、恐らく人間の頭の中で行われているプロセスだろう。
 AIが膨大な量のデータを持っているのに対し、人間は脳の容量は少ない。電子辞書やインターネットを駆使しても正確性という意味では、AIには敵わない。
 でも、作品の表現の再現性はどうだろうか。AIが学習データをもとにニュアンスをくみ取るとはいえ、そのイメージを把握したうえで変換できているだろうか?
『自分が読者として受け取った情報や情景を、日本語で読む人にも同じように伝わるよう翻訳する』
『英語と日本語の共通イメージを意識する』
 今野さんから教わったことがよみがえってくる。
 人間の想像力で、作者の表現したかった情景をイメージとしてくみ取る。そして、人間の表現力でイメージを言語化する。翻訳の優位性はここだと思った。
 これまではAIを疑うことなく、あまり原文は参照しないでエディットをしていた。他のエディターもそうだろう。でも、イメージを把握して表現するには原文の理解が必要だ。本当の“人間味”を足すため、AIの作品にはない翻訳のプロセスを取り入れよう。

 原文を参照しながら作業をしていると、原文を読んだ時とAIに変換された日本語を読んだときで、浮かんでくるイメージが異なることに気が付いた。
 文法や単語は抜け漏れなく情報が入っているが、その繋ぎや修飾といった部分で、もっとふさわしい表現があると感じる。意味自体に大きな間違いはないから、これまではあまり気にしていなかった。けれど、うまく表現を変えることで、より“人間味”の増した作品になるんじゃないかと期待が膨らんだ。
 原文を確認しながら作業をする分、以前のペースよりは落ちてしまう。きっと慣れていくことで、スピードはアップするだろう。このスタイルを自分のものにできるよう目の前の文章に集中した。

 それから一週間が経ち、作品が完成した。
 納品前にはチェックとそのフィードバックがあり、修正をかけて作品が完成となる。いつもは同じグループのエディターと相互チェックを行うが、今日は七瀬さんが担当してくれるという。図書館で過ごした一週間の後に担当する初めての作品だからだろう。
 会議室のドアをノックし、中に入ると七瀬さんが奥の席に座っている。テーブルをはさんで向かい合う形で、席に座った。
「藤堂さん、お疲れさま。作品チェックしたよ」
「お疲れ様です。確認ありがとうございます。フィードバックよろしくお願いします」
 フィードバックの時間はいつも慣れない。七瀬さんが見ているのはディスプレイ上の作品なのに、まるで自分の顔を真正面から見つめられているような気分に陥る。
「まず、いつも通り読みやすい文章だったよ。正確性も確保されていて良かった」
「ありがとうございます」
 前置きとはいえ、良い点があったことにほっとする。
「スピードは以前よりは落ちているようだったけど、慣れてくれば、ここは改善されると思う」
「はい、早く慣れるように精進します」
「うん。それで、気になったところなんだけど。いつもよりエディット箇所が増えてるよね。これは、何か意識して作業してたの?」
 エディットを入れた箇所は数値化される。いつもよりその数値が高かったのだろう。
「はい。原文を読んで自分自身で理解してから、AIの文章を直すというプロセスを入れたことで、その分エディットが増えたんです」
「それは、AIの文章が、原文の情報通りでなかったてことかしら」
「必要な情報は入っていました。ですが、自分で原文を読んだ時とAIが日本語に変換した後の文章を読んだ時で、イメージが異なっていたんです。なので、その部分を原文に寄せるようエディットをしてみました」
 うまく伝わっただろうか。感覚的な部分も大きいプロセスのため、説明に難しさを感じる。
「必要な情報が入っている状態でもイメージが異なるというのは読者も気が付く部分?」
「おそらく、原文を読まないと分からないと思います。エディット前も前後の文脈は通っていますから」
 七瀬さんは、ディスプレイの文章をのぞき込んで、少し考え込んだ。
「正直に思ったことを話してもいい?」
 心臓がドクンと鳴った。
「はい、お願いします」
「私は、前の藤堂さんのスタイルの方がいいと思う。前にスタイルを変えても戻してもいいって言っちゃった手前、無責任なんだけどね」
 眉を少し下げて、続けた。
「もちろん、なるべく原文に近い作品になるのが一番だと思う。でも、イメージっていう定性的なものだと評価が難しい。きっと評価軸が“人間味”だけであれば、このスタイルもいいんだと思う。だけど今、求められているのはスピードなの。どれだけ効率的にかつ、どのエディターも同じようにできるか」
 少しだけ私の様子を伺うと、こう言った。
「だから、できれば元のスタイルに戻してほしいと思ってる」
 七瀬さんからのフィードバックはいつも的確だ。何が問題で、どうすれば解決できるのかをすぐに見抜く。だから、今回も元のスタイルに戻すことが正しい。
「そうですね。やっぱり、前の方法に戻します。今回のものも納期までには直すようにします」
「それが良いと思う。あなたにはヒューマンエディターとしての才能があるんだから」
 ヒューマンエディターとしての才能。つまりエディットルールに従い、AIの作品の邪魔をしないようにパターン化された“人間味”を足す、前の私のスタイルのことだろう。
 そのためには、自分の思考を消さなきゃいけない。前までの私であれば、求められていることに自分の持ちうる限りの力で応える事が心地よかったはずだ。なのに、その点で自分が表浮かされることに違和感が芽生えていた。

 納期には間に合わせなければならない。たんたんと文章をルール通りにエディットしていく。
 どうしてこういう表現なのだろう?
 原文はどんな単語が使われているのだろう?
 頭に浮かぶ疑問を無視しては、必要なところに必要なだけ“人間味”を加えていく。
 出てこないで、私の思考はいらないの。パターン化されたスタイルからはみ出ないように集中して。余計な思考をはさむことなく、ただシステム的に。そう、いつでも正しいAIのように。

 今日も残業だった。一刻も早く元のスタイルとスピードを取り戻さなければいけない。最近はその思いから、以前までの一日のノルマを無理にでも終わらせることを目指している。
 もう、オフィスには私以外誰もいない。最近は、ノルマを終えるといつもこのくらいの時間になっている。
 桜庭さんや七瀬さんには、根詰めすぎじゃないかと心配された。少しでも、エディットにのめり込んでおきたい。そうでもしないと、余計な思考に苛まれる。  
 初めて図書館に行ったあの日から、ずっと“人間味”について考えている。
『一から人間が作ったかのように』
『人間に受け入れられやすいように』
『人間がより楽しめるように』
『本当に人間から生まれたもの』
『直接語り掛けられているような気がして、心にしみるもの』
『AIの作品みたい』
『ヒューマンエディターとしての才能』
  いろんな言葉が頭の中を錯綜する。きっと、こんなにも悩むのは自分にとっての“人間味”がちゃんと確立してないから。
 これまで、他人や社会に言われたことが私を作ってきた。最善へとつながるレールから外れないように、正しいから逸れないように。いつでも周りを見て、自分の進むべき道を確認していた。
 今、他人は社会は、私に何を求めている?
 効率化のためにAIを求めている。
 社会に求められるには、私もAIのように思考を排除して......
 私は人間なの? AIなの?

 考え事に気をとられていると、急に体が浮遊する感覚がした。身体中に電気が通ったような衝撃が走って気付く。あっ階段を踏み外した。このままだと受け身の姿勢がうまく取れずに、頭を打つかもしれないな。
 こういう瞬間の方が、人間の脳は活発だ。奥底に眠る過去のことまでもがよみがえってくる。
  そうだ、私は否定されることが怖いんだ。
 昔、父と私が大切にしていた本をクラスメートに否定されたとき、自分自身も否定されたようだった。
 それが耐えられなくて、父を否定してしまった。
 だから、お父さんは死んだんだって。私のせいだって――。

 過去に沈み込んでいた意識が、引き戻されるのを感じる。誰かに手をつかまれたと気づくのに数秒かかった。
「危ない!」
 手を強く引っ張られて重心が後ろに傾き、後ろにいた人に寄りかかるような姿勢になる。
「藤堂さん、大丈夫ですか?」
 なぜ名前を知っているのだろうと驚き後ろを振り向くと、そこにいたのは今野さんだった。
「今野さん?」
「すみません。焦っていたので、腕を強く引っ張ってしまいました。お怪我はありませんでしたか?」
 状況がやっと理解できた。急いで自分の姿勢を立て直そうとする。
「助けていただいて、ありがとうございます。痛っ」
 足をひねったようで、動かすと痛みを感じた。
「捻挫でしょうか。近くに私の家があるので、少し冷やしましょう」
「それは、申し訳ないです。大丈夫です。このくらいなら歩いて帰れますよ」
 そう言って一歩踏み出した瞬間、さっそくバランスを崩し、今野さんに支えられる。
「このままお返しして、ケガを増やされてしまっては、私も後味が悪いですから」
「すみません。ご迷惑おかけします」
 恥ずかしさで赤く染まっているであろう顔をそらしつつ、今野さんに従うほかなかった。

 今野さんの家は、出会った場所から数分もしない場所にあった。いつも何気なく通っている道の近くに住んでいるなんて。もしかしたら、どこかですれ違ったこともあるのかもしれない。
 家の中はモノクロ調で統一されていて、部屋の一角を占有する大きな本棚があった。並べられている“紙の本”からは、持ち主のこれまでの人生が透けて見えるようだった。
 促されるままにソファに座っていると、テーピングと保冷剤を持ってきてくれた。さすがに手当ては自分でやろうと、今野さんからそれらを受け取る。
「テーピングと保冷剤までお借りして、すみません。本当にありがとうございます」
「大きなケガじゃなくて良かったです」
「残業続きで疲れてるところに、考え事をしながら歩いていたのがいけませんでした」
「お忙しいのですね。無理はなさらないでください」
「ありがとうございます」
 足首を固定するようにテーピングを巻き、その上から保冷剤を当てる。
 今野さんの部屋の本棚を見て、さっきよみがえってきた過去の記憶を思い出した。
「本、地下室......」
「え?」
 無意識につぶやいた言葉を今野さんが聞き留めた。
「あ、すみません。急に変なことを言い出して。さっき階段から落ちるって 思った瞬間に昔の記憶がよみがえってきたんです」
「それは、どんな記憶だったんですか?」
 興味深そうに聞かれ、恥ずかしく思いながらも続けた。
「子供の頃の記憶です。昔、家に地下室があって、そこに“紙の本”がたくさんあったんです。今まで、なぜか思い出せなかったんですけど。何かの拍子に記憶がよみがえることってあるんですね」
 変なことを言ってると思われてないと良いな。でも今野さんだから話せる。少し恥ずかしくって笑顔でごまかした。
 すると、それを聞いた今野さんがかしこまった声で言った。
「藤堂さんに、話さなきゃいけないことがあります」
 急にどうしたのだろうか。何か、図書館であったのだろうか。次の言葉を待つ。
 今野さんは本棚に向かい、一冊の本を取り出すと、私に手渡した。
 本の表紙には、かすれた文字で本の題名と、母から聞いたことのある、今は亡き祖父の名前がその本の翻訳者として書いてあった。
「どうして?」
「これは、あなたの本です。あなたのおじい様が翻訳された本。ずっと返さなきゃと思ってました」

 なぜ、私の本だと分かるのだろうか?
 私の祖父が翻訳者?
 今野さんはこの本をどこで手に入れたのだろうか?
 次々と疑問があふれていく。

「いきなり、すみません。順を追って説明します
 そう前置きをすると、今野さんは語り始めた。
「実は僕たち、図書館でお会いする前に、会ったことがあるんです。小学生の時に同じクラスだった佐藤悠馬。覚えてませんか? 今は親が離婚して、母方の性である今野ですが」 

『悠馬くん!』
 ふいに小学生時代のクラスメートの声が聞こえた気がした。確か、クラスで人気者だった男の子の名前だ。いつでも周りには友達がいた。それを羨ましく、教室の隅で見ていたのが私だ。
 少しずつ記憶の破片がつながっていく。
 “紙の本”の授業があった日、声をかけてくれたのは彼だ。
 地下室に連れて行ったのは彼だ。
 あの日、“紙の本”を読んだのは彼だ。
『古いよね』
『なんかちょっと臭いし』
『汚れてる』
『そうだよね。こんなのない方がいいよね』
 あの時の感情が一気によみがえってくる。私が教室で自慢しなければ。私がみんなを連れてこなければ。
 私がお父さんにあんなことを言わなければ。

 「地下室に招待してくれたあの日、返すのを忘れて持って帰ってきてしまったんです。ずっと返したいと思ってました」
 今野さんはそう言って、申し訳なさそうに下を向く。
「でも、あの時に言った言葉をどう謝ったらいいのか分からなくて。その後すぐに、親の離婚で引っ越すことになって、今日まで返せないままでした。」
 何も答えられないままでいると、今野さんが続けた。
「小学生の頃、僕はずっと人にどう見られているか気にしてました。成績は一番じゃなきゃいけない。みんなに認められなきゃいけない。だから、あの時“紙の本”が全く読めなかったことを皆に知られてくなくて、思わず口をついて出てしまったんです」

『こんなの古くて読めないよ』
 あの時の言葉が頭の中でリフレインする。

「僕の言葉のせいで、藤堂さんの大事なものを傷つけてしまった。そう思ってずっと謝りたかった。本当にごめんなさい」
「そんな昔のこと気にしないでください」と言いたかったが、言葉がのどにつかえて出てこなかった。
「都合がいいと思うけど、藤堂さんが“紙の本”を見せてくれたおかげで、僕にとっての大事なものと出会えたんです。ありがとう」
 私の中で固く結ばれていた糸が、スルッとほどかれていくのを感じ、目から涙がこぼれそうだった。あの時の彼を責めていたわけじゃない。
 自分の中にしまっていた大事なものを、みんなの目に触れさせることで否定させてしまった自分をずっと責めていた。

 もう自分を責めなくていいんだよ。
 あなたのしたことは間違いじゃなかった。
 今なら、昔の自分にそんな言葉がかけられる。
 でも、お父さんは許してくれるかな。ひどいこと言っちゃった。子供の私が問いかけてくる。

「私、あの日、お父さんにひどいこと言っちゃって。皆が“紙の本”を悪く言ったから、良くない物なんだと思って」
 感情の波に乗るように言葉が次々と出てきた。
「だから、『捨ててよ』って。お父さんの大切な本だったのに。だからお父さんが死んじゃったのも、私があんなこと言ったせいだって思って……」
 せき止めていた涙が、言葉を続けるたびに次々と目からあふれ出した。
「あなたのせいじゃありません。あなたのお父様の死の理由は僕には分かりません。でも、自分が大切にしているものをあなたが大事だと思ってくれた。その事実は一度否定されたぐらいでは揺らがないものです」
 今野さんが真っすぐ目を見て言う。
「でも……」
 その目が信じられなくて、下を向いた。
「あなたがが感じているものはあなたの感情が生み出したものだと思います。おじい様のことやお父様の事をもう少し知ってみれば、本当のことが分かるんじゃないでしょうか」
 父と祖父について知る。言われて気づいた。私は、ずっと家族の事を知ることから逃げていた。
 母は祖父の事を話したがらなかった。父が亡くなってから、父の事も話さなくなった。だから、あまり聞いてはいけないのだと思い、話題を避けていたのだと思う。
「すみません。出過ぎたことを言ったかもしれません」
「こちらこそ急に変な話をして、すみません。今野さんにこんなことを言っても仕方がないのに。でも、おかげで向き合う覚悟ができたような気がします。ありがとうございます」
 前に進むためには、ちゃんと過去と向き合わなくてはいけない。どこかに置いて来てしまった、大事なものを取り戻すために。


第三章に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ、あともう少しだけお付き合いください。

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