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社交辞令は面倒だ→そして今の日本よりもっと冷たいけどある意味優しい世界を想像する

ことが有ります。
他の国はどうかは分かりませんが、日本は
社交辞令という言葉が有るように、
本音と建前を分けたり少々複雑な文化が存在しています。

自分(達)とは相容れない、理解出来ない、好きにならない・なれない、距離が有る、苦手と感じる人でも「今度遊びに行きましょう」「今度飲みに行きましょう」的な言葉を言う人が多いのかもしれません。

凄くそういった言葉を言われる機会が有ったかと問われれば
そこまで多くは無いのですが、
自分のような何人かと遊んだり飲む機会が殆ど無いタイプは
ついついそれらの言葉を本気にしていまう傾向が有ります。

ですから、ちょっと気分が上がり社交辞令を言った相手の本音をなんとなく悟りまた気分は下がる、という繰り返しをするというパターンは有りましたし、これからもそんな事が起きるはずです。
それを考えれば、社交辞令は物事を円滑に進めるためのものとされていますが、ある一種の残酷さを感じてしまいます。

この世界をちょっと極端に表現すれば、
「一見皆どの人もある程度は優しいが、本当に自分に興味を持ったり好きになったり理解してくれる人が物凄く見え辛い世界」
という感じです。

自分は時にこれと対照的な世界として、
「自分に興味を持たない好きにならない理解してない人ばかりだけど、そうでない人は数少ないが最初から好意的で見つけ易い世界」
を想像します。

こういう世界の方がある意味冷たいけど優しい世界なのかなと考えることも。駄目な時は駄目、良い時は良いという、ある意味本音、もしかすると欧米の世界に近いのでしょうか。

社交辞令を真に受けて、妙にその言葉を発した人に希望を持ったりちょっと好意を抱いたりするのは時間の無駄で、相手にとっても面倒で厄介なことも。男→女のストーカー云々の問題も
ここらへんと関連してそうですね。
これについても今度書いてみようかなと思いますよ

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