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段差と平坦

自分の生活があまりにも平坦に感じられる。
そう思えてしまうのに、どうしようもない。
私は平坦だと思っているけれど、感じていない部分で小さな段差や大きな段差を登ったりもしていたり、平坦だと思っている私の生活は人にとってはとっても平坦ではない、あるいはすごい生活で、憧れの生活なのかもしれない。
少なくとも、いいなあ、と言われるような生活だったりもする。そう思う。

でも、あれ、私はなんのために生きているんだっけ。
そんな根本的な問いを思わず考えてしまうことが最近ある。
それは決してネガティブなことではなくて、ずっとポジティブで、でも根源的なもの。あまりにも既定路線にはまりすぎた私は、でも、あのとき求めていた安定を手にいれてはいて、それはとっても幸せなことではあるのだけれど、むしろそれを手に入れたい一心だったのだけれど、行き詰まってしまった。
ただただ自分の生活を滞りなく心配事もなく自分の力で過ごす。
誰にも迷惑をかけず、むしろ誰かを助けられるように独立する。
やっと、そんな望みを叶えられたような気がして、少し自分を満足させられたような、走りっぱなしだった自分を立ち止まって見られるような状態になって、はじめて自分が行き詰まっていることに気づいた。

それは安定の代償なのかもしれないと思った。
心に波を立たせないように過ごすということは、一人でいることだった。
一人でいるということは、毎日少しずつ少しずつ、寂しさを溜めていくことだった。走り続けている最中は、寂しさに気づくことはない。けれど、いまその寂しさは私の心からどうやらこぼれ落ちそうな程に溜まっていて、それでも私はそこから目を背けようとして、また走り出すための種を必死に見つけようとぼうっとした頭でいろいろ考えようとする。けれど、なかなか思ったように進むことができずに、目の前の寂しさと毎日対峙している。

寂しさは夜に膨張する。
膨張した寂しさは研ぎ澄まされた刃物の先端のように私の心に触れる。
痛いような、その切先に触れた心からとめどなくいろいろなものが、忘れていたいろいろが溢れ出てきそうで、怖くなる。
お酒を飲んでみると、その輪郭は大きくぼやける。現実が少し緩くなる。時間や思考がゆっくりとぼやける。けれど、それはただの先延ばしのその場しのぎであることも自覚しているからもうちょっとずつ寂しさは溜まっていく。

私はなにがしたいのだろうか。
自分を満足させるためにはどうしたらいいのだろうか。
あまりにも自分という存在が大きくなりすぎている。だからどうしていいのかわからないはじめての問いに直面した。
誰のためでもなく、自分のため。
だからなにも出てこないのかもしれない。
誰かのために、何かをすることの方がよっぽど単純だ。

ただ自分の存在意義を証明するために、私はこの問いから逃げたくはなかった。

どんなに苦しかろうと、寂しかろうと、うまく働かない頭巡らせて、
ただ一人の夜から逃げたくはない。逃げてしまえば、私は満足できない。

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