見出し画像

日中戦争を目撃したドイツ語作家――エゴン・エルヴィン・キッシュ『秘密の中国』

エゴン・エルヴィン・キッシュとは何者か?

 エゴン・エルヴィン・キッシュEgon Erwin Kisch は1885年プラハ生まれのドイツ語作家です。プラハ生まれのドイツ語作家と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、『変身』の作者フランツ・カフカでしょう。あるいは、『マルテの手記』の作者ライナー・マリア・リルケを思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、実はプラハは、カフカやリルケ以外にも非常に多くのドイツ語作家を輩出しています。
 オーストリア・ハプスブルク帝国領にあった当時のプラハは、チェコ民族、ドイツ民族、ユダヤ民族という三つの民族が共存する多民族都市で、チェコ語とドイツ語というふたつの言語が響きあう街でした。中でもドイツ語話者、とりわけユダヤ系ドイツ人は多くが知識階層に属していたということもあり、19世紀末から20世紀初頭にかけてのプラハでは、非常に多くのドイツ語作家が活躍していました。こうした作家の文学作品は、一般的に「プラハのドイツ語文学」Prager deutsche Literatur と総称されています。
 さて、ここで紹介するエゴン・エルヴィン・キッシュは、「プラハのドイツ語文学」において、カフカと並んで重要な作家とみなされています。とりわけジャーナリストとしての彼の功績は、文学史的にも決して小さくはありません。
 キッシュの魅力は、なんといってもその圧倒的な行動力です。作品舞台はヨーロッパに留まりません。ソ連、アメリカ、北アフリカ、中国、オーストラリア、さらにはメキシコにまで実際に足を運び、そこでの風習や、そこで起こった事件について克明に書き留めています。この行動範囲の広さは、キッシュが共産主義者でユダヤ人だったことにも起因しています。熱烈な共産主義者であった彼は、1920年代後半にソ連に繰り返し足を運んでおり、1931年から1932年にかけては現在のウクライナにあるハリコフという町でジャーナリズムを教えてもいます。『中国 秘められた国』China geheim は、このハリコフ滞在後に中国に渡って執筆されたもので、満州事変や第一次上海事変で激しく揺れ動く1932年の中国の様子が様々な視点から生々しく描かれています。また、メキシコ滞在は、ドイツにおけるナチスの勢力拡大を受けての亡命を理由とするものです。
 日本ではまだほとんど知られていない、このエゴン・エルヴィン・キッシュという作家を紹介していくにあたって、ここではまず手始めに、『中国 秘められた国』の最初に掲載されている「呉淞の廃墟にて」を訳出しました。この記事の魅力は、1932年1月に上海で起こった軍事衝突とその後行われた国際連盟による視察が、中国人とも、日本人とも、ヨーロッパ人居留者とも異なる視点から、詳細かつアイロニカルに描き出されている点です。ドイツ文学の枠組みにおいてのみならず、日本文学、中国文学のコンテクストに当てはめても興味深い作品ですし、歴史的な資料としても価値のある作品かもしれません。

『呉淞の廃墟にて』


 既に黄海は長江へと変わっているのに、そのことには誰も気づいていない。ここの水流はエルベ川のクックスハーフェン同様、海のようだ。波は依然途切れることなく乗客の脳を揺らしていたし、岸も依然岸というよりは浜のようにみえる。
 蒸気船が支流にそれると、乗客はデッキに押し寄せ、腕を、手を、指を、目を、カメラを、双眼鏡を右側に向ける。
 長江と黄浦江が合流するところに、長江の谷と呼ばれる巨大な取引市場の門がある。
 1月末から呉淞とか呉淞要塞という言葉が、榴弾が電波や電線を貫く際にたてる低いノイズのように響いていた。この言葉は、国際連盟であれ、政治談議の場であれ、社説であれ、同じくらい有益なものとして飛び交っていた。
 手すりから身を乗り出して、呉淞のほうに視線を、あるいはレンズを向けてみる。その場所が灰燼に帰しているということは、誰の目にも明らかだ。遊歩甲板に立っている日本人の紳士淑女は、死体が埋まっている廃屋を示しあい、互いに笑いながら廃墟の中にあるグロテスクな瓦礫を指さしている。数日前までは、沿岸に設置された大砲も、まだ決してこれほど大っぴらにさらされてはいなかった。それらはセメントやコンクリートの覆いで囲われていたのだ。
 旅客船が呉淞に停泊した時間は長くはなかった。そう、包囲する側とされる側がここで滞在する必要がない程度には短い時間だった。蒸気船の速度は8ノットもない。川の水が完全に滞留しているからだ。警官に信号を持たせて川の真ん中に立たせ、交通整理をさせるべきところだ。この激しいコントラストに満ちた交通を。というのも、ここでは世界最大級の軍艦と世界最小級の漁船が一堂に会しているからだ。1万トンのアメリカの巡洋艦「ヒューストン」に搭載されている砲弾は、周りに群がるサンパン〔訳注:中国南部で使用される平底の木造船〕よりも大きい。その一方でサンパンは、竹で編んだ骨組みにタバコ色の当て布を張ったものを帆として掲げているのである。ジャンク船は、何世紀ものあいだ、身ごもった龍のようなその形を変えていない。船首に描いてある目は、ぎょっとした表情で「トレント」夫人を見つめている。アイロンの効いた舳先でその腹を切り開いてやる、と脅しているのだ。イギリスの「コーンウォール」は飛行機を射出する巨大なカタパルトをセットしている。卵黄色のフェリーが岸から岸へと走りまわり、レモン色をした5階建ての船は(船というよりもはや家だが)、長江の流れに逆らってゆく。この船は、日本の装甲巡洋艦の艦尾に船体を擦りつけてしまったために大砲で屋根を吹き飛ばされ、乗客は雨露をしのぐことができなくなってしまっていた。
 岸辺の建物のうち無傷で残っているものには、全て外国の旗がはためいていた。シェルやスタンダード・オイル、テキサス・オイルのシルバーのタンクも、抜かりなく十字を描くデンマーク国旗を屋根に掲げたノルディスク・テレグラフの赤レンガの建物も、チェコスロヴァキアのシュコダ社が建てたという理由で、赤と白の下地に青い三角を差し込んだ旗を煙突に掲げた発電所も爆破されてはいない。これらを除けば、辺りに残っているものは何もなかった。まったく何も。
 船はこの荒廃した土地をゆっくりと通り過ぎてゆく。岸辺の建物は岸辺の港へと走ってくる優雅な自動車の後ろに遠く引っ込んでしまった。優雅な自動車に乗っているのは国際連盟の使節団だ。この新たに生み出されたポンペイの遺跡を午前中に視察した使節たちは、ディナーの時間に遅れまいと急いでいる。

 ご存じのように日本は、偉大なる上海の市長に、日本製品ボイコットの禁止と上海抗日救国連合会の解散、ボイコットの主導者の逮捕と日本人僧侶殺害に対する賠償を求める最後通牒を出した。1932年1月28日、最後通牒は期限内に受諾された。にもかかわらず日本海軍は、午後10時半、他国の警察の管理下にあった、外国人居留地から中国人居住区へと続く一連の道路を占拠し始めた。
 日本軍は同日中に、閘北だけでなく、人口の密集した近隣の中国の工場地帯や、長江との合流地点に至るまでの黄浦江河岸一帯をも占領するつもりだった。既に翌朝、東京の電信局は呉淞の征服を報告している。しかし、それは正しい情報ではない。閘北に攻め込んだ部隊は(表向きの目的は、ボイコット組織が居を構えていた塔を破壊することだけだった)、大して前進することはできなかった。すぐに中国の第19師団が日本の進軍を阻止したのだ。こうして発生した戦闘の戦線は25キロメートルに及び、6週間続いた。この戦いは、何万人もの死者に、何万人もの怪我人、何万戸もの家々を犠牲にした。容赦などありはしなかった。
 3月4日、とうとう呉淞は占領された。

 居留者の家からは、まるで前桟敷から舞台を観るように、この戦いをよく見ることができた。夕食後にはナプキンをたたんで窓辺に向かった。様々に色を変えながら花開く花火は、装甲巡洋艦から発射されたり、飛行機から落下してきたり、臼砲から撃ち上げられたりした。上から炎と火薬が降って来るのと同時に、下からも炎と火薬が放たれた。ゲームが展開される一瞬一瞬の間に、人の命と街は失われていった。
深夜から午前5時までの間通りに出ることは禁じられていたため、11時半には、5時まで居座ることができる賭博場か舞踏会に駆け込まなければならなかった。
 居留地にいる者は昼間、恐怖に次ぐ恐怖がすぐ隣で起こっていることにほとんど気がつかなかった。空中を弾が飛び交い、街並みが爆破され、子どもたちが倒壊した家屋の下敷きとなり、家族が避難し、何人もの人々が銃に打たれて地面に倒れていたが、その間も、船や路面電車や人力車は運行し、映画館は営業し、企業は取引を行い、税関は業務を行い、新聞は発行されていたのだ。
 国際連盟の委員会による戦場の視察には時間がかかったので、その間に日本軍は戦場を少し片づけておいた。ネストロイ〔訳注:19世紀に活躍したオーストリアの劇作家、俳優〕のホロフェルネス〔訳注:第二正典『ユディト紀』に登場するアッシリアの将軍。ネストロイは、この物語に基づいて戯曲『ユーディットとホロフェルネス』を記している〕のように。「死体を片付けろ。だらしがないのには我慢ならない」ということだ。実際ひどい光景だった。処刑された中国人男女の集団や、口に猿轡をはめられた死体、バラバラにされた手足。こんな光景を見せては、おもてなしにお茶、ディナーに夜食を抱える国際連盟のお偉方の食欲を害してしまいかねない。彼らは閘北と呉淞の視察の直後にキャセイホテルで食事をとっているが、この祝宴は戦争の主催者によって主催されたものだった。上海は本来中国にあるのであって、日本にあるわけではないのに。そこでは16種類のワインとシャンパンに、アップマンの葉巻(販売価格1ドル60セントで、透かし入りのガラス瓶に入ってハヴァナから輸入されたもの)が出され、フルコースは文句のないものだった。

本日のディナー
国際連盟調査委員会を称えて
在中華民国日本公使より
メニュー:
パールグレーのキャビア
濃縮コンソメスープ
黄金のパイエット
ヒラメの大使館風
フィレ肉のアルムノンヴィル風
リンゴの遊歩道
エンドウ豆のペースト
冷やしアスパラガスのヴィンセントソース
七面鳥のグルメ風味
ガリア風サラダ
キャシー・アイスクリームムース
ミニャルディーズ・バスケット
フィルターコーヒー

 6週間もすると江湾競馬場の馬や騎手、馬券販売所やノミ屋も休業状態になったので、競馬場の芝生も、この戦争全体と同じく壮大で刺激的ではあるものの始まりも終わりも利益もない戦いを目にすることとなった。コースはそれほど破壊されなかった。競馬場を破壊するのは日本軍の指揮官にとっては大して重要ではなかったのだ。
 彼らにとって重要だったのは、例えば労働者大学やあらゆる中国人学校、図書館、印刷所だった。これらはひとつたりとも残してはおけなかった。江湾の労働者大学に残されたのは本当にごく僅かで、商務印書館やそこから発行された古びた印刷物の原本くらいだった。大学の創立者の記念碑は、日本軍の狙撃手に長い間標的にされ続けたせいで、石造の頭部が砂の中に転がっていた。過剰な蛮行の痕が残るこの記念碑を見られることがないように、胸像は、国際連盟の委員会ががやってくる前に根こそぎ倒され、叩き潰された。ただ、この戦場を歩く者のみが、大学の学籍名簿や研究ノートに埋もれて石造の知識人の四肢がゴミだめに転がっているのを見つけることができるのだった。
 同済にあるドイツ系の大学も破壊されていた。この大学は中心部から離れたところにあり、何キロメートルものだだっ広い土地に囲まれていたので、たまたま流れ弾が当たったなどということはありえなかった。この大学の学生は中国人だったので、日本はドイツ国旗を顧みもせずに、ここにも狙いを定めたのだ。機械工場には爆弾が一発落とされ、艦砲からは生理学研究所にも、大講義室にも、大学病院にも、講師棟にも砲弾が撃ち込まれた。サッカー場の真ん中には、もはや冗談のようだが、それでもドイツ的な徹底主義で、砲弾が全てコーンのように並べられていた。
 前線に近づけば近づくほど、自然や住宅地は跡形もなく消し去られていた。木造の建物の跡地に残っているのは板ではなく木片で、石造の建物の跡地に残っているのは石ではなく塵であった。日本軍は呉淞運河にかかる橋を壊そうとしたため、この運河沿いに広がる戦場はクレーターだらけになっていた。ぐちゃぐちゃにならなかった場所など1平方メートルたりとも残らなかった。家の前や水田の端に作られた庭に、囲いもせずに置かれていた棺ですら爆撃で吹き飛ばされてしまっていた。
 呉淞は艦砲の的となり、砲弾の音に満ちていた。川に浮かぶ日本の水雷巡洋艦や軽巡洋艦は、回転式砲塔や駐留軍に向かって至近距離から火を放った。中国は船の入港を制限したくなかったし、ヨーロッパの蒸気船を危険にさらしてヨーロッパからあからさまな怒りを買いたくもなかった。そのため呉淞は、ちょうど閘北の中国人が、外国人居留地の境界にある虹口の日本軍の拠点を攻撃しなかったのと同じように、呉淞を攻撃する船に対して攻撃を仕掛けなかった。呉淞は正当防衛もできずに打ち負かされざるを得なかったのである。
 真っ赤な太陽と真っ赤な旭光が描かれた日本国旗が、死屍累々たる呉淞の上空をはためいている。中国軍は、退却する前に、戦車の装甲や砲身、砲架にダイナマイトを打ち込んでいった。ボタン一押しで地震が起こりお祭り騒ぎを飲み込んだ。ひしゃげて奇形化し、切断された状態で、スチールのパイプは艦砲の前に身をさらしている。
 旗に描かれた太陽は、四方八方に血を吹き出す丸い傷口のようにみえる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?