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今受け入れているその「ストレス」は何のために?(と改めて考えてみる)

人生を、100%、毎日毎日、24時間、
完全に思い通りに生きている人はまずいない。
が、
すべてを「選択」して生きていくことは、実はできるはずなのだ。

もちろん、選択肢は限られているだろう。
(それもまた、誰もがそうである。)
人生において「無限に用意される選択肢」は、
誰にとってもあり得ないからだ。
でも、限られたその中からは、
自分の意思で、自由に選んでいいはずであるし、
――実際、私達は、無意識のものも含め、
すべて自分で選んでいたりもするのではないだろうか?


例えば、「ストレス事案」について、
改めてシンプルに捉え直せないかと思ったのだ。

生きていれば、「ストレス事案」にぶつかることは、
ほとんどの人が、どうしたって避けては通れないであろう。
場合によっては、その「ストレス事案」からは、
延々と、逃げられず、甘んじて受け入れ続ける、という状況も
いくらでもあり得ると思うのだ。

でも、「ストレス事案を受け入れている」というそのことすらも、
「自分で選んでいる」という意識に立つ、ということである。
それこそが、実は割と肝要なことなのではないかと、私は思うのである。

その「ストレス事案」を受け入れる、ということは、
それと引き換えに、何かを得ている、何かを守っている、
ということに、自ずとなってはいないだろうか、と、
あらためて振り返ってみるのだ。

例えば。

対人関係の「ストレス事案を受け入れている理由」なら、
「それでもその人(人々)が好きだから」
「その人に経済的に守ってもらっているから」
「その人の立場や権威や力を借りたいから」
「自分のプライドを守りたいから」
とか。

また、仕事などの環境・状況のパターンなら、
「今の給与や安定や生活リズムは手離したくないから」
「慣れない環境に変わるストレスのほうがもっと心配」
「今は技術やキャリアを身に着けたい」とか、
あと、これも「自分にもプライドがあるから」は、あるか。

「ストレス事案」を、今、自分が受け入れているということは、
何かしらの「それと引き換えに得ているもの」があるはずで、
ならば、それをあらためて、
「引き換えにこれを私は手に入れているんだなあ。」と、
手に取って、マジマジと見てみたいと思うのだ。


我々は、「欲しい」と思ったものすべては、
手に入らないようにできている。
何故なら、すべてそろえば、次が欲しくなるように、
人間というのはできているからだ。
だからいつも
「何か足りなくて」「もっとこうだったらいいのに」と感じるのも、
自然なことであると思うし、
何ならそれは「心が元気な証拠」ですらあろう。
むしろ、(それこそ「新たなストレス」にならない程度までなら、)
「足りない!」「もっとこうなってくれ!」と
更にもっと元気に(笑)願い続けたって、いいくらいなのであろう。

そんな「どうしてもすべては手に入らない」と、もがく状況の中で、
「ストレス事案」と引き換えに、我々は、何かを得ているはずなのだ。
「ストレス事案」だって、
実は、タダで受け入れてはいないはずなのである。

但し、
「ん?そのストレスに見合ったものは、さすがに何もないと思うぞ?」
と、考えても考えても出てこない場合は。
または、
「だんだんストレスのほうが強くなってきて、見合わなくなってきたかな?」
と、なってきた場合は。
私は、その「ストレス事案」、切ってしまっていいと思っている。
逃げていい、避けていいものだと思うのである。
だって、自分の人生なのだから。
「自分の人生には、真っ先に自分で、自分が、責任を持たなければならない。」
だから、いいのである。

「自分の人生の第一責任者は自分」なのである。
自分を幸せにするのは、結局、自分ではないだろうか。
自分がまず自分を守ってあげようとしないで、
いったい「誰に」、自分を守ってもらおうというのだ??
だから、その時は、堂々と胸を張って、
「自分を守るために」行動したらいいと、私は思う。

自分の人生、
「私は、限られた選択肢の中からだが、自分でこれを選んだのだ」という、
その意識と、その手応えは、とても大事なものだ
と、私は思うのだ。