ことぶき

愛知県在住の会社員です。東海地方を中心とする郷土史、特に戦前の遊廓史に興味があります。

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愛知県在住の会社員です。東海地方を中心とする郷土史、特に戦前の遊廓史に興味があります。

最近の記事

忘れられた歓楽街の記憶~風営法と標識(愛知県の場合)④【完】

前回の記事③では1948年(昭和23年)に制定・公布された風俗営業取締法と愛知県の風俗営業取締法施行条例について、今回の記事では1959年(昭和34年)の法改正、そして、円形プレート「標識」の登場とその詳細について記していきたい。 風俗営業取締法の改正 風俗営業取締法施行から約10年が経過し、歓楽街には法令の範囲内でカバーできない新たな業態が現れはじめた。次第に改正へ向けた議論が進み、1959年(昭和34年)「風俗営業取締法」は「風俗営業等取締法」に改正された(同年2月3

    • 中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々④【完】

      いよいよ最終回。これまで公開した記事①~③では1928年(昭和3年)の紙面に掲載されたコラムを紹介してきた。今回はその続編となる、1929年(昭和4年)の『初夏景物』から「ビール戦展望」(一)を紹介する。 中村遊廓内を舞台にしたビール戦 各社の販促活動とは? 前項から続くビール会社による激しい営業活動「ビール戦」の実態がより詳細に見えてくる。それとともに当時の遊廓の様子を知る貴重な史料でもある。 ■遊廓内の雪洞(ぼんぼり) 廓内の街路に設置されていた雪洞(ぼんぼり)

      • 中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々③

        今回紹介する2本のコラムでは各ビール会社が当時名古屋市内、そして中村遊廓内でどれほどの販売実績を持っていたのかについて触れられている。文中の統計数字は推定であり、正確性については担保できないが、当時の各ビール会社の状況を知る上で、大変貴重な記述であると考える。 名古屋市内と中村遊廓内でのシェア コラム記事から読み取れること 今回紹介した2本のコラムの内容をまとめると次のようになる。 1927年(昭和2年)時、名古屋市内でのビール販売数はおよそ10万箱、但しこの本数に

        • 忘れられた歓楽街の記憶~風営法と標識(愛知県の場合)③

          前回の記事②では風俗営業取締法(風営法)と、愛知県の風俗営業取締法施行条例の制定・公布について触れた。今回はこの県施行条例について詳細を見ていきたい。 愛知県・風俗営業取締法施行条例の詳細(愛知県) 1948年(昭和23年)に施行された愛知県の風俗営業取締法施行条例【1】を読んでいくと、条例は4つの章と1つの附記で構成されており、各項目で様々な規定が記されていることがわかる。全てを転記することはできないため、各章の概要を下記に示す。 ■第一章(総則) 第一条から第十一条

        忘れられた歓楽街の記憶~風営法と標識(愛知県の場合)④【完】

          忘れられた歓楽街の記憶~風営法と標識(愛知県の場合)②

          風俗とは? 風俗営業とは?  前回の記事①では、歓楽街(跡地)に残されているプレートの正式名称は鑑札ではなく標識であり、風営法に基づき使用されていたものであること、また、赤線や青線などを示すものではなく、愛知県では1959年(昭和34年)から使用されたものだということを記した。今回は、まず風俗・風俗営業について用語を整理し理解するところからはじめていきたい。 まずは図書館で手に取った辞書『大辞泉(下)第二版』【1】でこの言葉について調べてみることにした(特に深い意味もな

          忘れられた歓楽街の記憶~風営法と標識(愛知県の場合)②

          中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々②

          今回の記事では前回に続き、下記2本のコラムを紹介する。各ビール会社の激しいシェア争い、営業活動の様子が続く。 激しさを増すシェア争奪戦 カブトvs.アサヒ! 当時の市内の状況 今回の記事内に登場する各所の状況を整理すると次のようになる【図1】。旧名古屋駅(現在の笹島交差点付近)の東方約3.6kmにアサヒの千種工場(のちの名古屋工場。当時東区千種町、現在の千種区千種2丁目イオンタウン千種付近)【図2】、また駅から僅か約600mの堀川東岸、納屋橋近くにはカブトの営業拠点、

          中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々②

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史③【完】

          これまでの記事①②では南連の歴史、そして現地の様子について紹介してきた。今回はいよいよ最終回である。 なぜこの場所に歓楽街が? 記事①の冒頭で紹介した通り、金山地区は ”名古屋の副都心” とも呼ばれる場所だ。しかし、その中心地となっている金山駅が設置されたのは戦時下の1944年(昭和19年)9月のこと【図1】、名鉄岐阜線と豊橋線が東西連絡線の開通によって初めて接続され、それに併せて金山駅が開業した。記事内で「決戦輸送」とあるように、戦時下の非常時に突貫工事を進め完成させ

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史③【完】

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史②

          南連の所在地、宿亀・澤上の現在 前回の記事では戦前の史料を基に芸妓置屋組合「南連」について記した。今回は現地、宿亀・澤上跡地の様子を紹介していきたい。 現在の地図と戦前の市街図【図1】を比較する。 宿亀・澤上のあった区画は戦前の市街図を見比べても、現在とほぼ変わっていないことがわかる。澤上は現在も町名として残り(熱田区沢上1丁目、2丁目)、宿亀は金山町2丁目と町名変更されているものの、現地の電柱にはその名が確認できる。 現地で掃除をされていた方にお話を伺ったところ、

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史②

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史①

          はじめに ”名古屋市の副都心” とも呼ばれる名古屋・金山地区(熱田区、一部中区)。同地にはJR、名古屋鉄道(名鉄)、市営地下鉄の各路線が乗り入れる金山駅(金山総合駅)があり、通勤・通学者、買い物客などで常に混雑するなど、名古屋市内でも特に人通りの多い場所である。駅周辺にはオフィスビルや商業施設、飲食店、その他風俗営業関連店舗、ラブホテルなどが存在し、歓楽街としての一面を持つ地域となっている。 現在の金山駅南東部の一角にはかつて「南連」と称する芸妓置屋組合の本拠地があり、

          戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史①

          中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々①

          はじめに 今回の記事は、戦前名古屋を拠点とした新聞社、新愛知新聞社発行『新愛知』に掲載されたコラム、「花ぐもり」内の「ビール戦の序盤」(1928年(昭和3年)4月13日~21日、全6回)、「初夏景物」内の「ビール戦展望」(1929年(昭和4年)5月3日~8日、全5回)から、ビール会社と名古屋・中村遊廓関連の記述部分を抜粋し紹介する【図1】。 大正期から戦前昭和期にかけて、名古屋を代表する新聞『新愛知』、『名古屋新聞』(ともに中日新聞社の前身)の2紙には各ビール会社の広告

          中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々①

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史【番外編】

          これまで多加良浦遊園地の歴史について3回にわたって記事を作成し、昨日(2024/5/31)最終回を公開した。しかし、記事が完成しすべて公開した直後に新しい史料が見つかった。 今回は番外編として、この史料の多加良浦に関する部分を全文紹介する。これまでに公開した記事内で間違った解釈、記述をしていたらどうしよう、とも思ったがこれまでの記事をより詳細に、また補完してくれる内容である。 この史料は1927年(昭和2年)に発行された、その名も『名古屋』という刊行物である。同年は多加良

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史【番外編】

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史➂【完】

          最終回となる今回は、これまで投稿した記事で書ききれなかった多加良浦に関するエピソード、現況などについて触れていきたい。 多加良浦がんばれ!〜名古屋十名所人気投票 なんとも偶然であるが、多加良浦遊園地が開設された1925年(大正14年)の6月~8月にかけて(遊園地の開業は7月5日頃)、『新愛知』(新愛知新聞)の紙面上で「名古屋十名所」という企画がスタートした【図1】。これは読者からの投票によって名古屋市内の名所を選定しようというもので、紙面に毎日印刷されている投票券【図2

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史➂【完】

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史②

          多加良浦遊園地はどのような施設だったのか 前回の記事では名古屋市の港湾部に多加良浦遊園地が開設される経緯、そして遊園地を経営していた多加良浦海水浴株式会社と築地電軌株式会社について触れた。 今回は現段階で確認できる複数の史料から、遊園地の過去と現在の姿を明らかにしていきたいと思う。 これらが遊園地の設備だったようだ。庄内川畔には海水浴場、水上には飛び込み台や貸ボート、陸上には名古屋市内で”唯一”の競泳用プール、種々の遊具、貸席や温浴設備(浴場?)が、敷地内の池には島が

          戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史②

          戦前名古屋に存在した「多加良浦遊園地」とその歴史①

          はじめに 名古屋市の港湾部、港区の多加良浦町にはかつて「多加良浦遊園地(たからうら・ゆうえんち)」という施設が存在した。当時、同園は夏季を中心に多くの市民を集める名古屋名所のひとつでもあったが、その実態については郷土史料などに僅かな記述が残るのみである。今回の記事では多加良浦遊園地が開設された大正末期~昭和初期の新聞記事、刊行物などの史料から可能な限りその姿に迫ってみたいと考える。インターネットだけでなく刊行物などにも情報が少なく、個人的にとても面白い調査テーマであった。

          戦前名古屋に存在した「多加良浦遊園地」とその歴史①

          忘れられた歓楽街の記憶〜風営法と標識(愛知県の場合)①

          はじめに〜鑑札と呼ばれるプレート 歓楽街(旧歓楽街含む)を歩くと、このようなプレートを目にすることはないだろうか。 その多くは店の玄関、あるいはドアに貼られており、都道府県ごとにデザインや記載内容は様々のようだ。共通していることはひとつ、「〇〇県(府、道)公安委員会」という文字が入っていること。「お上」による何らかの認証があったことを示しているのは明らかだ。 インターネット、特にSNSが普及してからは全国各地の多くの方がこのプレートを投稿され、歓楽街の歴史に思いを馳せ

          忘れられた歓楽街の記憶〜風営法と標識(愛知県の場合)①

          西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに➂【完】

          盛栄連と八重垣倶楽部の関係 前々回の記事(1)でも記した名古屋を代表する芸妓組合、盛栄連の本拠地(事務所)はどこにあったのか? ここまで、すっかり八重垣町の変遷に終始してしまったが、元々このテーマは芸妓街の所在地を知ることからスタートしたもの。やはり、その謎を明らかにする必要がある。 芸妓街等の大衆文化について知るには、当時の新聞が有効なのだ。一次資料ではないと軽視されるかもしれないが、やはり当時の新聞なのだ。 ※盛栄連についてはこちらを参照ください この記事【図1

          西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに➂【完】