ことぶき

愛知県在住の会社員です。東海地方を中心とする郷土史、特に戦前の遊廓史に興味があります。

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最近の記事

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(3)【完】

盛栄連と八重垣倶楽部の関係 前々回の記事(1)でも記した名古屋を代表する芸妓組合、盛栄連の本拠地(事務所)はどこにあったのか? ここまで、すっかり八重垣町の変遷に終始してしまったが、元々このテーマは芸妓街の所在地を知ることからスタートしたもの。やはり、その謎を明らかにする必要がある。 芸妓街等の大衆文化について知るには、当時の新聞が有効なのだ。一次資料ではないと軽視されるかもしれないが、やはり当時の新聞なのだ。 ※盛栄連についてはこちらを参照ください この記事【図1

    • 西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(2)

      伊藤祐民と八重垣町 先に公開した記事のとおり、八重垣劇場の所在地は八重垣町ということで間違いなさそうだ。そして、当時の新聞記事を収集する中で、こんな小さな記事があった【図1】。 この記事から、八重垣劇場の大株主が伊藤次郎左衛門であったということがわかった。伊藤家はいとう呉服店(現在の百貨店・松坂屋)や伊藤銀行などの創業家としても知られる。「次郎左衛門」とは伊藤家で代々受け継がれる当主名跡であり、当時の当主は第十五代伊藤次郎左衛門、伊藤祐民(いとう・すけたみ)であった。伊

      • 西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(1)

        はじめに 「名古屋市西区八重垣町」。この町名を聞いてピンポイントに地図上を指し示すことが出来る方はどれほどいるだろうか。少なくとも私は(15年以上愛知県に住んでいる)見当すらつかなった。しかも中区と西区の区境が戦後大きく変わったことも数年前に知ったくらいである。それもそのはず、この町名、過去~現在に至るまで ”正式に” 存在したことのない町名なのだ。(※そんなの知ってるわ!という方はご容赦ください) 戦前名古屋の花柳界について調べてみると、市内全域にわたって多くの芸妓街

        • 遊廓跡の石柱~「新開地」中村のはじまり

          はじめに   名古屋市中村区賑町と名楽町の町境、中村遊廓跡地南西部にあたる路地の一角に小さな石柱が立っている【図1】。その高さは約73cm、約30.5cm四方(共に筆者の実測値)、上部は半円状に加工されており、南側の一面には何らかの構造物と接合されていたような痕跡がある。 そして、北側の一面のみに 「大正十年三月」 と読める文字が彫られている。 石材や工法などについては筆者に知識がないため詳細は不明である。 石柱と徳佐川について  この石柱は現地で「徳左川の橋跡」

        西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(3)【完】

          旭廓積善会供養塔とその歴史

          はじめに 名古屋市の東部、千種区法王町にある覚王山日泰寺は1904年(明治37年)に創立された仏教徒超宗派の寺院である(創立当時の寺名は日暹寺、1941年(昭和16年)に日泰寺に改名)【1】。同寺境内の奉安塔には暹羅国より贈られた釈迦の霊骨 “仏舎利” が安置されており、古くより名古屋名所のひとつとして多くの参詣者があった【図1】。また、山号である “覚王山” は現在周辺地域の名称、また地下鉄の駅名などとしても広く使われている。 仏舎利が安置されている奉安塔(図2)の東

          旭廓積善会供養塔とその歴史

          中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(2)【完】

          前回公開した「中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)」では戦前名古屋に存在した貸座敷免許地、通称・中村遊廓と遊里ヶ池の誕生、遊廓の開設に併せ遊里ヶ池が整備され観光地になっていく過程を記した。後編となる今回の記事では遊里ヶ池に関して現地に伝わる話の検証、池の消失とその後について考察を加えていきたい。 日赤病院の建設~遊里ヶ池の消失 前記事のようにイベント会場や、観光地として市民に親しまれた遊里ヶ池は、1937年(昭和12年)に竣工・開院した日本赤十字社愛知支部名古

          中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(2)【完】

          中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)

          はじめに 名古屋市中村区道下町3丁目、日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院(通称・中村日赤)の敷地内にはかつて、遊里ヶ池(ゆうりがいけ)という大池が存在した。その位置は1923年(大正12年)に新設された貸座敷免許地、通称・中村遊廓の西方隣接地にあたり【図1】、同遊廓の新設に併せ誕生した人工池であった。 当時名古屋市内にこのような大池は少なく、池畔一帯は観光地、イベント会場などとして市民に親しまれた。しかし様々なエピソードが残る一方で池の誕生から消滅まで詳細につい

          中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)

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          ことぶきです。今後記事をアップしていきたいと思います。

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