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西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(3)【完】


盛栄連と八重垣倶楽部の関係

前々回の記事(1)でも記した名古屋を代表する芸妓組合、盛栄連の本拠地(事務所)はどこにあったのか? ここまで、すっかり八重垣町の変遷に終始してしまったが、元々このテーマは芸妓街の所在地を知ることからスタートしたもの。やはり、その謎を明らかにする必要がある。

芸妓街等の大衆文化について知るには、当時の新聞が有効なのだ。一次資料ではないと軽視されるかもしれないが、やはり当時の新聞なのだ。

※盛栄連についてはこちらを参照ください

お金持好みの ”美しき町”
八重垣 妖しダンス藝妓始め

昭和四年の春うらゝかな一日、歌子(花園歌子・舞踊家)を連れた巨頭(伊藤次郎左衛門)は八重垣クラブの玄關に粋な草履を脱ぎ捨てたのである

――昭和の藝者がダンスを覺えても惡くはないぢやろ
事務所へ踊りを稽古にきてゐた盛榮連の姐さん他たちに伊藤さまのお聲かゝりだ、伊藤様の一ビン一笑は財界のみならず裾界を左右するのだ、以來歌子を先生にして盛榮連の姐さんたち持参のレコードのリズムにのりながら勇敢にも能舞台の上でパツパとタツプを稽古しはじめたのだからすさまじい

『名古屋新聞』
1936年(昭和11年)1月6日

この記事【図1】からは、名古屋市内の芸妓組合のひとつ、盛栄連の事務所が八重垣倶楽部内にあったと読み取ることができる。

図1.八重垣町、八重垣小路を撮影したと思われる写真が掲載されている

更に、当時の職業別電話帳【1】を確認してみたところ、このような記録が残っていた。

【八重垣倶樂部榮成連事務所】 
 本2 一八一八 西、南外堀、六ノ三

『名古屋職業電話帳』
1935年(昭和10年)

【盛榮連】 林文左衛門  
本2 一八一八 西、南外堀、六ノ三

『名古屋職業別電話帳』
1936年(昭和11年)

【盛榮連】 林文左衛門 
 本2 一八一八 西、南外堀、六ノ三

『名古屋職業別電話帳』
1937年(昭和12 年)

1935年(昭和10年)の電話帳にある「八重垣倶楽部榮成連事務所」とは「盛榮連」の誤記ではないか? 翌年1936年(昭和11年)以降の電話帳では全く同じ電話番号、町名で「盛榮連」と記されているのだ。

なんともすっきりしないが、栄成連という誤字はあまりに惜しい。なんてことをしてくれたんだ……と若干諦めかけていた時、偶然こんな記事に目が止まった【図2】。

盛栄連の事務所は八重垣倶楽部内に移転していたのだ!やはり新聞記事は強い。

なお、これは紙面実測で2.7cm✕2.7cmという恐ろしく小さい記事だ。

盛榮連妓の事務所は今回西区八重垣町に新築の八重垣クラブに移ることとなつたこゝは立派な演藝場もあり之から温習會などはこゝで開く筈で……

『名古屋新聞』
1929年(昭和4年)4月6日
図2.盛榮連移転を報じる記事

また、当時の観光ガイド『歓楽の名古屋』には、盛栄連と伊藤家他、名古屋財界との関わりに触れたこんな記述もある【2】。盛栄連事務所が八重垣倶楽部に入ったことは必然だったのだろう。

明治初年からといふ古い歴史を持つてゐるし、音曲に、舞踊に藝達者な事自他共に許すのがこの連妓の特色で(中略)...名古屋第一の伊藤、青木、岡谷等々の名士、知事市長さんといふ官民のエライ方に接してゐて極上品なのが自慢である。

『歓楽の名古屋』
1937年(昭和12年)

盛栄連と芸妓街については、今後まだまだ新しいことがわかってくるかもしれない。


八重垣町の前身

ここでまた、町の歴史に戻ることにする。

八重垣町が新設されるまで、この地はどのような場所だったのだろうか? 1923年(大正12年)発行の市街図を見ると、八重垣町の場所にはかつて『控訴院』『裁判所』があったということがわかる【図3】。

図3.画面中央左、
控訴院 裁判所跡と記されている

『大正昭和名古屋市史』 【3】によると、名古屋控訴院は1882年(明治15年)に名古屋控訴裁判所として開庁、1886年(明治19年)に名古屋控訴院と改称したのち、1922年(大正11年)に東区主税町(現・東区白壁1丁目)に移転したとある。

つまり、その移転跡地に八重垣劇場、八重垣倶楽部、銀行集会所などの施設が建てられたのだ。写真は移転、現存している元控訴院(地方裁判所・区裁判所)の建物(1922年(大正11年)竣工)【図4】。

図4.南外堀町(本町)から移転した
控訴院の建物

ちなみに、記事内では尾張藩のお白洲があった場所だったと触れられている。そのルーツが「有り難くない」場所とされているのが面白い。

以前は裁判所がありまたその前にはお白洲があつて罪人がヒヨロヒヨロとつれこまれてトンと有り難くない

『名古屋新聞』
1936年(昭和11年)1月6日

正式な町名とその由来

では、同地はなぜ八重垣町と呼ばれることになったのか? この件については、次のような決定的な一文がある。おそらく、この新聞記事以外には触れられていないのではないだろうか.…..

八重垣町は殆ど松坂屋さんの土地である。正しくは南外堀町六丁目三番地で先代次郎左衛門翁が遺言に八重垣町と呼んでくれとのはなしでかうなつたので出所は素盞嗚命の「八雲たついづも八重垣……」の御詠が翁の心を深くついてゐたものらしい

『名古屋新聞』
1936年(昭和11年)1月6日

八重垣町の正式な町名は西区南外堀町六丁目三番地。また、町名の由来は第14代伊藤次郎左衛門(祐昌)の遺言によるものだったというのだ。祐昌が死去したのは1931年(昭和6年)のことであるが【4】、史料上では1929年(昭和4年)頃からその町名が登場する。


八重垣町が新設されたその背景

八重垣町は名古屋財界の中心的存在、伊藤家の所有する土地であり、当主の遺言によって命名、開発された町だった。ではなぜ八重垣町を新設することになったのであろうか? 前記事でも触れた『店史概要 新版』【5】、『伊藤祐民伝』【6】からの記述を改めて次のように引用する。

名古屋北部振興策のひとつとして、東京浅草の仲店にならい、損得を超越して八重垣町に名古屋仲店街建設の計画を立て(中略)……この八重垣町は伊藤家の氏神である東照宮や那古野神社の東参道として新設されたものですから、この事業は祐民社長の敬神思想の発露によるものであろうともいえましょう。

『店史概要 新版』

名古屋市は近年南部へ著しく發展したのに反して、榮町通以北名古屋城の大手前に近い北部一帯の地が逐年衰微の傾向にあるのを□(なげ)いて、守松※は明治四十五年北會を起こして自ら会長となり、其の振興に努めた。
                       ※守松は伊藤祐民の幼名

『伊藤祐民伝』

一方で、八重垣劇場の開業直前の新聞記事にはこんなのんびりとした経営陣のコメントも【図5】。

※八重垣劇場(当時)の社長は下出義雄、経営を任せられたのは映画経済の専門家”学者肌”の石巻良夫(専務)であった。

図5.翌月に開館を控えた
八重垣劇場に関する記事 

下出社長が
 「僕は素人で判らぬが、どんなものです石巻さん」
これに對へて石巻さん
 「僕は商賣なんてことは始めから考へませんが、どうしたものでせう」
と、伊藤次郎左衛門重役が
 「その邊で結構、とに角、わしには表の植木を引受さして下され」
といった塩梅、
趣味と学問が映画劇場を経営するのだ
 「八重垣よ、どこへゆく」                 

『新愛知』
1930年(昭和5年)9月23日

戦前の名古屋市は、市街地中心部の広小路から南方にかけて盛り場、繁華街が大きく発展していた。都市計画家の石川榮耀は名古屋について、次のよう述べてている【7】。

東京の銀座と浅草。その夫婦関係が名古屋の廣小路と大須である。
何れもはるかに離れて居ながら一束にして一セツトと云ふ所である。

『都市公論』21(11),1938年

当時の市街地北部にあたる南外堀町(御幸本町)一帯に新設された八重垣町は、それらとは異なる新たな賑わいの創生、地域発展を目的としたものであった。そして何よりも、伊藤家をはじめとする財界人たちの趣味と道楽の場、損得を超えた理想郷であったのだ。


時代は昭和恐慌真っ只中

ここまで、八重垣町はすごい! ロマンがある! みたいな書き方をしてしまったかもしれない。しかし、この時期の日本国内は不況真っ只中でもあった。八重垣劇場が開場した翌月の新聞記事には不景気(不況)に苦しむ庶民の深刻な状況が報じられている【図6】。

図6.この時期は昭和恐慌による大きな影響を受けた時代でもあった

八重垣町の新設事業には地域の衰退を憂う財界人の地域・文化振興だけでなく、不況対策、失業対策のような一面があったのか? それとも不況等には影響を受けない程の富豪たちの財力と、一般市民との貧富の差を見せつけられているものなのか? ここまで紹介した史料からそのすべてを読み取ることはできない。しかし、同時期の社会状況等と併せて考えていくと、この町はまた異なるものに見えてくるのではないだろうか。


おわりに 

現在では地名だけでなく、名古屋市民の記憶からも完全に消えてしまった「八重垣町」。この町の誕生は偶然ではなく、全てに意味があり、歴史がある。また、改めて郷土史を調べることの奥深さと面白さを実感したテーマでもあった。

最後に八重垣町の由来となった古事記の和歌を紹介したい【8】。伊藤家はこの詠をどう捉え、町名に想いを込めたのだろうか? 解釈は読者の皆様に委ねたい。

八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣造る 其の八重垣を

『古事記:現代語訳(古典叢書及叢書;第一』

【2024年5月、ことぶき作成】


※本ブログは2024年(令和6年)5月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。


■参考資料
【1】『名古屋職業電話帳』逓友協会 ,1935年(昭和10年)、1936年(昭和11年)、1937年(昭和12年)
【2】 稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社 ,1937年(昭和12年) ,p.30   
【3】『大正昭和名古屋市史』 第9巻(地理)1955年(昭和30年) , p.56
【4】『松坂屋70年史』松坂屋 ,1981年(昭和56年) ,p.48
【5】『店史概要 新版』松坂屋 ,1964年(昭和39年) ,p.263
【6】『伊藤祐民伝』
【7】『都市公論』 21(11)都市研究会,1938年(昭和13年)11月 ,p.57
【8】 蓮田善明『古事記:現代語訳(古典叢書及叢書;第一』机上社 ,1929年(昭和9年)p.40

■図・画像
【トップ画像】『最新改訂版 名古屋地圖 最新丁目入』六楽会 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図1 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1936年(昭和11年)1月6日 
【図2】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1929年(昭和4年)4月6日
【図3】『大名古屋市街地図』外松鉙三郎/菊花堂,1923年(大正12年)東海遊里史研究会蔵
【図4】旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所 ,2024年(令和6年)撮影
【図5】『新愛知』新愛知新聞社 ,1930年(昭和5年)9月23日
【図6】『新愛知』新愛知新聞社 ,1930年(昭和5年)11月5日