見出し画像

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(1)


はじめに

「名古屋市西区八重垣町」。この町名を聞いてピンポイントに地図上を指し示すことが出来る方はどれほどいるだろうか。少なくとも私は(15年以上愛知県に住んでいる)見当すらつかなった。しかも中区と西区の区境が戦後大きく変わったことも数年前に知ったくらいである。それもそのはず、この町名、過去~現在に至るまで ”正式に” 存在したことのない町名なのだ。(※そんなの知ってるわ!という方はご容赦ください)

戦前名古屋の花柳界について調べてみると、市内全域にわたって多くの芸妓街が存在していたことがわかる。芸妓が寄寓する芸妓置屋の組合は「連妓」と呼ばれ、市内各所に拠点を持っていた。これらについて戦前の史料では次のように紹介されている。

『名古屋市史 風俗編』1915年(大正4年)【1】
藝妓組合調査として15の組合の記載あり
(盛栄、廓、睦、中券、熱田、淺遊、美遊喜、吾妻、蝶遊、鶴舞、和合)

『全国花街めぐり』1929年(昭和4年)【2】
五連妓(盛榮連、浪越連、中券、廓連、睦連)
十三連妓(五連妓に、淺遊連、善遊喜連、美浪連、熱田連、和合連、吾妻連、八幡連、旭連を加えたもの)
十七連妓(十三連妓に、蝶遊連、枇杷島連、築地連、南連を加えたもの)

『歓楽の名古屋』1937年(昭和12年)【3】
十六連妓(盛栄連、廓連、睦連、中券番、浪越連、淺遊連、熱田連、吾妻連、美遊喜連、富士見連、和合連、旭連、南連、八幡連、八幡共立連、港連)

『昭和13年起 花柳病診療所関係書綴』1938年(昭和13年)【4】
芸妓街の調査報告として16の組合記載あり(盛栄連、廓連、睦連、中券番、浪越連、浅遊連、熱田連、吾妻連、美遊喜連、富士見連、和合連、旭連、南連、八幡連、八幡共立連、港連)

このように時代により連妓の新設、統廃合、分離、改称などがあったことがわかる。どの時期の連妓数をカウントするのが正解なのかはあまり本質的ではないのでさておき、この中で名古屋で最も古い歴史を持つ芸妓連、盛栄連が本拠地としていたのが西区八重垣町であった。しかし、八重垣町がどこにあったのか全くわからないのだ。この記述を見つけたのが全ての始まりである【図1】。

図1.写真右、盛栄連事務所の所在地
は西区八重垣町と書かれている
【無断転載禁】

おそらく多くの方にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、私はどうしても八重垣町のことが知りたい。

今回はこの町について調べたその記録を長々と書き綴る記事である。


戦前の史料から

盛栄連のことを調べれば八重垣町のことがわかるのでは? 個人で所蔵する史料、そして愛知県図書館、名古屋市鶴舞中央図書館の史料で戦前の新聞記事、刊行物を当たることにした。すると、次のような記述が見つかった。

【維新前の長者町藝者】
名古屋の花柳界といへば先づ指を盛榮連に屈する、是は単に同連が他連に比し藝者が揃つて居るのみではない、市内に於ける最も古参の連妓で……

『新愛知』
1902年(大正2年)10月3日

【盛榮連】
西區長者町に在る一連で最上位を占むる代表的藝妓、大官紳商連の宴席に聘せらるゝものは主として此の連妓で、數は八十名内外で且つ今日は老妓が多く若手の美人に乏しい憾みはあるが、技芸はなんといつても粒ぞろひである。

『全國花街めぐり』
1929年(昭和4年)

【盛榮連(西区八重垣町)】
こゝは明治初年からといふ古い歴史を持つてゐるし、音曲に、舞踊に藝達者なこと自他共に許すのがこの連妓の特色で、また上町といひ上の手藝妓として、名古屋一流の料亭に出入して名古屋第一流の伊藤、青木、岡谷等々の名士、知事市長さんといふ官民のエライ方に接してゐて極上品なのが自慢である。

『歓楽の名古屋』
1937年(昭和12年)

このように、大正~昭和初期まで盛栄連は西区長者町、以降は西区八重垣町を拠点にしていたことが読み取れる。前項の通り、刊行物だけではなく名古屋市の公文書にも八重垣町とあるのだ。誤記載の類いではないということは確かだ。

長者町は現在も「長者町通」として町名の名残がある。所在地は名古屋城三の丸南側を走る南外堀通の南側、現中区丸の内2丁目を起点に広小路通りの北側、現中区錦2丁目に及ぶ南北約1.0㎞の通り沿いにあった町である。北側から5ブロックは上長者町、南側の4ブロック弱が下長者町となっていたようだ【図2】。

図2.黄線が長者町通
(北が上長者町、南が下長者町【無断転載禁】

『名古屋芸娼妓きぬふるひ』1914年(大正3年)【5】で盛栄連に所属する芸妓置屋の所在地を確認すると、上長者町には一色、岡田家、大阪家、大蔦家、若松家、新若松、新荒川、花荒川、藤家、江戸家、新柏、松柏、二葉家、蔦家、銭家の15軒、上長者町近隣の小田原町に7軒、長島町に11軒となっていた。また、『中京花の栞』1912年(大正元年)を見てもすべてが上長者町にあったわけではなく、ある程度の範囲に置屋が散在していたことがわかる【図3】。

図3.1912年(大正元年)の盛栄連の芸妓衆
国立国会図書館デジタルコレクションより

明治初年から上長者町を中心に盛栄連の芸妓置屋があった。しかしその後の事務所があった八重垣町の所在地はいくら探しても見つからない。名古屋城下の碁盤割のどこかにあるはずなのだが…

また、立命館大学講師・眞杉侑里氏の論文『近代名古屋市域における売春営業の変遷と分布』【6】も参考にさせていただいたが、盛栄連事務所の「西区八重垣町」については同様に所在不明、とされていた。

さあどうするか。


『なごやの町名』から

名古屋市の町名の変遷はとても複雑だ。そして、あの碁盤割のすべてを理解しようとするのは不可能だ。そんな中で、最も参考となるのは『なごやの町名』【7】あろう。これは近世から現代まで各区の町名がどのように統廃合、改称されていったのかが詳細にまとめられたものである。この資料を基に西区上長者町、下長者町の変遷を確認すると、何度かの変遷を経て、1966年(昭和41年)に現在の中区丸の内2丁目と錦2丁目にそれぞれ変更される。近世から現代まで八重垣町は一度も出てこないのだ。


戦前市街地図から

所蔵している明治~戦前昭和までの市街地図で西区長者町付近の区域をくまなく探してみたが、八重垣町は存在しない。画像は1937年(昭和12年)の市街図【図4】である。

図4.1937年(昭和12年)、名古屋市街全圖より【無断転載禁】

八重垣劇場の存在

戦前の名古屋には八重垣劇場という洋画専用の映画館があった。
「八重垣」。きっと関連があるに違いない。こういう時は素直に
Wikipediaだ!しかし八重垣町についての記述はやはりなかった。

八重垣劇場(やえがきげきじょう)は、愛知県名古屋市西区南外堀町6-27(現・中区丸の内二丁目)にあった映画館。定員は492名[1]。1930年(昭和5年)に開館し、1962年(昭和37年)に閉館した。

Wikipediaより

ところが『大名古屋』1933年(昭和8年)【図5】で映画館の項を参照したところ、このような記載があった。

【八重垣劇場】
御幸本町御門近く八重垣町の中央にある純欧風の映畫館である。

『大名古屋』
1933年(昭和8年)
図5.『大名古屋』

間違いなく八重垣劇場は八重垣町にあった。しかも長者町のすぐ近くに。少しづつ、確実にその歴史に近づいてきているようだった。


(2)へ続く(後日公開)


※本ブログは2024年(令和6年)5 月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。


■参考史料 
【1】『名古屋市史 風俗編』名古屋市 ,1915年(大正4年)
【2】  稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社 ,1937年(昭和12年)
【3】  松川二郎『全国花街めぐり』カストリ出版復刻版 ,2016年(平成28年) 【4】『昭和13年起 花柳病診療所関連綴』名古屋市公文書 ,1938年(昭和13年)
【5】野田勝次『名古屋藝娼妓きぬふるひ』野田活版所 ,1914年(大正3年)
【6】眞杉侑里『近代名古屋市域における売春営業の変遷と分布』2022年(令和4年)
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/antitled/1/0/1_05/_article/-char/ja

【7】『なごやの町名』名古屋市 , 1992年(平成4年)

■図・画像
【トップ画像】『最新改訂版 名古屋地圖 最新丁目入』六楽会 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
図1. 『昭和13年起 花柳病診療所関連綴』名古屋市公文書 ,1938年(昭和13
   年)名古屋市市政資料館蔵
図2.『大名古屋市街地圖』菊花堂,外松鉙三郎 ,1923年(大正12年)東海遊里史研究会蔵
図3.『中京花の栞』中京花の栞社 ,1912年(大正元年)国立国会図書館デジタルコレクション
 https://dl.ndl.go.jp/pid/922255  

図4.『名古屋市街全圖』六樂舎 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
図5.『大名古屋』名古屋市役所, 1933年(昭和8年)東海遊里史研究会蔵