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戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史➂【完】


最終回となる今回は、これまで投稿した記事で書ききれなかった多加良浦に関するエピソード、現況などについて触れていきたい。


多加良浦がんばれ!〜名古屋十名所人気投票

なんとも偶然であるが、多加良浦遊園地が開設された1925年(大正14年)の6月~8月にかけて(遊園地の開業は7月5日頃)、『新愛知』(新愛知新聞)の紙面上で「名古屋十名所」という企画がスタートした【図1】。これは読者からの投票によって名古屋市内の名所を選定しようというもので、紙面に毎日印刷されている投票券【図2】に投票先を記入、切り取って同新聞社へ郵送するというものであった。

図1 .名古屋十名所の告知

企画は6月12日の紙面で告知開始、8月10日締め切りで、8月14日の紙面に最終結果発表された。投票期間中は毎日途中経過が報じられており、多加良浦は企画がスタートして間もない6月16日の第3回報告で初登場、第5回報告では名古屋城に続く第2位に。6月末には一時圏外になるものの、7月2日の第17回報告で大きな票が入り、第2位に復活。好位置をキープしたが、7月半ばからは伸び悩み再び圏外に。再度盛り返すも力尽き、最終的には17位で終了、ランキング圏外となった。筆者は最終結果を知っていたのだが、日々移り変わる順位に思わずドキドキしてしまった(笑)。

図2.第17回投票報告(途中経過)と投票券

次の紙面は最終投票結果と多加良浦のランキング推移の一部である【図3】。

図3.第1位当選は天理教教務支庁、
他にも当時の名所が並ぶ

【多加良浦のランキング推移】(一部)
◆第3回報告(6月16日)
  第3位 40票
◆第5回報告(6月18日)
  第2位 139票
◆第13回報告(6月27日)
  圏外 第13位 546票 
◆第17回報告(7月2日)
  第2位 2,872票
◆第22回報告(7月8日)
  第4位 3,638票
◆第28回報告 (7月15日)
  圏外 第15位 4,753票
◆第34回報告(7月22日)
  第10位 8,398票
◆第45回報告(8月5日)
  圏外 第16位 9,315票
◆最終結果(8月14日)
  圏外 第17位 16,200票

この投票は各候補地の関係者、団体の組織票に大きく左右されたと考えられる、実際に上位入賞地は名古屋市内の人口の多い地域、あるいは大組織を背景に持っており、名古屋南西郊外の新開地、多加良浦にはなかなか厳しい状況だったのかもしれない。

この企画は7月にオープンしたばかりの多加良浦遊園地にとって同地を大きく宣伝する格好の機会だったはずだ。しかし、残念ながら圏外、それでも投票数1万6千票というのはなかなか立派ではないか。何とかランクインすべく投票行動に出た住民や関係者の泣き笑い、その必死な姿が浮かんでくるようである。郷土史調査の醍醐味だ。


多加良浦 辯天寺~多加良浦遊園地唯一の遺構

前記事でも触れたが、多加良浦遊園地の跡地、現在の多加良浦町には辯天寺(竹生島名古屋別院、多加良浦 寶生山 辯天寺)がある【図4】。改めてこの寺院の詳細について触れてみたい。

図4.多加良浦辯天寺。とても立派なお堂だ

※辯天寺についてはこちらの記事も

◆辯天寺の由緒書
辯天寺で寺の由緒書を頂いてきた。この由緒書によると創建は1925年(大正14年)、つまり多加良浦遊園地の開設と同時期ということがわかる(お寺の関係者のお話では大正末期の創建と伝わるとのこと)。また本堂は創建当時の建造物であるという。

当山は神亀元年(七二四)聖武天皇の御神託により、僧行基が創建し給う近江国竹生島の名古屋別院として大正十四年建立される。

辯天寺で配布されている由緒書から

また、辯天寺は「なごや七福神辯才天霊場」「名古屋二十一大師第十二番霊場」「名古屋三弘法第二番霊場」でもあるという【図5】。

図5.辯天寺境内の石碑

名古屋三弘法めぐり(霊場)について、境内の案内版には次のような記載がある。

この霊場は昭和二年の秋、四国八十八ヶ所霊場巡拝の一人の遍路が当地に来り(中略)「大師の化現利生の霊地ならん」と誓ったことにより開創されました。

現地の案内版より

これらのことから、弁財天(弁才天)が1925年(大正14年)の遊園地開設から1927年(昭和2年)までの間に、この地で祀られるようになったことは確かなようだ。再掲する『中京名鑑 昭和3年版』内の写真【図6】では鳥居とお堂が、また「竹生島弁財天奉納用地」と書かれた柱が見える。この写真は弁財天を勧請する前に撮影されたものだったのだろうか。また、『大日本職業別明細図』(1937年/昭和12年)【1】では同所が「多加良浦弁天堂」と記載されており、当時、辯天寺という寺名は使用されていなかったようだ。このあたりの寺社制度の歴史と変遷については、詳しい方にご教示いただきたい。

図6.『中京名鑑 昭和3年版』内で
紹介される多加良浦(竹生島弁財天)

前記事でも紹介したとおり、多加良浦遊園地内の池に島が建造され、その島の中に現在の辯天寺が建てられている。この形は各地で見られるデザインであり、多加良浦遊園地が開設された1925年(大正14年)には、同じく名古屋市の中村遊廓隣接地の遊里ヶ池内にも島と弁天堂が建造されている(同様に竹生島から弁財天が勧請されたもの)。これは東京、上野の不忍池を模したものであり、土地の繁栄、観光地としての整備がその目的であった。画像は遊里ヶ池に建造された弁天堂である【図7】。

図7.中村遊廓隣接地、遊里ヶ池に
も弁財天が祀られていた

※遊里ヶ池についてはこちらの記事も

多加良浦も遊里ヶ池と同様に市民の娯楽の場所として弁財天を勧請することになったのであろう。そして辯天寺は多加良浦遊園地の唯一の遺構でもあるのだ。


多加良浦と稲永に現存する遺構

「名古屋三弘法第二番霊場」でもある辯天寺。現在、寺の前にはそのことを示す石柱が建てられている【図8】。建立されたのは1932年(昭和7年)11月、施主は名古屋市南区錦町の福本食堂 I夫妻(経営者か)であった。南区錦町とは現在の港区錦町、戦前の稲永遊廓区域内にあたる。同遊廓には福本楼という貸座敷もあったが、経営者は別人物である。貸座敷と食堂に関係があったのかは不明である。

図8.辯天寺境内にある石柱

また稲永遊廓跡地、錦町の錦神社に現存している鳥居は1932年(昭和7年)1月に建立されたものだ。鳥居には福本バーという屋号、そして多加良浦の石柱と同姓同名の I夫妻の名が寄附者として刻まれている【図9-1.9-2】。なぜ稲永遊廓内の業者が多加良浦辯天寺前の石柱の施主となったのだろうか。現段階でわかることは同一人物の名が残るという事実だけだ。しかし、ともに築地電車沿線にあった遊廓と遊園地、形は違えどそこに何らかの関係性、経緯があったことを考えさせられる遺構でもある。

図9-1.稲永遊廓跡、錦神社
図9-2.錦神社境内の鳥居

参考までに、築地電車が稲永遊廓から明徳橋に延伸してからの同社営業状況を次の通りまとめてみた【図10】。築地電車の大正10年代初期の年間乗客数はそれまで約50万人、年間乗客収入も2万円代後半から3万円程で推移していたが、稲永から明徳橋、明徳橋から下之一色まで延伸することで乗客数と乗客収入は倍増、乗客収入も増加している。その利用者がすべて遊客というわけではないが、大正期から昭和にかけて大きく発展していった名古屋港湾部、また多加良浦遊園地や稲永遊廓などの発展の一端をうかがうことができるデータである。

図10.築地電車延伸によって乗客数、収入は大きく増加している【無断転載禁】

おわりに〜多加良浦遊園地の終焉

戦前名古屋の名所として賑わいを見せた多加良浦遊園地。この施設がいつ閉園したのか、今回の調査ではその時期について確定することはできなかった。しかし1936年(昭和11年)に発行された『名古屋市土地宝典』【2】を見ると、弁天堂を取り囲む部分を残して北側の大きな池は消失、南側の遊園地周辺一帯も住宅地に変わっていることがわかる。

遊園地の閉園については現地の住民の方もご記憶がないとのことであったが、この時期に閉園し(あるいは規模が縮小)、一帯は宅地化されていったのではないだろうか。仮に昭和10年代に閉園していたとしたら、多加良浦遊園地が存在したのは僅か10年間という短い期間だ。同園に関する写真や史料が少ないことにはそういった理由があるのかもしれない。

市民の記憶からも、郷土史の記録からも消えつつある幻の遊園地の歴史。戦前から戦後にかけての同地の繁栄と賑わい、その移り変わり…現在は静かな住宅街であるこの地には、どのような景色が広がっていたのだろうか? 池に浮かぶお堂【図11】の中、静かに時を過ごされている弁天様に詳しくお話をうかがいところだ。【完】

図11 多加良浦遊園地唯一の遺構、辯天寺と池

■参考資料
【1】『大日本職業別明細図』東京交通社 ,1937年(昭和12年)
【2】井田耕司『名古屋市土地宝典 昭和11年南区西部』大日本帝国市町村地図刊行会,1936年(昭和11年)

■図・画像
【トップ画像】
吉田初三郎『名古屋市鳥瞰図』名古屋汎太平洋平和博覽會事務局 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図1】『新愛知』新愛知新聞社,1925年(大正14年)6月12日
【図2】 『新愛知』新愛知新聞社,1925年(大正14年)7月2日
【図3】 『新愛知』新愛知新聞社,1925年(大正14年)8月14日
【図4】 多加良浦辯天寺 ,2024年(令和6年)5月撮影
【図5】 多加良浦辯天寺 ,2024年(令和6年)5月撮影
【図6】 『中京名鑑 昭和3年版』名古屋毎日新聞社,1928(昭和3年)国立国会図書館デジタルコレクションより
【図7】 『名古屋新聞』名古屋新聞社,1935年(大正14年)10月15日
【図8】 多加良浦辯天寺 ,2024年(令和6年)5月撮影
【図9‐1,9‐2】 錦神社 ,2024年(令和6年)5月撮影
【図10】『電気鉄道事業営業統計書』電気協会関東支部 ,1921年(大正10年)~1928年(昭和3年),から筆者作成
【図11】  多加良浦辯天寺 ,2024年(令和6年)5月撮影