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中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々③


今回紹介する2本のコラムでは各ビール会社が当時名古屋市内、そして中村遊廓内でどれほどの販売実績を持っていたのかについて触れられている。文中の統計数字は推定であり、正確性については担保できないが、当時の各ビール会社の状況を知る上で、大変貴重な記述であると考える。


名古屋市内と中村遊廓内でのシェア

小さい効果と大きい~ビール戦の序幕(D)

驚嘆に値するほどの金を使って、アサヒ、カブトの両社が一年中に中村遊廓内へ売り込むビールの高は? それは、両社各々の宣伝もあって実際の数はハッキリしないが――ここに両社当時の云うところを総合、斟酌して徐(おもむろ)に想像してみると――。
景気、不景気によって多少の増減は免れぬが、まず、アサヒ、カブトの両社とも、一年に千五百箱内外(生は別で)というところが、動かぬところではあるまいか。
だと、すれば――。
両社合わせて、三千箱見当というとこになるわけだが、これを茲(ここ)に市内への総売行高と比較、対照してみるとき始めて両社が西郊の一区画、中村遊廓内でその覇を争うために、いかに大きな犠牲を払っている――かが肯(うなず)かれるであろう。
昨年の市内への販売高は、約十万箱(アサヒ、カブト、キリン、サクラの四社を合わせて)だった、と当業者は報じている。十万箱に対する三千箱。それは、あまりにも大きい犠牲である。十万箱に対する三千箱は、とりも直さず百に対する三であるが、アサヒ、カブトの両社は、この百に対する三のものを確保するために、いかに不断の犠牲を払い、いかに細心の注意を向けていることか。                
第三者から見たら、むしろ不審に思われるくらいであるが、当事者達は双方止むに止まれぬ意地と張りとで競り合っているのだから、そこに自から興味もつながれるわけで――。
しからばその意地とは? 張りとは?
 之を一言にして蔽(おお)えば――つまり「ああした場所柄へは、多少の犠牲は忍んでも売り込んでおかなければ損だ」というので、最初、カブトの地盤へアサヒが割り込んでいった――のに対して、カブトでも対面上放っておけず
「よし!そんならばこちらでも……」というので引くに引かれるまま向き直ったのが、つい今日のような結果を招いた――までのことで。
実をいうと、アサヒでもカブトでも、よもやこうした(冷ややかに考えてみると馬鹿らしいような)結果になろうとは、思ってもいなかったらしい。そして、近頃になって実際の効果と比較して、その犠牲のあまりに大きいのに今更の如く考へ出したようである。
それは――。
毎年今頃になって何かやる両社が、今年は一向にやりそうな気配も見えずかえって「能(あた)う限り消極的に」やりそうな色が窺(うかが)われるのに徹しても、明らかである。

 『新愛知』
1928年(昭和3年)4月19日

瓶詰ではカブト 生ではアサヒ ~ビール戦の序幕(E)

わが国における二大ビール会社として、自他ともに許すアサヒとカブトの両社が、猫の額のような中村遊廓で飛んだ廓の鞘当てを演じている一節は、大体これくらいに止めておいて、さて――次は。名古屋全市にわたる両社の精魂相しぼる大ビール戦へと移るならば。アサヒ、カブト、キリン、サクラの四社が昨年中に市内へ販売した総高は前述の如く、約十万箱(生は別で)だった――と、当業者は報じている。約十万箱!これを四社がいかに売り込んだか?と、その内側をアサヒ、カブトの両社について調べてみると――。まずカブトでは「カブト五万、アサヒ二万五千、キリン二万、サクラ五千」が動かぬところだといい、次にアサヒでは 「カブト四万五千、アサヒ三万、キリン二万、サクラ五千」が実際のところだろうと答えた。一方では「五対二・五」だといい、更に一方では「四・五対三」が事実だという。ここらに、両社の駆け引きがあるわけだが、とにかくこれによって見ると――。市内ではまだ何といっても歴史的に古いカブトの勢力に牢固として抜くべからざるものあることが判り、これと同時に、わずか数年の間によくこれだけカブトの堅塁に迫り得た商敵アサヒの努力に並々ならぬものあることが判る――わけである。次に、生ビールではどうか? というと――。まず。「これつばかりは、うちの方が殆ど絶対的に優勢でしょう」とアサヒ側では鼻を高くしていた。これは、カブトでも大体認めているようである。なにしろ一方は市内に工場を持って、いわゆる「出来たての生ビール」を直接市民に供給することができるのに、これに反し、ほかの一方では――名古屋と目と鼻の半田に工場を持っているとはいうものの、名古屋まで持ち出す時間が容易でなく、殊に、現在のように汽車輸送によるとすれば、一旦、稲沢の操車ヤードに入れられてから、更に名古屋へ逆戻りの不便に堪えねばならず、したがって生では流石のカブトも残念ながらアサヒに一歩を譲らねばならぬことになる。故に、まず、アサヒ・七、カブト・二、其の他・一、というところが、当たらずとも遠からず――というところではないだろうか。  

『新愛知』
1928年(昭和3年)4月20日

コラム記事から読み取れること

今回紹介した2本のコラムの内容をまとめると次のようになる。

1927年(昭和2年)時、名古屋市内でのビール販売数はおよそ10万箱、但しこの本数には生ビールが含まれていない。下記の通り『麥酒読本』によると、木箱1箱には大瓶4打(4ダース・48本)を詰めていたというから【1】、瓶に換算すると480万本ということになる。

外装は生麥酒では樽のまゝであるが、瓶詰は破損せぬ様麦桿包(輸出品は段ボールの包)で各瓶を被い四打を木箱に収める。(中略)この四打詰大箱は商品としての麥酒取引単位であって……

『麥酒読本』【1】

当時のビールは酵母を熱処理後、出荷する(瓶詰)。「非」生ビールが主流であった。一方、生ビールは酵母を熱処理せず濾過によって除去、樽詰で出荷されていた。当時の広告を見ると、確かに樽だ【図1】。

【図1】アサヒは新鮮な生ビールを
アピールしている【無断転載禁】

さらに、『麥酒読本』では次のように詳細が記されている。個人的にとても面白く、ビールだけで一本記事を書きたいくらいだ。

樽詰めは短時間の飲用のため湯通し※をしない生麥酒を供給するのを目的としてゐる。(※湯通しは殺菌処理のこと)

『麥酒読本』【1】

酵母を除去しない生ビールは発酵が進み味が落ちる。つまり鮮度が重要だ。この点で名古屋市内に工場【図2】を持っていたアサヒが優位だったということになる。

【図2】当時、名古屋市内唯一のビール工場だったというアサヒの工場【無断転載禁】

また、当時の大瓶は3合8勺(685mℓ)の容量だったとあるので【1】、ビール瓶換算で480万本だと名古屋市内で年間約3,288,000ℓものビールが消費されたことになる。1928年(昭和3年)『名古屋市統計書 第30回』によると、同年12月末の名古屋市の本籍人口は600,345人(ちなみに現住人口は949,966人)。計算してみたところ、20歳以上の本籍人口は340,042人なので【2】、仮に20歳以上を成人として計算した場合、1人あたり年間約9.7ℓの消費量となる。※統計書の年齢別人口の記載は本籍人口のみ。

ちなみに、キリンホールディングスのHPによると、2023年(令和5年)の日本国内の成人1人あたりの消費量は34.2ℓだったという。日本人のビール消費量はこれだけ増えているということだ。めちゃくちゃ面白い。

また、中村遊廓へはアサヒとカブト2社で年間3,000箱(ビール瓶換算14万4千本・生は別)が納入されたという。これは遊廓内の貸座敷だけでなく遊廓周辺の待合、飲食店などでの消費されたものも含まれていると考えられる。キリン、サクラの販売数は不明のため、2社の3,000箱だけで計算すると、中村遊廓で消費されるビールは市内販売数の僅か3%程度ということになる。意外と少ないな…と率直な感想を持ったわけだが、コラム内には「ああした場所柄へは、多少の犠牲は忍んでも売り込んでおかなければ損だ」とある。

当時名古屋市内では遊廓だけでなく、大須や広小路の飲食店、カフェーなども同等、それ以上の消費地であったと考えられるが、各社にとって遊廓は単なる一市場というだけでなく宣伝の場として、意地でも負けられない場所であったということなのだろう。

■市内でのビール販売数10万箱(生ビールを除く)の内訳をまとめると次のようになる※当時のアサヒにはサッポロブランドのビールも含まれる。

■カブト側の分析
5万箱(カブト)2.5万箱(アサヒ)
2万箱(キリン)0.5万箱(サクラ)
 
■アサヒ側の分析
4.5万箱(カブト)3万箱(アサヒ)
2万箱(キリン)0.5万箱(サクラ)

こう見てみると、やはり、地元企業のカブトビールは強い!。しかし、生ビールになると名古屋市内に工場を出したアサヒが圧倒的な優勢で、なんと70%ものシェアを獲得していたようだ。

■生ビールのシェア比
7(アサヒ):2(カブト):1(その他)

当時の新聞紙面には様々な広告が掲載されている【図3】

【図3】当時の新聞紙面の広告【無断転載禁】

稲沢の操車ヤード(稲沢操車場)について

名古屋市(千種町)に工場を持つアサヒに対して、半田町(現・半田市)に工場のあったカブトは一旦、愛知県西方の稲沢町(現・稲沢市)の操車ヤードを経由して名古屋市内へ商品を輸送する必要があったという。ちなみに半田町から稲沢町の操車場へは直線距離で約40km、操車場から名古屋駅へは直線距離で約10kmとなるから、合計50km…かなりの距離だ。前項で記した通り、やはり新鮮なビールを届ける、という意味ではカブト他各社はかなり厳しかったのだろう。

地理院地図Vectorへ筆者加筆

この記事を書き始めるまでその存在を全く知らなかったのだが、稲沢操車場が竣工したのは1925年(大正14年)1月のこと、操車場とは鉄道貨物を受け入れ組成・入替を行う施設であるという。

同操車場の敷地面積(設計時)は東西5.6キロメートルにも及ぶ広大なもので【3】、神奈川・新鶴見操車場、大阪・吹田操車場とともに「日本三大操車場」のひとつであったという【4】。跡地に訪れてみたが、これほどまでの大規模施設が稲沢にあったのか……というのが正直な感想だ。とても勉強になる。

画面右側の商業施設あたりが操車場の敷地だったという。
稲沢駅東口には操車場の歴史を
記したモニュメントが

④に続く(近日公開)

 ④ではいよいよ中村遊廓内でのビール会社の戦略の詳細が明らかに。
 めちゃくちゃ面白い。


■参考資料
【1】  高山謙治『麥酒読本』帝国出版協会 ,1936年(昭和11年)
【2】『名古屋市統計書 第30回』名古屋市 ,1938年(昭和3年)
【3】『稲沢市史』稲沢市,1968年(昭和43年)
【4】  現地解説プレートより

■図・画像
【トップ画像】『大日本麥酒株式会社三十年史』大日本麥酒株式会社,1936年(昭和11年)東海遊里史研究会蔵
【図1】『新愛知』新愛知新聞社,1928年(昭和3年)5月24日
【図2】『名古屋新聞』名古屋新聞社,1934年(昭和9年)4月29日
【図3】『新愛知』新愛知新聞社,1924年(大正13年)11月11日(左)・1928年(昭和3年)5月27日(右)

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