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戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史③【完】


これまでの記事①②では南連の歴史、そして現地の様子について紹介してきた。今回はいよいよ最終回である。


なぜこの場所に歓楽街が?

記事①の冒頭で紹介した通り、金山地区は ”名古屋の副都心” とも呼ばれる場所だ。しかし、その中心地となっている金山駅が設置されたのは戦時下の1944年(昭和19年)9月のこと【図1】、名鉄岐阜線と豊橋線が東西連絡線の開通によって初めて接続され、それに併せて金山駅が開業した。記事内で「決戦輸送」とあるように、戦時下の非常時に突貫工事を進め完成させたものであったという。

金山駅が現在のようなターミナルとしての機能を持ったのは戦後のことである(駅舎は現在地と異なる場所にあった)。

【図1】名鉄名岐線と豊橋線をつなぐ東西連絡線の開通と併せ金山駅が開業

では金山駅が誕生する以前、なぜ熱田郊外の宿亀・澤上の地が歓楽街として発展していったのであろうか? 

そこにはいくつかの理由があったようだ。まずは1908年(明治41年)、名古屋電気鉄道株式会社によって名古屋市街の中心部、栄町から熱田までの電気鉄道(電車)が敷設され「熱田線」が開業したことである【1】。旧来、熱田から名古屋市街へはこの熱田線敷設路線の西側を並行して通っていた名古屋道(名古屋街道、美濃路とも)が主要な街道となっていたが、この電気鉄道敷設によって人の流れは大きく変わることになった【2】。

このあたりは一面の水田であつたのだ、熱田の宮から名古屋へ通ふ名古屋道にのみチラホラと人の影がみえる以外、所々にもくりもくりともり上つた狐穴が氣味の悪い静けさをたゝへていゐた。
だが電車が敷かれる段になつて形勢は全くガラリと一變した名古屋道は火の消えたやうに文明の後に残された、そしてこの電車線路に沿つた大道路に繁盛の港は引越してきたのだ、……

『名古屋新聞』
昭和11年(1936年)9月2日【2】

そして、もうひとつ、熱田周辺に広がっていた工業地域の労働者たちの存在と、宿亀・澤上の立地にある【3】。

熱田に住んで居る大小工場の勞働者は凡そ一萬五千人はあらうと思ふ斯様に澤山労働者があるから澤上の料理店や飲食店は大いに繁昌して居る、勞働者殊に獨身の勞働者の唯一の慰安はああ云ふ所で性慾を充たすにあると思ふ……

『名古屋新聞』
1919年(大正8年)8月23日【3】

明治末期の市街図【図2】では、宿亀・澤上の南東1km弱の地点に砲兵工廠、日本車輌の巨大な工場が(現イオンモール熱田他)、他にも周辺には三重紡績、名古屋瓦斯などが描かれている。この地図は実際よりも南北方向に若干長く描かれており、現地を確認すると旧歓楽街と砲兵工廠との距離感はかなり近いことがわかる。また、新聞記事にあるように、その他一帯にも多くの関連工場があったと考えられる。

【図2】明治末期の市街図、熱田周辺は
工場地帯でもあった

澤上本通りと一帯の賑わい

昭和初期(大正期とも)には熱田線の澤上電停南側に澤上本通り(商店街)が作られた【図3】。

【図3】沢上交差点、沢上停留所の
南側に澤上本通りが作られた

当時の新聞【4、図4】では次のように紹介されている。他にも映画常設館「澤上館」を中心とした澤上広小路発会という組織も存在し、一帯は熱田伝馬町と互角に渡り合う程の商業地になっていたという。

この澤上本通りは戦災を免れ、現在は沢上商店街として現存している(現在の通りは後に拡幅されたと記述がある)【5】。

市電澤上停留所から少し南を西に入る筋二丁余の通り澤上本通りは道幅一間足らずであるため物凄い雑踏振りを見せてゐる、しかも大部分が御婦人方なので一歩通りへ足を入れるとムツとくるのは脂粉の香りとでも申しませうかイトモ悩ましい體臭が男性のハートを刺激する
この通りで目につく事は呉服屋さん洋品店の多い事である、(中略)四十三軒の發展會の連中が集つてヒネリ出したのが當世流行のネオン装飾……”新時代に生きる商店街にはこれに限る”と云ふんで二十六日から”澤上本通り”のネオンと帽子型の大きなネオン飾りが出來上つて一層散歩客の出足をそゝつてゐる。
通りのゴツタ返しでモミクチヤにされて電車路に出ると筋向ひ側の映画館澤上館横の廣場が遊戯場の役目を務めてゐる、狭いながらもローラースケート場もあり、半弓場、射的屋と並んでゐる……

『新愛知』
1936年(昭和11年)6月26日【4】
【図4】1936年(昭和11年)頃の
澤上本通り
現在の沢上商店街
沢上商店街のアーチ

なぜ歓楽街があったのか? そこには必ず背景がある。それを知るとさらに深く当時の姿を理解することができるのだ。


おわりに ~歓楽街の名残

本記事の最後に、旧・字宿亀の一角にある八白龍神社を紹介したい。

1923年(大正12年)11月に今飯田正三郎ら地元有志によって創建されたこの神社、境内の鳥居の施主は前記事①でも触れた芸妓置屋「金亀」の経営者夫妻、そして手水舎の裏側に「つたや(家)」「金亀」などの屋号、芸妓名が残されている。手水舎の刻銘は風化が進み判別が難しい状況であり、そう遠くない将来、その文字は消失してしまうと思われる。

1923年(大正12年)に創建された八白龍神社
鳥居には芸妓置屋「金亀」の屋号が残る
境内の手水舎「つたや」の屋号や
芸妓の名が僅かに確認できる

記事①の冒頭で「現地に当時を窺わせるものはない」と書いた、しかしそれは間違いだった。何も無いのではなく、自分自身何があるか知らなかっただけだ。この神社には、これまで紹介してきた芸妓置屋組合「南連」と、歓楽街の歴史が確かに刻まれている。【完】

【2024年(令和6年)6月、ことぶき作成】

※本ブログは2024年(令和6年)6月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。


■参考資料
【1】『市営三十年史』名古屋市交通局 ,1952年(昭和27年)
【2】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1936年(昭和11年)9月2日
【3】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1919年(大正8年)8月23日
【4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1936年(昭和11年)6月26日
【5】『熱田市誌』熱田区制五十周年記念誌編集部会 ,1910年(昭和62年)

■図・写真
【図1】『中部日本新聞』中部日本新聞社 ,1939年(昭和19年)9月2日
【図2】『最近名古屋明細地圖』冨田屋 ,1910年(明治43年)東海遊里史研究会蔵
【図3】『名古屋市街全圖 第二十三版』六樂會,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1936年(昭和11年)6月26日