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戦前名古屋に存在した「多加良浦遊園地」とその歴史①


はじめに

名古屋市の港湾部、港区の多加良浦町にはかつて「多加良浦遊園地(たからうら・ゆうえんち)」という施設が存在した。当時、同園は夏季を中心に多くの市民を集める名古屋名所のひとつでもあったが、その実態については郷土史料などに僅かな記述が残るのみである。今回の記事では多加良浦遊園地が開設された大正末期~昭和初期の新聞記事、刊行物などの史料から可能な限りその姿に迫ってみたいと考える。インターネットだけでなく刊行物などにも情報が少なく、個人的にとても面白い調査テーマであった。 


多加良浦遊園地の所在地

多加良浦遊園地の所在地、多加良浦町は名古屋市中心部から南西約10km、名古屋港から西へ約3 km、名古屋市西部を流れ伊勢湾に注ぐ一級河川・庄内川(西側は同水系の新川)の東岸に位置し、伊勢湾の河口からは約1.5kmの地点となる。まずは戦前、1937年(昭和12年)頃の地図を参考にしていただきたい【図1】。画面左が庄内川と新川。東岸の多加良浦電停が多加良浦遊園地の最寄になる。画面中心にあるの稲永遊廓(錦町遊廓)、画面右側が名古屋港だ。

図1.戦前の名古屋港湾部【無断転載禁】

同町は近世期の干拓地をルーツとしており、宝来新田→宝神新田→愛知郡寛政村→愛知郡小碓村と変遷、遊園地が開設された1925年(大正14年)当時は名古屋市南区宝神町となっていた。その後、1937年(昭和17年)に港区多加良浦町として成立、現在に至っている【1】【2】。

一帯がいつから「多加良浦」と呼称されるようになったのか、その詳細は不明であるが、同地のルーツでもある宝神新田、宝神町の一字「宝(たから)」を由来とするものであったと考えられる。


遊園地の新設~多加良浦海水浴株式会社の設立

では、なぜ市街地から遠く離れたこの地に遊園地が開設されることになったのだろうか。まずは当時の新聞記事と刊行物の記述を紹介していきたい。

現段階で「多加良浦町遊園地」という施設名の初出と考えられるのは、次の新聞記事だ【図2】。開業は1925年(大正14年)7月5日頃であったという。

図2.「多加良浦遊園地」
初出と思われる新聞記事

水清く砂白き庄内川の伊勢湾に注ぐ河口松翠の新天橋を前にした南区寶神町の地先は往古小碓尊の船師をとゞめさせられた遺跡で海水浴場として無二の好適地である 今回築地電車開通して市電との連絡が出來た関係上同地方の有志は此處を水の公園地として海水浴、水泳其他陸上運動など夏季遊園地に造りあげるはずで、目下工事中である(中略)七月五日頃には開場の予定、田阪市長の命名で「多加良浦遊園地」と名づけたさうである。完成の上は名古屋に一つの新名所が出來る譯である

『新愛知』1925年(大正14年)6月16日

◆多加良浦遊園地の命名者
新聞記事の通り、多加良浦遊園地の命名者は当時の名古屋市長、田阪千助であった。

◆同地方の有志とは?
当時の官報では、1925年(大正14年)7月1日に多加良浦遊園地一帯の娯楽場経営、土地建物売買賃借を目的とした多加良浦海水浴株式会社の設立が確認できる。代表取締役は石原秀治郎、その他取締役は服部甚太郎、岡田慶太郎、渡辺惣兵衛、加藤富三郎の4人である【図3】。

図3.多加良浦海水浴株式会社が設立

代表取締役の石原は寛政村、小碓村の村会議員、後に県会議員、市会議員を務めた。また、後述する築地電軌株式会社で取締役を務めていた人物でもある【3、図3】。もう一人の取締役、服部も後に名古屋市惟信町土地区画整理組合の副組合長を務めるなど【4】地域の有力者が遊園地設立に関わっていたことがわかる。

図4.多加良浦海水浴株式会社
の代表を務めた石原秀治郎

石原は多加良浦について、当時の新聞記事で次のように語っている。同地に生まれ育った彼のなんとも地元愛に溢れたコメントではないか…

築地電の石原秀次※郎氏が代表者となつて、あれこれと発展策を講じて居る
新川が堤を中にして庄内川と相對して居る所などは天の橋立、そつくりだとは石原君の御自慢名古屋で川の眺望を擅にする事が出來るのは、こゝばかりですヨ ※原文ママ

『新愛知』1927年(昭和2年)11月17日

しかし、多加良浦海水浴株式会社は設立から僅か3年後の1928年(昭和3年)に解散、築地電軌株式会社に買収された【図5】。以降は同社が海水浴場、遊園地一帯の経営を担った。多加良浦海水浴株式会社の解散理由についての詳細は不明である。

図5.多加良浦海水浴場株式会社は
築地電軌株式会社に買収された

築地電軌株式会社〜路線の延伸

築地電軌株式会社は岐阜県出身の大地主、渡辺甚吉を中心に1916年(大正5年)3月に資本金20万円で創立、1917年(大正6年)には名古屋港の築地口から稲永(稲永遊廓前)までの電気軌道路線を開通させた【5】。当時この路線は築地電車、築地電鉄などとも呼ばれていた。1925年(大正14年)には稲永から明徳橋まで【図6】、翌1926年(大正15年)には明徳橋から下之一色まで延伸、名古屋市街地へ向かう下之一色電車軌道(通称、一色電車)と連絡されるなど、遊客だけでなく港湾関係者の移動手段として、また名古屋市街から西回りで稲永・名古屋港方面へアクセスするもう一つの路線として利用された。

図6.築地電車は稲永から明徳橋まで延伸

吉田初三郎が描き、1937年(昭和12年)に発行された鳥瞰図を見ると名古屋港~稲永~多加良浦~下之一色まで、その位置関係がよくわかる【図7】。

図7. 築地口から下之一色へ築地電車が延伸、多加良浦遊園地はその沿線に新設された。【無断転載禁】

それまで稲永や下之一色方面から徒歩でのアクセス手段しかなかった宝神町地域にとって、築地電車の延伸は遊園地への観光客誘引、土地売買や賃借など産業振興、地域の発展を見込める大きなチャンスでもあったのだ。発展著しい同地の様子について、遊園地が開設された2か月後の新聞記事では次のように触れられている。

一色村の庄内川が名古屋港に注ぐ邊りを隔てゝ同浦と相對し東南に築港街や水郷の色里を控へ近来其発展膨張振は實に驚くべき勢ひである

『新愛知』1925年(大正14年)9月5日

築地電車の延伸がなかったら、多加良浦遊園地は誕生しなかったといっても過言ではない。それだけ密接な関係にあったのだ。


【2】へ続く

次回は多加良浦遊園地の設備や現在の様子、現地でのヒアリング内容、そして稲永遊廓の遊園地の関係に触れていきたい。


■参考資料
【1】『大正昭和名古屋市史 第9編(地理編)』名古屋市,1955年(昭和30年)p.270
【2】『なごやの町名』名古屋市,1992年(平成4年)
【3】『中京名鑑 昭和3年版』名古屋毎日新聞社 ,1928年(昭和3年)p.18 国立国会図書館デジタルコレクションより
【4】『都市創作6(1)』都市創作會 ,1930年(昭和5年)国立国会図書館デジタルコレクションより
【5】『新愛知』新愛知新聞社 ,1927年(昭和2年)11月17日

■図・画像
【トップ画像】吉田初三郎『名古屋市鳥瞰図』
名古屋汎太平洋平和博覽會事務局 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図1】「市内観光地圖」『大名古屋』名古屋市役所,1937年(昭和12年)
【図2】『新愛知』新愛知新聞社 ,1925年(大正14年)6月16日
【図3】『官報』1925年(大正14年)9月16日
【図4】『中京名鑑 昭和3年版』名古屋毎日新聞社 ,1928年(昭和3年)p.18 国立国会図書館デジタルコレクションより
【図5】『官報』1928年(昭和3年)12月4日
【図6】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1925年(大正14年)7月3日
【図7】 吉田初三郎『名古屋市鳥瞰図』名古屋汎太平洋平和博覽會事務局 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵