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中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々②


今回の記事では前回に続き、下記2本のコラムを紹介する。各ビール会社の激しいシェア争い、営業活動の様子が続く。


激しさを増すシェア争奪戦

中村へ、中村へ 両社は積出す~ビール戦の序幕(B) 
春開けて、ビール戦の戦機ようやく熟さんとす!これが、目下の状況である。果して彼に、いかなる秘策やあらん?――アサヒ、カブト両社の第一線に立つ者(販売係)の胸の中は、浮世の春をよそに昨今こんな思いで一杯に満たされている。 奇策縦横。闘心勃々。そして、その前衛線は早くも中村遊廓一帯に亘って火蓋を切らるるに至った。 二、三日前のこと。今まで満を持して放たなかったカブトが、一挙に五百箱からの荷を中村へ送ったことが即(すなわ)ち夫(そ)れ、しからば、商敵アサヒはどうしたか?――と見ると。今年も始め、まだ松の内の正月二日のことだった。           アサヒの荷を積んだ馬車が納屋橋を渡って西へ、西へと続いた。一台…五台…十台…二十台…。納屋橋畔にあるカブトの支店にこれがわからぬ筈はない。同支店では、たちまちその行先を確かめることを忘れなかったと――。それは、以外にも中村遊廓へ! 「ふうん。モウやったのか」カブトでは、見て見ぬふりをしてひたすらに時の至るのを待つことに決めた。やがて、春爛漫の時がきた。時こそ来たれ!かくて――カブトでは、一勢に五百箱からの荷を、景気よく中村めがけて積み出していった。 ここで、ちょっと話が長くなるが、ついでだから両者がいかに中村へ力を入れているか――ということについて書いてみよう。中村こそは由来、ビール会社の「ぜひ占領しておかねばらなぬ一地帯」として、いつも今頃になると決まって劇しい斥候線の演出されるところでもあるので――。元来、中村はカブトのものだった。それが――アサヒが名古屋に工場を持って来てから、俄(にわ)かに両社の競争地帯となるに至ったのである。抜け目のないアサヒは、始め山本某という警官上がりの酒屋(禰宜町に店舗を構えている人)に巧くわたりをつけて、カブトの地盤へ割り込んでいった。ところ、その派手な根のいい割り込み運動は案外早く効を奏する時がきた。

『新愛知』1928年(昭和3年)4月14日

カブトvs.アサヒ! 当時の市内の状況

今回の記事内に登場する各所の状況を整理すると次のようになる【図1】。旧名古屋駅(現在の笹島交差点付近)の東方約3.6kmにアサヒの千種工場(のちの名古屋工場。当時東区千種町、現在の千種区千種2丁目イオンタウン千種付近)【図2】、また駅から僅か約600mの堀川東岸、納屋橋近くにはカブトの営業拠点、名古屋支店があった。そして、ビール戦争の最前線となる中村遊廓は駅西方、約1.7kmの地点だ。

【図1】アサヒ、カブト両社拠点
の名古屋市内での位置関係
地理院地図Vectorに筆者加筆
【図2】アサヒの名古屋における拠点、千種町の名古屋工場(名古屋支店の機能も)
【図3】アサヒ千種工場には
直営のビアホールも

記事を読む限り、アサヒ側の中村遊廓への贈答用ビールを乗せた馬車は名古屋のメインストリート(当時)、広小路通りを西方に進み、中村遊廓へ向かったということになる。広小路通から笹島の名古屋停留所方面に向かうためには納屋橋を渡る必要がある。その納屋橋が架かる堀川東岸にはカブトの営業拠点(名古屋支店)があったのだ【図4】【図5】。

堀川に架かる納屋橋
【図4】納屋橋東岸の新柳町1丁目
(画面中央、納屋橋停留所の南あたり)
にカブトの名古屋支店があった
【図5】カブト(日本麦酒鉱泉株式会社)
名古屋支店の広告

次回以降に紹介する記事内で、当時のビール箱は1箱4ダース入(48本)だったと記録がある。つまりカブト、アサヒ両社が寄贈したビール500箱は瓶に換算すると総数24,000本(2社で48,000本) ということになる。当時カブトビールを製造していた工場跡地、半田赤レンガ建物には当時のビール箱が展示されている(商用でなければインターネット上に掲載可との確認済み)【図6】。

【図6】半田赤レンガ建物に展示されている
荷車とビール箱

名古屋における新興勢力「アサヒ」と地元の雄「カブト」、中村遊廓でのシェア争奪戦は更に激しさを増していく。


サクラビールの苦戦

アサヒ、カブトのシェア戦いを中心に記事が展開していく中で、次はサクラビールの苦戦について触れられている。

残されたサクラの禍根 ~ビール戦の序幕(C) 
 アサヒが、カブトの地盤であった中村遊廓に進出して案外早く予期以上の好績を獲得したことは――。要するに、アサヒそのものの遣り方が派手好みな廓の人に思いの外、いい第一印象を與えたからであるらしい。第一印象といえば――。それは、むろん何商売にでも必要であるが、わけてビール会社のような「水商売」には欠くべからざる必須の条件。 サクラビールが、金を使う割に名古屋で売れないのも実は名古屋人に與えた第一印象があまり芳ばくなかったからでというのは外でもない――。はじめサクラが健気にも九州から長駆名古屋に進出を企てた時、名古屋ホテルに市内の主なる名士、関係者を招待して「サクラビールのお披露目」をしたことがあった。 その時――。いわゆる「来賓の貴顕紳士」に出したのが折り悪く、気の抜けたシャビシャビ※のまるで「なっていない」ビールであったとはどうした過失か。はじめて飲まされたビールがこんなでは、いい評判の立とう筈がない。 すなわち、サクラはその第一歩にして、既に取返しのつかぬ禍根を残したわけ。これを以(もっ)て見れば、サクラの今日、名古屋で振るわないのもまんざら理由のないことではない――わけである。もっとも、サクラには初手から根本的に不利な付帯条件があった。他ならず、中部日本にその工場がないために、いちいち門司の工場から取り寄せなければならぬことがそれ。 これでは、名古屋若しくは名古屋の近傍に工場を持って、いかなる突嗟(とっさ)の注文にも応じ切れるアサヒやカブトと対等の太刀打ちは出来たものでない。まして、際物中の際物であるビールにおいて――それは到底無理な念願である。 

閑話休題。話は元のアサヒ対カブトの戦塵渦巻く販売競争に還って、一体アサヒ、カブトの両社が西郊の一区画、中村遊廓へ売り込むためにどのくらいの金を使うか――というと、前述の両社が寄贈の「いたちごっこ」をしたことに徴しても明らかである如く、それは実に莫大なものであるらしい。まず、例のボンボリ(廓内に年中付けてあるもの)だけでもたいしたものであるに、やれ花火大会、やれ自転車競走、やれ何だ、彼だ、といって殆ど年中の「しづつけ」といった有様。これを通算したらおそらくビックリに値するほど巨額に達するものと観測されるが――さて、しからば。これほど金を使って、両社が一年中に廓内に売り込むビールは凡そどのくらいのものか? というと――。 

『新愛知』1928年(昭和3年)4月18日

コラム内にあるとおり、サクラビールの本拠地は名古屋から500km以上離れた北九州の門司である。サクラビールを製造販売していたのは帝国麦酒株式会社(当時、後に販売部門を分離し桜麦酒株式会社となる)、こちらも1913年(大正2年)に創業した歴史のある会社だ。現在、北九州市門司でも半田市同様にビール工場跡が観光地として活用されている。

また、2023年(令和5年)にはサクラビール復刻版が限定発売されていたという。惜しいことをした…

遠く門司からやってきたサクラビールは名古屋市内の名古屋ホテル【図7】でのお披露目会で大失態を冒してしまった。少し気の毒な気もするわけだが、それでも当時名古屋では一定のシェアを確保していたようだ(次回以降公開予定の記事より)。また、当時の新聞紙面でも同社の広告を度々確認することができる【図8】。

【図7】サクラビールのお披露目会が開催された名古屋ホテル(中区竪三ツ蔵町)
【図8】『新愛知』に掲載された
サクラビールの広告

③へ続く(近日公開)



■図・写真
【図1】国土地理院地図Vectorに筆者加筆
【図2】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1927年(昭和2年)11月15日
【図3】『新愛知』新愛知新聞社,1925年(大正14年)7月14日
【図4】『名古屋市街全圖 改正十七版』六樂会, 1935年(昭和10年)
【図5】『大日本帝国商工信用録 改訂増補37版【東海之巻】博信社,1924年(大正13年)
【図6】  半田赤レンガ建物(半田市榎下町)2023年(令和5年)撮影
【図7】『大名古屋』名古屋市役所 ,1933年(昭和8年)
【図8】『新愛知』新愛知新聞社 ,1924年(大正13年)12月12日