ことぶき

愛知県在住の会社員です。東海地方を中心とする郷土史、特に戦前の遊廓史に興味があります。

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愛知県在住の会社員です。東海地方を中心とする郷土史、特に戦前の遊廓史に興味があります。

記事一覧

戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史【2】

多加良浦遊園地はどのような施設だったのか 前回の記事では名古屋市の港湾部に多加良浦遊園地が開設される経緯、そして遊園地を経営していた多加良浦海水浴株式会社と築…

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18時間前
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戦前名古屋に存在した「多加良浦遊園地」とその歴史【1】

はじめに 名古屋市の港湾部、港区の多加良浦町にはかつて「多加良浦遊園地(たからうら・ゆうえんち)」という施設が存在した。当時、同園は夏季を中心に多くの市民を集…

ことぶき
1日前
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忘れられた歓楽街の記憶〜風営法と標識(愛知県の場合)【1】

はじめに〜鑑札と呼ばれるプレート 歓楽街(旧歓楽街含む)を歩くと、このようなプレートを目にすることはないだろうか。 その多くは店の玄関、あるいはドアに貼られてお…

ことぶき
2日前
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西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(3)【完】

盛栄連と八重垣倶楽部の関係 前々回の記事(1)でも記した名古屋を代表する芸妓組合、盛栄連の本拠地(事務所)はどこにあったのか? ここまで、すっかり八重垣町の変…

ことぶき
2週間前
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西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(2)

伊藤祐民と八重垣町 先に公開した記事のとおり、八重垣劇場の所在地は八重垣町ということで間違いなさそうだ。そして、当時の新聞記事を収集する中で、こんな小さな記事…

ことぶき
2週間前
7

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(1)

はじめに 「名古屋市西区八重垣町」。この町名を聞いてピンポイントに地図上を指し示すことが出来る方はどれほどいるだろうか。少なくとも私は(15年以上愛知県に住んで…

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3週間前
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遊廓跡の石柱~「新開地」中村のはじまり

はじめに   名古屋市中村区賑町と名楽町の町境、中村遊廓跡地南西部にあたる路地の一角に小さな石柱が立っている【図1】。その高さは約73cm、約30.5cm四方(共に筆者の…

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1か月前
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旭廓積善会供養塔とその歴史

はじめに 名古屋市の東部、千種区法王町にある覚王山日泰寺は1904年(明治37年)に創立された仏教徒超宗派の寺院である(創立当時の寺名は日暹寺、1941年(昭和16年)に日…

ことぶき
1か月前
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中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(2)【完】

前回公開した「中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)」では戦前名古屋に存在した貸座敷免許地、通称・中村遊廓と遊里ヶ池の誕生、遊廓の開設に併せ遊里ヶ池が…

ことぶき
1か月前
13

中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)

はじめに 名古屋市中村区道下町3丁目、日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院(通称・中村日赤)の敷地内にはかつて、遊里ヶ池(ゆうりがいけ)という大池が存在した。…

ことぶき
1か月前
25

noteはじめました

ことぶきです。今後記事をアップしていきたいと思います。

ことぶき
1か月前
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戦前名古屋に存在した名所「多加良浦遊園地」とその歴史【2】

多加良浦遊園地はどのような施設だったのか 前回の記事では名古屋市の港湾部に多加良浦遊園地が開設される経緯、そして遊園地を経営していた多加良浦海水浴株式会社と築地電軌株式会社について触れた。 今回は現段階で確認できる複数の史料から、遊園地の過去と現在の姿を明らかにしていきたいと思う。 これらが遊園地の設備だったようだ。庄内川畔には海水浴場、水上には飛び込み台や貸ボート、陸上には名古屋市内で”唯一”の競泳用プール、種々の遊具、貸席や温浴設備(浴場?)が、敷地内の池には島が

戦前名古屋に存在した「多加良浦遊園地」とその歴史【1】

はじめに 名古屋市の港湾部、港区の多加良浦町にはかつて「多加良浦遊園地(たからうら・ゆうえんち)」という施設が存在した。当時、同園は夏季を中心に多くの市民を集める名古屋名所のひとつでもあったが、その実態については郷土史料などに僅かな記述が残るのみである。今回の記事では多加良浦遊園地が開設された大正末期~昭和初期の新聞記事、刊行物などの史料から可能な限りその姿に迫ってみたいと考える。インターネットだけでなく刊行物などにも情報が少なく、個人的にとても面白い調査テーマであった。

忘れられた歓楽街の記憶〜風営法と標識(愛知県の場合)【1】

はじめに〜鑑札と呼ばれるプレート 歓楽街(旧歓楽街含む)を歩くと、このようなプレートを目にすることはないだろうか。 その多くは店の玄関、あるいはドアに貼られており、都道府県ごとにデザインや記載内容は様々のようだ。共通していることはひとつ、「〇〇県(府、道)公安委員会」という文字が入っていること。「お上」による何らかの認証があったことを示しているのは明らかだ。 インターネット、特にSNSが普及してからは全国各地の多くの方がこのプレートを投稿され、歓楽街の歴史に思いを馳せ

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(3)【完】

盛栄連と八重垣倶楽部の関係 前々回の記事(1)でも記した名古屋を代表する芸妓組合、盛栄連の本拠地(事務所)はどこにあったのか? ここまで、すっかり八重垣町の変遷に終始してしまったが、元々このテーマは芸妓街の所在地を知ることからスタートしたもの。やはり、その謎を明らかにする必要がある。 芸妓街等の大衆文化について知るには、当時の新聞が有効なのだ。一次資料ではないと軽視されるかもしれないが、やはり当時の新聞なのだ。 ※盛栄連についてはこちらを参照ください この記事【図1

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(2)

伊藤祐民と八重垣町 先に公開した記事のとおり、八重垣劇場の所在地は八重垣町ということで間違いなさそうだ。そして、当時の新聞記事を収集する中で、こんな小さな記事があった【図1】。 この記事から、八重垣劇場の大株主が伊藤次郎左衛門であったということがわかった。伊藤家はいとう呉服店(現在の百貨店・松坂屋)や伊藤銀行などの創業家としても知られる。「次郎左衛門」とは伊藤家で代々受け継がれる当主名跡であり、当時の当主は第十五代伊藤次郎左衛門、伊藤祐民(いとう・すけたみ)であった。伊

西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに(1)

はじめに 「名古屋市西区八重垣町」。この町名を聞いてピンポイントに地図上を指し示すことが出来る方はどれほどいるだろうか。少なくとも私は(15年以上愛知県に住んでいる)見当すらつかなった。しかも中区と西区の区境が戦後大きく変わったことも数年前に知ったくらいである。それもそのはず、この町名、過去~現在に至るまで ”正式に” 存在したことのない町名なのだ。(※そんなの知ってるわ!という方はご容赦ください) 戦前名古屋の花柳界について調べてみると、市内全域にわたって多くの芸妓街

遊廓跡の石柱~「新開地」中村のはじまり

はじめに   名古屋市中村区賑町と名楽町の町境、中村遊廓跡地南西部にあたる路地の一角に小さな石柱が立っている【図1】。その高さは約73cm、約30.5cm四方(共に筆者の実測値)、上部は半円状に加工されており、南側の一面には何らかの構造物と接合されていたような痕跡がある。 そして、北側の一面のみに 「大正十年三月」 と読める文字が彫られている。 石材や工法などについては筆者に知識がないため詳細は不明である。 石柱と徳佐川について  この石柱は現地で「徳左川の橋跡」

旭廓積善会供養塔とその歴史

はじめに 名古屋市の東部、千種区法王町にある覚王山日泰寺は1904年(明治37年)に創立された仏教徒超宗派の寺院である(創立当時の寺名は日暹寺、1941年(昭和16年)に日泰寺に改名)【1】。同寺境内の奉安塔には暹羅国(現タイ王国)より贈られた釈迦の霊骨 “仏舎利” が安置されており、古くより名古屋名所のひとつとして多くの参詣者があった【図1】。また、山号である “覚王山” は現在周辺地域の名称、また地下鉄の駅名などとしても広く使われている。 仏舎利が安置されている奉安

中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(2)【完】

前回公開した「中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)」では戦前名古屋に存在した貸座敷免許地、通称・中村遊廓と遊里ヶ池の誕生、遊廓の開設に併せ遊里ヶ池が整備され観光地になっていく過程を記した。後編となる今回の記事では遊里ヶ池に関して現地に伝わる話の検証、池の消失とその後について考察を加えていきたい。 日赤病院の建設~遊里ヶ池の消失 前記事のようにイベント会場や、観光地として市民に親しまれた遊里ヶ池は、1937年(昭和12年)に竣工・開院した日本赤十字社愛知支部名古

中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿(1)

はじめに 名古屋市中村区道下町3丁目、日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院(通称・中村日赤)の敷地内にはかつて、遊里ヶ池(ゆうりがいけ)という大池が存在した。その位置は1923年(大正12年)に新設された貸座敷免許地、通称・中村遊廓の西方隣接地にあたり【図1】、同遊廓の新設に併せ誕生した人工池であった。 当時名古屋市内にこのような大池は少なく、池畔一帯は観光地、イベント会場などとして市民に親しまれた。しかし様々なエピソードが残る一方で池の誕生から消滅まで詳細につい

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ことぶきです。今後記事をアップしていきたいと思います。