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西区八重垣町~名古屋城下、碁盤割のどこかに➁


伊藤祐民と八重垣町

先に公開した記事のとおり、八重垣劇場の所在地は八重垣町ということで間違いなさそうだ。そして、当時の新聞記事を収集する中で、こんな小さな記事があった【図1】。

伊藤次郎左衛門氏が一千株の大株主で資本金二十萬円を投じ建設する西區八重垣町の映畫常設株式會社八重垣劇場起工式は十八日午前十一時より同劇場の敷地に施行された。

『名古屋新聞』
1930年(昭和5年)3月19日
図1.八重垣劇場の起工式

この記事から、八重垣劇場の大株主が伊藤次郎左衛門であったということがわかった。伊藤家はいとう呉服店(現在の百貨店・松坂屋)や伊藤銀行などの創業家としても知られる。「次郎左衛門」とは伊藤家で代々受け継がれる当主名跡であり、当時の当主は第十五代伊藤次郎左衛門、伊藤祐民(いとう・すけたみ)であった。伊藤祐民は八重垣劇場が開業した1930年(昭和5年)10月時には名古屋商工会議所の会頭を務めるなど【1】、実業界に君臨する人物であった。

芸妓街のことを調べていたはずなのだが、すごいことになってきた... 

伊藤祐民については既に多くの記録が残されており、私の浅い知識では不十分と思われる。詳細は刊行物やWikipedia等を参照頂きたい。


国立国会図書館デジタルコレクションから

次に、伊藤祐民と松坂屋に関する史料を国立国会図書館デジタルコレクション内で確認することにした。

すると、伊藤祐民の伝記『伊藤祐民伝』【2】、当時の松坂屋が出版した『店史概要 新版』【3】に八重垣町新設に関する記述があった。

東照宮、那古野神社の東鳥居前より本町通りまでの八重垣町一帯に盛り場の現出を計胳し、大正四年より五年にかけて其の兩側に仲見世式の商店街を作り、映画館八重垣劇場料理兼貸席の八重垣倶樂部等を建築し、又本町角にサカエヤ支店を開設した。    

『伊藤祐民伝』

仲見世はぷらの八重垣などが軒をつらね、八重垣クラブ(演舞場)や八重垣劇場も開場していたので、栄屋分店の新装開店はこの名古屋仲店街に最後の仕上げの役割りをはたすものであったからです。また、この八重垣町は伊藤家の氏神である東照宮や那古野神社の東参道として新設されたものですから……

『店史概要 新版』

更に『城戸武男作品集』には「八重垣町仲店」という写真が掲載されていた【図2】。この作品集に八重垣町の場所を示す詳細の説明はない。しかし、上記の2冊の記述を参考にすると、那古野神社と思われる神社の鳥居前に洋館風の建物や、参道沿いの仲店のようなものが写っている。右手の白い建物は八重垣劇場だ。当時の八重垣町を知る数少ない、そして貴重な写真であろう。

図2.「八重垣町仲店」『城戸武男作品集』
国立国会図書館デジタルコレクションより

こうなると最初から素直に自宅のパソコンで国会図書館デジタルコレクションを見ればよかったのではないか? というご指摘がありそうな気がするが……それだけでは分からないこともたくさんあるのだ、と強調しておきたい。


次々と出てくる新聞記事

次は前項で紹介した1930年(昭和5年)3月、八重垣劇場起工式の記事を起点とし、その前後の年代の新聞記事を確認する作業だ。すると、八重垣町と近隣施設に関する新聞記事が次々と出てきた。どうやって調べるのか? というと当時の紙面を1ページづつをめくっていくというただただ時間のかかる、アナログな作業だ。1日かけて何もなかった、というケースも多々ある。

◆1929年(昭和4年)1月、東照宮前に料理店、貸席及び演舞場の設備を持つ「八重垣倶楽部」が竣工。この建物は「御守殿風」だったという【図3】。

図3.玄関右手に八重垣倶樂部という
看板が見える

◆1930年(昭和5年)10月、八重垣小路に映画館及び小劇場「八重垣劇場」が竣工、同月開場【図4】。

図4.八重垣劇場竣工時の新聞記事

◆1929年(昭和4年)、八重垣倶楽部北側(南外堀通り沿い)に名古屋銀行集会所の移転が決定(昭和6年竣工、現在新聞記事探索中)。

元控訴院跡へ銀行集會所移転
名古屋銀行集會所の移轉についてはかねて當事務所間に問題とされ市内西区元控訴院跡の西北隅(八重垣倶楽部北邊り)を第一候補地に挙げその所有者たる八重垣倶樂部代表者と買収談を進めてゐたが……

『新愛知』
1929年(昭和4年)1月31日

『大名古屋』には、八重垣倶楽部の北に建てられた名古屋銀行集会所(現名古屋銀行協会会館)の写真が掲載されている【図5】。

図5.八重垣倶楽部北側にあった
名古屋銀行集会所

玄関には当時の外装部材の一部が保存されており【図6】、竣工年を示す「1931」というプレートがある。おそらくこれは八重垣町の唯一の遺構であろう。

図6.名古屋銀行集会場の遺構

◆1931年(昭和6年)4月、八重垣小路(本町通沿い)に百貨店・榮屋本町分店が開業【図7】。

榮屋本町分店 けふ花々しく開業
食料品、日用品市 を標榜して西區御幸本町一丁目(八重垣小路東南端)にかねて建築中であつた栄屋本町分店は、二十八日落成し、いよいよ四月一日からふたをあけることになり……

『名古屋新聞』
1931年(昭和6年)4月1日
図7.榮屋本町分店開業時の新聞記事

八重垣町の再現、戦中~現在の様子

ここまで紹介してきた史料から八重垣町の姿がかなり鮮明に見えてきた。
先に紹介した『城戸武男作品集』と、名古屋市鶴舞中央図書館に所蔵されている『名古屋土地宝典』【4】『名古屋市居住者全図』【5】を参考に、当時の様子を概略図として再現してみた【図8】。

図8.八重垣町一帯の概略図(一部推測を含む)

その後、太平洋戦争で連合軍の空襲により名古屋市内は大きな被害を受けた。八重垣町の西側にあった東照宮、那古野神社は1945年(昭和20年)の名古屋空襲で焼失。同町がどのような被害状況であったのか、その詳細は不明である。

写真は現在の那古野神社、鳥居前の街路(東側参道)、旧八重垣町の様子である【図9】。現地に「八重垣町」跡を示すようなものは残されていないようだ。

図9.元八重垣町、那古野神社東参道

最終回(3)へ続く

次回は八重垣町がなぜ作られたのか?
同地はどのような場所だったのか? 
史料からその歴史を読み解いていきたい。

※本ブログは2024年(令和6年)5月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。


■参考資料
【1】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1930年(昭和5年)10月10日
【2】『伊藤祐民伝』松坂屋伊藤祐民伝刊行会 ,1952年(昭和27年)
【3】『店史概要』松坂屋,1964年(昭和39年)
【4】  井田耕司『名古屋土地宝典 不明年版西区之部』大日本帝国市町村地図刊行会
【5】『名古屋市居住者全図昭和4年調昭和8年調』名古屋市鶴舞中央図書館(制作),1938年(昭和13年)

■図・画像
【トップ画像】『最新改訂版 名古屋地圖 最新丁目入』六楽会 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図1】『城戸武男作品集』川本兼一 ,1934年(昭和9年)
【図2】『新愛知』1939年(昭和4年)1月25日
【図3】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1930年(昭和5年)10月7日・夕刊
【図4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1929年(昭和4年)1月31日
【図5】『大名古屋』名古屋市 ,1934年(昭和9年)
【図6】名古屋銀行集会場跡地、当時の構造物、2024年(令和6年)撮影
【図7】『名古屋新聞』名古屋新聞社  ,1931年(昭和6年)4月1日
【図8】 筆写作成、八重垣町概略図
【図9】現在の那古野神社東参道(元八重垣町)2024年(令和6年)撮影