旭廓積善会供養塔とその歴史
はじめに
名古屋市の東部、千種区法王町にある覚王山日泰寺は1904年(明治37年)に創立された仏教徒超宗派の寺院である(創立当時の寺名は日暹寺、1941年(昭和16年)に日泰寺に改名)【1】。同寺境内の奉安塔には暹羅国(現タイ王国)より贈られた釈迦の霊骨 “仏舎利” が安置されており、古くより名古屋名所のひとつとして多くの参詣者があった【図1】。また、山号である “覚王山” は現在周辺地域の名称、また地下鉄の駅名などとしても広く使われている。
仏舎利が安置されている奉安塔(図2)の東部丘陵に広がる墓地の中には墓石の他、様々な団体の慰霊碑や供養塔が並んでおり、その中にひときわ大きな石碑 “旭廓積善會供養塔”(以降、供養塔)が建っている【図3】。現地に供養塔の歴史について伝える説明板等は設置されておらず、インターネットはもちろん、図書館に収蔵されている郷土史料でも詳細を知ることは難しい状況である。
この記事では現段階で確認できる当時の新聞記事、刊行物等を基に、供養塔建立の経緯と歴史を紹介していきたい。
供養塔とその所在地
日泰寺奉安塔の東部から東南部の丘陵地に広がる墓地は、その一部が千種内山方面から自由ヶ丘方面へ抜ける市道・池内猪高線により南北に分断される形となっている。供養塔はその南側区画の一角【図4、写真の右手】、同線の通り沿いからも視認できる場所に建てられている。
供養塔正面には “旭廓積善會供養塔” “覺王山大僧正勝契書” とふたつの印章が、下部には “廓” の字を模した紋章があり【図5】、
背面には “大正十一年十一月建之、旭廓積善會一同” そして発起人、世話人、建設委員、工事監督の順に合計9名の氏名がそれぞれ彫られている【図6】。
供養塔除幕式の開催
供養塔背面に “大正十一年十一月建之” と彫られているとおり、地元新聞紙『名古屋新聞』『新愛知』では1922年(大正11年)10月と11月に次のように除幕式と関連行事に関する記事が確認できる。
1922年(大正11年)当時の旭廓
旭廓とは、明治時代初めに愛知県によって公許された名古屋市内の貸座敷免許地 “遊廓” の通称のひとつである。営業許可地は名古屋市中区吾妻町、花園町、城代町、音羽町、東角町、常盤町、若松町、富岡町(当時、現在の中区大須一丁目、二丁目付近)の8ヵ町内で、旭廓の他にも ”旭遊廓” または ”新地” などとも呼ばれた【図8】。供養塔が建立された1922年(大正11年)には貸座敷数168軒、娼妓数1,147名【2】、一帯にはその他にも芸妓置屋や料理店など、様々な娯楽関連施設が立ち並ぶ市内最大の遊興街が形成されていた。
愛知県は1920年(大正9年)2月25日に県令第29号を発令【3】、貸座敷取締規則改正により同地での営業許可期限を1923年(大正12年)3月31日までと示しており、供養塔除幕式が開催された当時は名古屋市西部の西区日比津町、則武町(当時、現在の中村区)の新免許地 “中村遊廓” への移転を約半年後に控え、新築工事など準備が進む時期でもあった。
旭廓積善会とは?
供養塔を建立した旭廓積善会という団体については、前項でも紹介した新聞記事内でその沿革を確認することができる。
石碑背面に旭廓積善会一同として名前が記されている人物9名を、大正時代の遊廓細見『名古屋芸娼妓きぬふるひ』1916年(大正5年)【4】、『職業別電話名簿』1924年(大正13年)【5】でそれぞれ確認したところ、次表の通りとなった【図9】。
9名中、工事監督を除く8名が貸座敷楼主(代表者)と同姓同名であり、新聞記事のとおり、旭廓積善会とは貸座敷の楼主達によって組織された団体だったということがうかがえる。
覺王山大僧正勝契とは?
供養塔の正面左側には“覺王山大僧正勝契書”、又その印章らしきものが彫られている。除幕式前年の1921年(大正10年)に刊行された『東山名勝』【6】には、当時の日暹寺について次のような記述がある。
前項の新聞記事では、1922年(大正11年)11月13日の供養塔除幕式当日に“中村管長”が読経を行ったこと、また“中村禅師”の先導で娼妓らが式場に入場したことが報じられている。 つまり、“覺王山大僧正勝契書”とは、同寺の当時の住職、中村勝契が供養塔の題字を担当したことを示していると考えられる。
旭廓の物故者について
前項の新聞記事によると、この供養塔は1897年(明治30年)~1922年(大正11年)の死亡娼妓合計156名(約160名、280名とも)を弔うものであったと報じられている。一方で『愛知県統計書』【7】で死亡娼妓数の記録が残る1907年(明治40年)~1917年(大正6年)11年間のデータを集計すると、総数は次表の通り合計235名【図10】、また、『旭廓物語』【8】では1916年(大正5年)~1921年(大正10年)の5年間で209名の死亡娼妓があったとされている。しかし各史料間の死亡娼妓の人数には大きな差があり、その正確な数字を把握することは難しい。
お花講と慰安会~遊廓の変革
前項の新聞記事(『名古屋新聞』1922年(大正11年)11月14日)では “お花講” という組織について触れられている。また、除幕式が行われた前年の1921年【大正10年】に刊行された『旭廓物語』にも同様の記述がある。
これらを参考にすると、お花講とは旭廓内で娼妓稼業中に死亡した者の追弔会のことであり、1915年【大正4年】に過去帳を東海寺(中区古渡町・当時)から覚王山日暹寺へ移したのと同時に始まったもので、以降は春・秋の年2回、娼妓が参拝する行事として定着していったという。当時のお花講の様子については次のとおりである。
このようにお花講とは死亡娼妓の供養だけでなく、現役娼妓の慰安を兼ねた行事でもあったようだ。また、『旭廓物語』には同時期に旭廓内で行われていた “慰安会” についても記述がある。慰安会は1917年(大正6年)頃に始まり、当初は年に2,3回、市内御園座での観劇や、事務所へ芸人を招き落語、浪花節を聞かせるなどの催しが開かれていた。慰安会については供養塔背面にも名前のある貸座敷組合安藤(開月楼主)【図11~12 】、野崎(米本楼主)の両取締役が担当しており、1921年(大正10年)には下記の組合決議可決によって、毎月1回開催される行事になっていったという。
旭廓ではなぜこのような慰安行事が開かれることになったのだろうか?
供養塔の除幕式から23年前の1899年(明治32年)11月、旭廓の貸座敷松坂楼の抱え娼妓小六が楼主に対して自らの娼妓稼業の廃業を求める国内初の裁判が開かれた。同年11月13日に口頭弁論、同11月17日に判決の宣告があり、名古屋地方裁判所は原告の娼妓小六側勝訴となる判決を下した。この裁判について名古屋で発行されていた新聞『ひかり號外』【9 】は次のように詳細を報じている。
原告が自由廃業を認めたこの裁判は国内初の事例として注目されるとともに、公許の遊興街、遊廓の負の部分、つまり娼妓への奴隷的な契約や、劣悪な稼業実態を日本社会に広く知らしめることになったともいえる。
1922年(大正11年)11月14日の『朝日新聞(東海版)』には「名古屋は自由廃業の本家」と題されたコラムが掲載された【図13】。この記事では旭廓での裁判以降、翌1900年(明治33年)9月から1909年(明治42年)までの僅か9年間に全国で2,500人もの自由廃業者が出たこと、また、名古屋で起こった自由廃業運動が注目され、全国的な広がりを見せていったことが読み取れる。
そして、1900年【明治33年】には内務省が省令第44号、娼妓取締規則を発布し【10】娼妓名簿からの削除申請について、楼主側がそれを拒むことを禁止した。
以降、年を下るごとに娼妓の環境改善は進み、旭廓では大正初期には張見世の禁止【11】、昭和に入ると中村遊廓では無料診療所の設置、前借金の利子撤廃【12】、娼妓稼業年限の短縮(基準設定)【13】、公休日の設定【14】などさまざまな施策が講じられた。本記事で触れた供養塔除幕式はじめ “お花講” や “慰安会” 等の行事や改善策の実施は新聞記事で大々的に報じられており、楼主による娼妓のための環境改善(自由廃業の防止)という面だけでなく、公娼制度の維持を目的とした社会への対外的アピールという側面もあったと考えられる。
しかし、現段階でこの供養塔除幕式の翌年以降(大須から中村への遊廓移転後)、遊廓内でお花講のように大規模な行事が開催されていたという記録は発見できておらず、同様に旭廓積善会の活動実態についても確認することができていない。
おわりに ~供養塔が建立された理由とは?
旭廓積善会供養塔は1922年(大正11年)、名古屋市内の遊廓、旭廓の貸座敷組合楼主らによって組織された旭廓積善会によって建立されたものである。旭廓積善会は1897年(明治30年)頃に組織され、1915年(大正4年)頃から春秋の年2回、覚王山日暹寺でお花講という死亡娼妓の追弔会が開催されていた。供養塔建立はこれらの行事の延長線にあったと思われ、死亡娼妓の供養や現役娼妓の慰安・娯楽を目的としてものだけではなく、現役娼妓の慰安、当時社会から厳しい目を向けられるようになった遊廓の楼主たちがその存続を目的とした対外的アピールの一つであったとも考えられる。
遊廓と娼妓の歴史は負の遺産であり、この供養塔について殊更に取り上げるべきではないという意見もあるかもしれない。しかし、建立から100年以上経った今こそ、現代の我々の視点でその存在と歴史について正面から向き合うべきであると考える。そして、遊廓内で亡くなった娼妓の悲惨な生活と実態だけでなく、供養塔がどのような背景と経緯で建立されたのか、遊廓を取り巻く環境を知ることもまた重要ではないだろうか。
以上、僅かな史料のみからの考察であるが、本記事が供養塔の解説板の代わりとして、また名古屋遊廓史の一面を理解するため史料のひとつとなれば幸いである。
【2024年4月、ことぶき作成】
※本ブログは2024年(令和6年)4月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。
■図・画像
【トップ画像】
吉田初三郎『名古屋市鳥観図」(部分) ,名古屋市観光協會 ,1936年(昭和11年)東海遊里史研究会蔵
図1~2. 『大名古屋』 名古屋市役所、1933年(昭和8年)
図3~6. 名古屋市千種区城山新町一丁目 ,2024年(令和6年)撮影
図7. 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1922年(大正11年)11月14日
図8. 『名古屋金城及名所圖』山田猪三郎 ,1895年(明治28年) 東海遊里史研究会蔵
図9~10. 各史料から作成
図11~12.中村区大門町, 2018年(平成30年)撮影
図⒔. 『朝日新聞・東海版』朝日新聞社 ,1922年(大正11年)11月14日
【参考資料】
1. 水谷教章『仏舎利小考』覚王山日泰寺,1959年(昭和34年)
2. 『愛知県統計書』(大正11年 第4編)愛知県 ,1922年(大正11年)
3. 『愛知縣公報』(号外第三十三號) 愛知県,1920年(大正9年)2月25日
4. 野田勝次『名古屋芸娼妓きぬふるひ』 野田活版所,1916年(大正5年)
5. 『愛知岐阜三重静岡職業別電話名簿』 実業興信所 ,1924年(大正13年)
6. 『東山名勝』 東山名勝発行所 ,1921年(大正10年)
7. 『愛知県統計書』愛知県 ,1907年(明治40年)~1917年(大正6年)
8. 三浦美底『旭廓物語』 世間社 ,1921年(大正10年)
9.『ひかり號外』1899年(明治32年)11月30日
10. 『法令全書』内務省官報局 ,1887年-1912年(明治20年-45年)
11. 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1921年(大正3年)8月19日
12. 『新愛知』新愛知新聞社 ,1928年(昭和3年)9月22日
13. 『愛知縣公報』(號外第663號)1933年(昭和8年)6月16日
14. 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1936年(昭和11年)11月24日