戦前名古屋に存在した芸妓置屋組合「南連」とその歴史②
南連の所在地、宿亀・澤上の現在
前回の記事では戦前の史料を基に芸妓置屋組合「南連」について記した。今回は現地、宿亀・澤上跡地の様子を紹介していきたい。
現在の地図と戦前の市街図【図1】を比較する。
宿亀・澤上のあった区画は戦前の市街図を見比べても、現在とほぼ変わっていないことがわかる。澤上は現在も町名として残り(熱田区沢上1丁目、2丁目)、宿亀は金山町2丁目と町名変更されているものの、現地の電柱にはその名が確認できる。
現地で掃除をされていた方にお話を伺ったところ、宿亀(しゅくかめ)と読むことを教えていただいた。筆者は(やどかめ)と読むものと思っていた…。
また、「2丁目に置屋さんがあったのは聞いたことがある、詳しくはわからない」とのことであった。この地区の周辺は古くは海であり近隣には波打ち際があったことから波寄町が、澤上(沢上)から東側に下る場所にある澤下(沢下)、宿亀の「亀」も水にまつわる地名だということも教えていただいた。
現地には戦前築と思われるような建物も現存するが、本記事では触れないことにする。読者の皆様もご配慮いただければ幸いである。次の写真は宿亀・澤上の現在の様子である。
町名の変遷 ~戦前史料から
次に、大正初期に刊行された『名古屋市史』から戦前の所在地、熱田東町とその変遷について調べることにした。すると、宿亀・澤上はそれぞれ当時の字名であったことがわかった【1】。1906年(明治39年)1月の『官報』では大字東熱田字宿亀という記載が確認できるが【2】、それ以前いつからこの字名が使われていたのかは不明である。
『名古屋市史』と併せ『なごやの町名』【3】の情報をまとめると、所属した市町村の変遷は次のようになった。
■1878年(明治11年)12月~
愛知郡熱田村
■1889年(明治22年)10月~
愛知郡東古渡村
■1898年(明治31年)8月〜
愛知郡熱田町大字東熱田
■1907年(明治40年)6月〜
名古屋市南区熱田東町
■1937年(昭和12年)10月〜
名古屋市熱田区熱田東町
■1939年(昭和14年)4月〜
名古屋市熱田区金山町(宿亀)
名古屋市熱田区沢上町(澤上)
また、宿亀については前記事で紹介した公文書や『名古屋南部史』などの史料で一部 南区宿亀町 という記述があるが【4】、実際は熱田東町字宿亀が正式な名称であった。次の画像は当時の官報の情報である【図2】。住所は「熱田区熱田東町字宿亀」から「熱田区金山町」に変更されていることがわかる。やはり宿亀町というのは通称なのだ。
これは戦前名古屋で他にも見られる町名の使われ方である。公式な町名ではないものの、住民らが使用する呼称がそのまま刊行物や行政文書等に使用されているケースだ(例:西区八重垣町、西区幸町など)。
※西区八重垣町についてはこちらを
③へ続く(近日公開)
次回は最終回、なぜこの場所に芸妓街・歓楽街が形成されたのか?
その歴史と背景を探っていきたい。
【2024年(令和6年)6月、ことぶき作成】
※本ブログは2024年(令和6年)6月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料や誤りがあった場合は随時更新していきます。
■参考資料
【1】『名古屋市史(地理編)』名古屋市役所 ,1916年(大正5年)【復刻 『名古屋市史(地理編)』愛知県郷土資料刊行会 ,1980年(昭和55年)】
【2】『官報』大蔵省印刷局 ,1906年(明治39年)1月26日
【3】『なごやの町名』名古屋市計画局 ,1992年(平成4年)
【4】『名古屋南部史』名古屋南部史刊行會,1952年(昭和27年)
(復刻『名古屋南部史 (愛知県郷土誌叢刊)』臨川書店 ,1987年(昭和62年))
■図・写真
【トップ画像】稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社 ,1937年(昭和12年)愛知県図書館蔵
【図1】『名古屋市街全図(第二十三版)』六樂會 ,1937年(昭和12年)東海遊里史研究会蔵
【図2】『官報』1939年(昭和14年7月1日)大蔵省印刷局 ,国立国会図書館デジタルコレクションより