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マットが間違っているかも

あなたにとってコミットメントとの関係はどのようなものだうか?

僕が言うコミットメントとは、あなたに自由を与えてくれる。

言い訳を手放せる自由であり、自分を止めている何かから放たれる自由である。

あなたのコミットメントはあなたにどう影響しているだろうか?
何をもたらしているだろうか?

忘れている方も多いだろうから言っておくと僕は会議のプロだ。そして、僕がコーチする会議において唯一のNGは、話すべきことをその場で話さないことである。

さて、今日もヤバい話をしてみよう。

顧客の気持ちになるのがほぼ
〝そりゃ無理っしょ〟って職業がある。

さて、どんな職業か?

例えば、サラリーマンの経営コンサルタントだ。悪いが経営者の気持ちになるのがほぼ不可能だ。どれだけの想像力を駆使しても見えない、感じられない、つまりカバーできない領域がやけにデカい。

身も蓋もない話だけれど、それが悪いって訳じゃなくて、無理があるって話しだ。

だから分かろうとしない方がむしろ潔い。

経営者に指南するバンカーもそうだ。数字の裏付けは?って彼らは聞くが、数字が裏だ。数字が主役ではない。戦略やストーリーが主役だ。ビジョンやミッションや理念が主役だ。おっとオーバーヒート。話を戻そう。

凶悪犯罪を担当する弁護士や男性の産婦人科医…は相手の気持ちになる必要があるかないかは置いといて、さらに困難極まりないのは確かだ。

あなたなら他にどんな職業が浮かぶ?

しかしながら一方では、実際には海に入らないサーフィンのコーチや(僕は実際に教わって上達をした)なんとクラブを持たないゴルフコーチによってハイパフォーマンスが生み出されてもいる。

つまり僕たちは相手の立場に立つことと、自分がプロとして立つその場所から見える相手にとっての盲点、このはざまのなかで自己超越に挑み続けるしかないようだ。

そして、その何かのプロであるあなたに、僕は断言できることがある。

それは運命的な怒りや悲しみがあなたの大切な人を襲った時、大切な人が何かに傷つけられ、切実なる悲しみに襲われた時、僕たちは無力だってことだ。

あなたは驚くかもしれない。

けれどここに立てたなら、逆説的に僕たちは人間に立ち返れたことになる。

何もできやしない。何もしてあげられないんだ。アドバイスなんか無意味だし、励ますことだって空しく宙を舞う。

まして、コーチングなんて意味をなさない。
ただただ大切な人の隣にいて、大切な人と一緒に泣くことしかできない。

ただただ黙って隣に一緒に悲しむことしか手立てが見つけられないんだ。

少なくとも、僕にはそのチカラがないってことを幾度となく味わってきた。

でも、だからこそ、僕は、喜びではなく、むしろ、あなたにとって、あなたの悲しみを打ち明けられる存在でいたい。

これまでも何度も何度もここでも言ってきたように、喜びと違い、悲しみは、誰にでも打ち明けられるものでは、決してないのだから。

そして、変な話、ここまで読んでくれたすべてを忘れてくれても構わない。

今から言うことは如何なる理由があるにせよ、あなたが必要なその時に思い出してくれるなら。

絶望の淵に立たされた時、それは結果ではなく、原因であることを。その絶望の淵に立たされていることを因(資源)として、どんな果(希望)を創造するか?を問うことを。

目の前にある深刻な状況。
怒りや悲しみを通り越した絶望的な状況。
それを結果として捉えてはならないってことを。何かをしてきた結果として目の前を観てはいけないんだ。

そういう意味において、今の自分に何かを新たに付け加えていく学びではなく、日頃から今の自分をゼロから創り直すような学びをしていきたい。

それをもってして初めて学ぶといい、僕がコーチングセッションで引き受けていることでもある。

だから互いに大胆に生きよう。
こんな最中失うものはどーせほぼ残っちゃいない。

そして、大成功の反対は大失敗ではない。

何もしないことだ。

そして、この観点から言えば、不平不満の反対は?感謝するではない。

現状満足だ。

つまり、提案するにしても文句を言うにしても同じ極にあるのが分かるだろう?

では、幸、不幸、優劣、などはどうなるだろうか?

考えるに値するのではないだろうか。

もしハットしたらまだ、あなたはマシな状態にある。

そもそも毎日喜んで生きてる?

それができていないとすると、あるいは鈍ってきているとすると、あなたが人生においてその足元に敷いている前提というマットが間違っているのかもしれない。

さらには、ゼロから創り直すような学びは特別なことではなく日常的に可能なこと。

たとえば人の話を聞くって行為をする度に実はそれに該当している。

これが本来意味している事は、今の自分と殴り合うってことだからだ。

ひょっとしたら自分の価値観や既存の尺度にあてはめてるうちは聞いてるってことにはならないのかもしれない。

そんなんだから僕は自分が傾聴できているなんて夢夢思えないし、過去に一度だって思ったことがない。

まさにだからこそ、完全ではなくとも聞き手としての内側でのその格闘ぶりが、自ずと話し手に姿勢として伝わるんだろう。

だからゼロから創り直すような聞き方はそれ自体が尊い行為と言える。
まぁ、そんな聞き方を意図的に試みてる人って皆無だけどね。

さて、あなたがこの記事を読み終えるまでに、何度あなたはあなたをぶっ倒しただろうか?

もし、そんな読み方をしてくれているならそれ以上のコーチ冥利はない。

少なくとも僕はそんな聞き方をコミットメントしているんだ。


By オレの殴り書き

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