わたしが毎日お化粧をする理由。
化粧は本来、マナーでも、習慣でもない。
でも街を歩く女性に、「なぜお化粧をしているんですか?」と聞いたら、それが礼儀だから、しないと恥ずかしいから、などと返ってくるだろう。
少なくとも、わたしはそう思っていた。
高校を卒業したわたしは、大学デビューをする周りに合わせて、しっかりとした化粧を始めた。フルメイクというやつだ。しかし、友人との約束もなく、ただ一人で外に出たくなったときは、ほとんどすっぴんで出かけた。家族で近所のレストランに行くときもだ。
そしてある日、母親に「化粧をしないのは失礼だから、きちんとしなさい。」と言われた。
化粧をしていない私の顔は、見るだけで不快になるような、失礼なものなのだろうか?反射的にそう思った。
その時は、母を無視して、そのまますっぴんで出かけ続けた。
しかし、同じようなことを思う人がたくさんいて、社会に出たらその「失礼」という価値観を無視できないということに、薄々気が付いてもいた。
それから数年が経ち、今わたしは、アメリカの田舎の大学に来て、化粧をしなくても何も言われない環境にいる。
何も言われないというのは、母親みたいにお小言を言う人がいなくなったというだけではなく、そもそも誰も気にしないのだ。
みんなジャージで授業に出るし、化粧をしている方が珍しいくらい。
だから完全に、化粧をするもしないも自由。そんな中、わたしはほとんど毎日化粧をしている。
ここには、礼儀として、社会が求める当たり前に応えるため、という理由は存在しない。
ではなぜ私は化粧をするのか。それは、やる気スイッチを入れるためだ。
大学では、徒歩五分圏内に寮も食堂も教室も全てあるので、生活範囲が限られる。そんな場所で、寝起きの素の自分から、きちんと働く外用の私になるためのスイッチが、化粧なのだ。
日ごとのテーマもある。しっかりとした自分だったり、ゆるっとした自分だったり。その日のなりたい自分になるために、アイシャドウの色や髪型を変えて、スタートダッシュをする。
なんだか既視感があるなと考えてみたら、色付きリップを選ぶ高校生の自分を思い出した。
私の高校では、校則違反ではなかったけれど、化粧をしている人はほとんどいなかった。先生も親もクラスメイトも、化粧なんてしない方が良いというスタンスだった。
そんな中でなんとなく、色付きリップだけは、暗黙の了解で許されていた。
高校生の私は、礼儀のためではなく、少しでも可愛くなるため、自分の顔を好きになるために、色付きリップを使っていた。
今の私も同じだ。周りに求められるからではなく、自分が自分を好きになるために、化粧という道具を使っている。化粧を始めた頃は、そんな気持ちだったという人も多いのではないだろうか。
私は今でも、化粧をしないことは失礼なことではないと思うし、逆に男性だってしたいなら化粧をすればいいと思っている。
でも、とりあえずそれは置いておいて、誰かに求められてすることと、自分のためにすることの関係について考えてみたい。
きっと私は東京にいる限り、自分が化粧をすることが好きだということに気がつけなかった。ただ社会が求めるから、やらなければいけないから、やっていると思い続けただろう。むしろ窮屈さすら感じながら、化粧を毎日していたかもしれない。
一方で今のわたしなら、日本に帰ったときも、なんだかんだ好きなんだよなと思いながら、化粧をする。
どうせ化粧を強制されるのなら、後者の方が楽しい。
もちろん、本当に好きじゃなくて、求められるからやっているだけという場合もあるだろう。実際に、アメリカでは化粧をしないという日本人の先輩もいる。
でも今回の件から、私たちが「本当はやりたくないのに…」と思っていることの半分くらいは、実は好きなことだったりするんじゃないかと思い始めた。
「今宿題をやろうと思っていたのに、やれと言われてやる気が失せた。」というお決まりの子供のセリフがある。
これはあながち間違っていなくて、やれと言われ続けているうちに、言われなければやらないくらい嫌いなことなんだと思い込んでしまう、なんてことはないだろうか。
本当は好きなのに、嫌いだと思い込むなんてもったいない。
だから意図的に、「やらなければいけないこと」をやらなくても許される環境を作って、それが本当に嫌いなのか、実はそんなに嫌いじゃないのか、むしろ自分からやりたくなるくらい好きなのか、調べてみるのも良いかもしれない。
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