奥村鼓太郎

神大短歌会、京大短歌に所属。 依頼:kotarou.set@gmail.com

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  • 夏休み日記

    夏休みの日記。不定期。一首評もしたい。

  • はるnikki

    日記です、いわゆる。

最近の記事

青松輝「『京大短歌28号』評」について  奥村鼓太郎

0.はじめに  先日刊行された『京大短歌』29号に、青松輝が執筆した「『京大短歌28号』評」(以下、「28号評」)が掲載されている。この文章は、本人曰く、「普通の前号評ではない」。 確かに、本文の構成や目論見は、従来の(特に学生短歌会の機関誌の)前号評とは大きく異なるといえる。さらに、そこには強い政治性を読むこともできる(「4.結論」で触れる)。本稿の目的は、青松によって取り組まれた「普通ではない」前号評の実践と企図を読み解き、その企図の成否を問うことである。   1

    • 「〈奥行き〉の系譜」第一回 振り返り

      カリフォルニア檸檬さん(https://twitter.com/y_aao?s=20)が一ヶ月半に一冊という恐ろしいペースで発行している同人誌『エリア解放区』。そのvol.4から、私は「〈奥行き〉の系譜」という評論の連載をさせていただいています。以下のリンクからお買い求めいただけますので是非。 定期刊行短歌誌『エリア解放区』2023vol.4 - karilemo - BOOTH 最近は毎月8000~10000文字程この評論を書いているのだが、これはとても貴重な体験だと思

      • みんなのリーダーについての断片 ―瀬口真司「パーチ」評―

         第五回笹井宏之賞は瀬口真司「パーチ」と左沢森「似た気持ち」の同時受賞となった。どちらの作品も、各々の問題意識や美意識に基づいてつくられた優れた作品であり、受賞に相応しいものであったことに異論はない。しかし、「パーチ」に対しては、同時に違和感も覚えていた。その違和感とは、同時に瀬口真司に対して抱いていたものでもあった。  具体的には次の二つである。  一つ目は、瀬口のアジテーションについて。私は、なぜ瀬口が過度にアジテーションを行うのか、その目的を掴みきれないでいた(「適度な

        • 近況

          ①就職先に考えている業界の倍率が高すぎて気がおかしくなりつづけている。 ②PARAで上演されたベケット『いざ最悪の方へ』を観劇できてよかった。 テクストと俳優、言葉と音、身体と空間、の位置関係のズレと修復みたいなことを思ったりした。 ③夜勤を始める。時給が良くて嬉しい。 ④バイキングのコントの、「パナマどこよ」→「コスタリカの横よ」→「それもどこよ」という会話。凄すぎるなと、何度も思いだしている。 ⑤鉄コン筋クリート三巻、ネズミが死ぬシーン う~~ん 頑張っていきます。

        青松輝「『京大短歌28号』評」について  奥村鼓太郎

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          2本
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        記事

          2022/09/08

          今日は同大学のtwitterアカウントで(フォローしていないのに流れてくる)成績に関して呟いているものを片っ端からミュートしたり、何もしてないな~という感情に耐えたりしていた。ヒードランとほとんど同じですわね。 スプラトゥーン3が0時に配信スタートなので、多くの配信者がスプラトゥーン2をしていたのだけど、良い時間だったと思う。3が始まることを楽しみに待っているけれど、どこか2との離別を悲しむ雰囲気が漂う感じ。ゲームに関する記憶には遊んだ内容だけではなく、それにまつわる感情や

          2022/08/08

          夏休みが昨日から始まっています。「なつやすみ」、声に出したい日本語。バイトやインターンをそこそこ頑張りつつ、本を読んだり人に会ったりしていきたい。「なつやすみ」「なつやすみ」 夏休みにしたいことの一つにジュディス・バトラー「問題=物質となる身体」の読破があり、今日から読みはじめたのだけれど、とても難しくて一日で20ページぐらいしかすすめられなかった。それもそのはずで、例えば これを理解するためにコンスタンティブとパフォーマティブの意味を調べまくったり、どうやら構築主義の知

          なぜ夜行バスに乗るたびに曲をおすすめしてもらうのか

          コロナウイルスのパンデミックの幕開けとともに大学に入学。外出はできず、遠出などもってのほかというムードがしばらく続いたが、ここ一年は余談を許さない状況ながら、たまに遠出をすることもでてきた。一番行っているのは東京で、交通手段はもちろん夜行バスである。 今まで夜行バスを用いて東京に行った回数は3回であるが、その全てで道中に聴く音楽をツイッターのフォロワーの方々にオススメしてもらい、それだけを聴いて車中の時間をすごした。おすすめしてもらう曲はどれもシチュエーションにぴったりで、

          なぜ夜行バスに乗るたびに曲をおすすめしてもらうのか

          【一首評】たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる/佐クマサトシ

          歌の意味内容としては次の通りだろう。 まず、日本には多くの仏像が存在するが、それらの中には常に公開されるわけではなく倉庫や博物館などに収容されているものも多くある。それらは得てして歴史的価値のある物で、その価値故にたまにしか公開されることはないのである。しかし、何かの催しがあるときなどは期間限定で公開されたりもして、多くの人がその仏像を一目見ようと集まってくる。そして、その公開期間は終了し、ふたたび仏像は元の場所へと戻っていく。 この歌を読んだとき、同作者のある一首が思いだ

          【一首評】たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる/佐クマサトシ

          2022/03/12

          最近あまり日記を書けなかった。何をしていたかというと、特に大したことはしていなかったのだが、かといってずっとベットの上にいたのかというとそうでもなく、「書く気にはなれないイベントが毎日ちょっとずつあった」というのが実際に近いと思う。しかし、「日記の王・ニッキングに俺はなる!」という気持ちも依然として心にはあり、それゆえ毎日少しずつ(日記書かないとな~)というストレスを感じていたのもまた事実ではある。日記は一日にしてならず。 今日は起きてすぐに春の気配を察知できるほど気温が高

          佐クマサトシに関する思いつき

          最近、S.K.ランガー『シンボルの哲学』(岩波文庫)を読みはじめたのだが、これがとてもおもしろい。まだ内容を説明できるほどこの本を消化・吸収できていないので、何がどのようにおもしろいのかをここで説明できないのが惜しいが、おもしろいということだけはいえる。そして、その中に佐クマサトシの短歌についての手がかりがあった(気がする)。完成版の論考は来年の京大短歌の機関誌にのせてもらえたらなー、とぼんやり考えているので、ここでは思いついたことを書き留めておきたい。 本書のⅢ章ではシン

          佐クマサトシに関する思いつき

          2022/02/27

          二月は人間が何かを為すにはあまりにも短すぎる。 所属している短歌会の歌会(他大学との合同歌会)と、永井陽子『なよたけ拾遺』の読書会があり、どちらも普段話すことのない人たちと話すことができておもしろかった。『なよたけ拾遺』には「!」や「・・・」のような記号が出てきて、当世風なものが実はかなり前から実践されていたことを知ったのだけど、この手のことはわりとどの界隈においてもあるあるで、「あたらしいな!」と思うことが「もうやられてますが、、」みたいなのは本当によくあることなのだろう

          2022/02/22

          ある映画を見に行こうと思ってたんだけど、お金がなくて行くのを断念しました。お金がなせいで文化的なものを諦めるときのひもじさがとても苦手で帰りに伊坂幸太郎『グラスホッパー』(200円)を古本屋で買って帰った。それでもどうしても今日は文化的に過ごしたいという謎のモチベーションがあったのでそのまま通ってるカフェに。コーヒーを飲んで本を読んでいると気持ちが和らいだので、なんとか立て直せたと思う。 あとやったことといえば京大短歌卒業生のY・Rさんのtwitterアカウントを発掘しツイ

          2022/02/19

          もう二週間ぐらい5時就寝13時起床が続いているので、もうそういう人として生きていってますね。自分としては時差が6時間の国で生活をしていると思えばいいじゃんとずっと思っています。イラクとかモスクワが該当するっぽいです。モスクワにします。 無責任な抒情#13を聴きました。「秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは」(堂園昌彦)を阿波野さんがサンプリングしたことに大塚さんが気づかずにスルーしたところが面白かったです。あの雰囲気、自分だけが真意を知っているときの雰囲

          短歌はどの歌人も飽きさせてはならない/笹井宏之賞の評

          ありがたいことに、私の連作が第4回笹井宏之賞で最終候補作となり、紙面に10首掲載された。つくった短歌が全てでないにせよ未知の人に触れる可能性があるということは嬉しいことである、と同時に怖いことでもある。 短歌を望まれているものの、今では発表の場から遠のいてしまった歌人がいる(←訂正しました。不適切な表現でした、申し訳ありません。)。佐久間慧、宝川踊、濱田友郎、、、ここに名前を挙げられるのは私が幸運にも過去の同人誌や機関誌のバックナンバーを読むことができたからである。 なぜ短

          短歌はどの歌人も飽きさせてはならない/笹井宏之賞の評

          2022/02/17

          クラムボンの「ナイトクルージング」をつい先日初めて聴いて、フィッシュマンズとクラムボンの「ナイトクルージング」へのアプローチの仕方が裏表っぽくて良いなと思った。フィッシュマンズは音に声を紛れさせる、クラムボンは音の上に乗ろうとする(水泳とサーフィン)、そんな感じがした。ただ、声と音の間には接近こそできても一体化はできない「壁」がある。ので声と音が近づこうとすると摩擦みたいなものが生まれるとおもう。そしてその摩擦がフィッシュマンズでは「死」に近いものとして聞こえ、クラムボンでは

          2022/02/16

          15時起床。コーヒーをいれて、それを飲みながらシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』と福田若之『自生地』を読んだ。春休みが始まってから良い感じで本を読めているので嬉しい。 空港のそばにいるからペルーとか、普段は遠いところが近い /佐久間慧「still/scape」『はならび5号』 「どんな短歌であれ、読むのにかかる物理的時間はほとんど同じ」ということをあるときから考えるようになった。佐久間慧も塚本邦雄も水原紫苑も(いま机の上にある名前を列挙しただけ)、当然自分の短歌も、読むのに