みんなのリーダーについての断片 ―瀬口真司「パーチ」評―

 第五回笹井宏之賞は瀬口真司「パーチ」と左沢森「似た気持ち」の同時受賞となった。どちらの作品も、各々の問題意識や美意識に基づいてつくられた優れた作品であり、受賞に相応しいものであったことに異論はない。しかし、「パーチ」に対しては、同時に違和感も覚えていた。その違和感とは、同時に瀬口真司に対して抱いていたものでもあった。
 具体的には次の二つである。
 一つ目は、瀬口のアジテーションについて。私は、なぜ瀬口が過度にアジテーションを行うのか、その目的を掴みきれないでいた(「適度な」アジテーションなるものは存在しないだろうが)。例えば、先日の文学フリマ東京で瀬口が刊行した笹井宏之賞授賞式での大賞スピーチ原稿は「アジテーション #20230326」という題が冒頭に付されている。内容はまさにアジテーションそのものであり、例えば「既存の道徳を再生産しているかぎり、僕たちは世界が壊れていくスピードに追い付くことがない【※3】。」の一文で敢えて使われている「僕たち」という主語や、「未来のための倫理を作る」というフレーズに象徴される、変革を希求する姿勢などに、その特徴は明確にあらわれている。また、2022年に瀬口が青松輝と共に発行した歌集『いちばん有名な夜の想像にそなえて』では、そのステートメントにおいて同様のアジテーションが為されている。このステートメントには「A+S」と付されているから、おそらく青松と瀬口が共同で制作したものと考えられるが、どちらにせよ瀬口がアジテーションを行っていることに変わりはない。
 私には、このように、短歌の創作や評論のみならず、アジテーションにも並々ならぬ力を注いでいる瀬口の真意を、うまく掴むことが難しかった。もちろんアジテーションが書かれることの意味は理解できるし、瀬口の問題意識についても、自分なりにではあるが受けとっているつもりである。しかし、それが短歌の実作と結びつくとき、どうしても違和感が生じるのである。それは、なぜ瀬口の作品にはアジテーションが必要なのか、という疑問である。
 二つ目は、瀬口が「パーチ」において採用した方法論について。改めて、「パーチ」に並んでいる歌は応募作品のなかでも抜きん出ていたと思うし、それ故に受賞について異論はない。しかし、自分がすんなりとは納得できなかったのは連作の構成の仕方について、そこで用いられている方法についてである。
 選考座談会においては、「万華鏡のような」というフレーズで語られていた「パーチ」の構成をわたしは「パッチワーク」だと感じた。複数のモチーフを作者の批評意識によって選び、連作という同一平面上に配置する手法のことである。それらの配置のパターンや有機的な結びつきによってひとつの面を構成していく作品であると感じた。選ばれたモチーフは、「戦争」「日米・日韓関係」「天皇制」「消費社会」「東日本大震災」などであろう。そして、これらのモチーフが同一平面上で交差することで、連作は平面にとどまらず、ひとつの異様な空間を構築する。その空間は瀬口の手によってつくられた現代という空間のレプリカであるが、それ故に普段なら読者の目には映らない現代日本が抱える構造上の問題が見えるようになる。
 そして、まさにこのパッチワーク的な方法について、私は違和感を覚えていた。すなわち、モチーフを恣意的に選択し配置するとき、そこに新しい権力関係が否応なく出現することについてである。例えば、この作品では前述した複数のモチーフが浮かび上がるように書かれているが、それは同時に「環境」や「ジェンダー」などの様々なその他の問題が選ばなかったことになってしまう。そしてそれは、選ばれなかった問題が、少なくともこの作品では不可視化されてしまうことにつながる。ここで強調したいのは、「選ばれなかった問題」の問題について、それだからこの作品は駄目だと評価したい訳では全くないということである。そうではなくて、批評するためには問題を選択し配置しなければならないという、批評に内在する権力の問題について考えあぐねているのである。瀬口はどのように克服を試みているのか、もしくは、「批評とはそのようなものである」として受け入れているのだろうか。この点について、「パーチ」をどのように受けとればいいのか迷ってしまったのである。(付け加えておくと、同様の「問題」は例えば斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』や山田亮太『オバマ・グーグル』においても生じており、私はこの二つの作品はその「問題」を克服できていないと考えている)。
 これら二つの違和感はしかし、ある一首を手がかりに解消された。その一首はすなわち、

洗った顔を見ている僕の眼が見えた みんなのリーダーは僕だから撃て
                     瀬口真司「KILLING TIME」

である。この一首は、受賞の言葉でも引用され、また、受賞スピーチでも語られた、いわば瀬口の作品のなかでも特別な一首である。
 ではなぜ、瀬口はこの一首を特別扱いするのだろうか。そこに違和感の突破口はある。
 瀬口が採用している方法論の問題を簡潔にまとめると、「恣意的な問題の選択と配置によって、選ばれなかった問題が不可視化されてしまう」という、批評に内在する問題であった。ところで、この問題を解決する方法はひとつある。それは、この方法を採用するプレイヤーの数を増やすことである。なぜなら、批評の主体を増やすことで、必然的に不可視化される問題の領域は減少していくからである。瀬口がつくりあげた現代日本のレプリカは、しかし「瀬口がつくった」という、まさにその一点において、書かれなかった問題が排除された空間にならざるを得ない。ならば瀬口がまさに「リーダー」となって集団を組織し、レプリカの製作者を増やせば、そのレプリカの集合は、歪な複合空間、しかしこれまでにないほど鮮明に現実を反映した精巧なレプリカになるだろう。瀬口真司は自らの方法論に内在する権力の問題を克服するためにリーダーになることを選んだ。
 ここまで考えると、なぜ瀬口がアジテーションに拘るのかという疑問も解消される。それは、アジテーションがレプリカの製作者を増やすのに適した方法だからである。みんなのリーダーたる瀬口が、日常において不可視化されている構造上の不均衡の存在を曝き、各々の恣意に基づく批評を促すためには、アジテーションは効果的な手法である。
 このように作品の性質的な問題を解消するために、瀬口はアジテーションを行っているのではないだろうか。そしてそこまで考えたとき

洗った顔を見ている僕の眼が見えた みんなのリーダーは僕だから撃て

という一首はもう一度鈍く輝きはじめる。「洗った顔を見ている僕の眼が見えた」とは、すなわち、権力問題を打開するために別の権力を行使する瀬口自身に対する自己批判である。「みんなのリーダーは僕だから撃て」には、何を撃てばいいのかは示されていない。これは、撃つ相手を恣意的に選ばなければならないこと、そして、その対象にはもちろん瀬口真司自身も含まれていることを意味しているはずだ。瀬口の目論見は、瀬口自身が撃たれることで達成される。この矛盾こそが瀬口真司の作品の決定的な魅力である。

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