佐クマサトシに関する思いつき

最近、S.K.ランガー『シンボルの哲学』(岩波文庫)を読みはじめたのだが、これがとてもおもしろい。まだ内容を説明できるほどこの本を消化・吸収できていないので、何がどのようにおもしろいのかをここで説明できないのが惜しいが、おもしろいということだけはいえる。そして、その中に佐クマサトシの短歌についての手がかりがあった(気がする)。完成版の論考は来年の京大短歌の機関誌にのせてもらえたらなー、とぼんやり考えているので、ここでは思いついたことを書き留めておきたい。

本書のⅢ章ではシンボルと対象の関係について記述されている。極々簡単にいうと、シンボルと対象の関係は、対象は興味深いが確定が困難でありシンボルはそれ自体としては重要ではないが容易に把握でき、片方がもう片方を導出するという関係にある。例えば、「ツバメが低く飛んでいると雨が降る」という言説を考えると、「ツバメが低く飛んでいる」は一見して分かるがそれ自体としては重要ではないのに対して、「雨が降る」は重要で興味深い情報であることから、「ツバメが低く飛んでいる」は「雨が降る」のシンボルである、ということになる。そして、かなり話は飛躍するので申し訳ないが、言語にまつわるシンボルは語の性質(外示作用や共示作用、ここでは割愛)だけでなく様々なものがあり、そのうちの一つが「配置関係」である。例えば、「タロウがジロウを蹴った」というセンテンスがあったとき、「タロウ」「ジロウ」という固有名詞や「蹴る」という動詞、「~した」という時制といったそれぞれにシンボルとしての作用がありつつ、「タロウがジロウを蹴った」という「AがBを~する」という「構文」自体もシンボルとして作用している。なぜなら、例に挙げたセンテンスを「ジロウがタロウを蹴った」としてしまうと意味が変わってしまうことからも分かるように、構文自体(=配置関係)が言語のシンボルとしての作用を備えているからである。そして、それらのシンボルの作用の総合として「タロウがジロウを蹴った」という興味深い「対象」を把握することができるのである。

そして、ここからが私の今日の思いつきなのだけれど、短歌定型も「配置関係」の役割を備えている、つまり、「短歌定型に言語が配置されている」ということがそのままシンボルとしての作用を与えている、ということである。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
/俵万智

例えば、俵万智のこの歌で考えると、「「この味がいいね」と君が言った」という事象を「理由として」、「七月六日はサラダ記念日(となった)」。というのが短歌定型を無視したときの言語のシンボル作用から導かれる対象である。しかし、「短歌定型」という「配置関係」によってこの短歌の対象は上記の内容にとどまらない。例えば作中主体(これ自体が短歌定型という配置関係による作用であるだろうが)と「君」の間にある関係性は読者によってそれぞれの程度・尺度で想起されるだろう、ということは明らかである。

そして、まさにこのそれぞれの程度・尺度で内容が想起されるという短歌定型のシンボル作用に対する嫌悪感こそが、佐クマサトシにはあるのではないか、という気がするのである。

今まで書いたことは、佐久間慧について話すときにしばしば引用される青松輝のブログに書かれている、

「この歌をだれがどのような意図で作っているのか」ということを敏感に察知してしまうから、佐久間慧はたぶんそこをブレさせたくなって、濁したくなって、こういう歌ができてしまう。
僕は幾度となくそれを誤記して、訂正して、お詫びします。
(「応用芸術」)
これをどういう立場の誰が言っているのかわからないし、わかる必要もないだろう、ということは読者にすぐに伝わっている。だから読者は「作者が」「ここにこの言葉を置いた」ことをシンプルに楽しめばいい。徹底的な押しつけがましさの排除がそこにある。
引用:https://vetechu.hatenablog.com/entry/2019/03/04/091308

の「押しつけがましさの排除」を短歌定型のシンボルとしての作用という側面から見たものに、今のところは、過ぎないかもしれない。しかし、そうすることで青松輝が書いた佐久間慧論を一歩先に押し進められそうな気持ちもある。

油彩画の画面の中に梨がある これ以上言うことができない
/佐久間慧「still/scape」『はならび』5号

「これ以上言うことができない」という下句はおそらく今まで考えていた以上に重要な下句ではないだろうか。この下句には短歌定型の「配置関係」というシンボル作用を無効化するというシンボル作用があると思う。「これ以上言うことができない」と(短歌定型によって否応なく立ち現れる)作中主体が感じることには、つまり短歌定型という「配置関係」のシンボル作用によって生じる「作中主体」という極めて特殊な(シンボルとの対比関係にあるところの)「対象」が、発生要因であるところの「配置関係」を破壊しにかかるという矛盾が内在している。この「シンボルによって導かれる対象がシンボルを否定する」という矛盾・パラドックスが佐クマサトシの短歌のおもしろさではなかろうか。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
/佐クマサトシ「vignette」

短歌定型という「配置関係」が生じさせる「作中主体」は、一首のなかでは一貫性が担保されているという前提が暗黙のうちに読者ー作者で共有されていたために、「短歌定型によって生じる作中主体が短歌定型のなかで一貫性を失う」という「シンボルによって導かれる対象がシンボルを否定する」矛盾がこの歌にもある。

この「配置関係」のシンボル作用と「矛盾」、あるいはそこから生みだされるある種の「愉悦」に対する考察はまだまだ詰めが甘いというのが正直なところだが、最終的にはまとまった形で発表できればいいなと思う。



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