短歌はどの歌人も飽きさせてはならない/笹井宏之賞の評

ありがたいことに、私の連作が第4回笹井宏之賞で最終候補作となり、紙面に10首掲載された。つくった短歌が全てでないにせよ未知の人に触れる可能性があるということは嬉しいことである、と同時に怖いことでもある。

短歌を望まれているものの、今では発表の場から遠のいてしまった歌人がいる(←訂正しました。不適切な表現でした、申し訳ありません。)。佐久間慧、宝川踊、濱田友郎、、、ここに名前を挙げられるのは私が幸運にも過去の同人誌や機関誌のバックナンバーを読むことができたからである。
なぜ短歌をつくらないのかは私は知らないが、一人一人に事情があるのだろう。そのことは全く問題ではない。

しかし、その理由が「今の短歌がつまらないから/つまらない短歌が評価されるから」であるかもしれないという可能性をどうしても捨てきれない、というか、そう思われているのではないかという恐怖が常にある。私の作品が最終候補に残ったということは、少なくとも一人分の席を奪ったということだ。その一人が短歌に呆れ、辞めてしまったら、、?その責任を取ることはできるだろうか、、?

でも、かといって私は短歌を辞めることはできない、申し訳ないけど。どんなにクソでも続けますよ、ごめんなさい。ただ、できることはあると思う。それは「自分の秀歌観を示すこと」、「私はこの短歌をおもしろいと思っていると論理的に(あるいは感情的に)言葉にすること」だ。それしか思いつかない。

なのでここからは大賞・個人賞といくつかの最終候補作品の評をしていこうと思う。

ノースリーブ着てると窓開いてるみたい 近づいてカーテンにくるまる
るるるるる雪うさぎってるるるるる溶けたら赤い目を食べたげる
/椛沢知世「ノウゼンカズラ」

一首目、「ノースリーブ着てると窓開いてるみたい」はすごく身体的な知覚でわたしにある「窓」が「開いている」感覚があるのが端的に書かれている。それを受けて実在する窓に近寄り「カーテンにくるまる」。この身体→世界への接続がシームレスで身体と世界を媒介する〈私〉の存在感が希薄化するのがとても良い。
二首目、「るるるるる」の意味の無い発話と雪うさぎの赤い目を食べるという暴力性の共振に惹かれた。「るるるるる」の言語野が決壊する感じと雪うさぎが溶ける様が響き合っている。やはり身体→世界の移行がテーマになっている(雪うさぎが溶けてそこには空白だけがのこる)。

ブランコがあったあたりを見ていたら韻を踏みつつ少年の過ぐ
/涌田悠「こわくなかった」

こういう「じんわりした不在」が好きだ。「ブランコがあったあたりを見ていたら」という景の導入が上手くて、公園という空間・人気のなさ・目の前にある空間、、色々な情報が瞬時に、そして優しく手渡される。その時、韻を踏みながら少年が通り過ぎた。おそらく韻が聞こえただけで、少年がどんな見た目なのかを主体は把握していない。気づいたときにそこにあるのは韻だけで、主体の周りには空間だけがある。この他者の不在がすごく良かった。

遠泳でさうしたやうにたましひがあると信じてゆく花鳥園
「ラブホテル」の持つ詩の響き、それはただ一枚のおほきな鯨の絵
佐原キオ「みづにすむ蜂」

一首目、遠泳とは果てしない行為だ。目的地はなく、人間の生息地ではない水中で、同じ行動を(ほとんどの場合平泳ぎを)気が遠くなるほど続けなければならない。そのとき人間が頼れるものはなんだろう。この一首では「たましひ」である。「たましひがあると信じてゆく」という行為が削ぎ落とされたミニマルな、しかしそれゆえに圧倒的に硬質な、行為であることを読者は共有する。そのような行為でもってゆく花鳥園にはどことなく神聖なオーラが立ちこめてくる。一首の中で構造的に「遠泳」と対置されている「花鳥園」のふたつのモチーフが読めば読むほど接近してゆく。その中間にいる〈私〉の存在が段々と薄まってゆく。
二首目、「「ラブホテル」の持つ詩の響き」は正直分からない。しかし、「それは」の指示語を経由し「ただ一枚のおほきな鯨の絵」という圧巻の換喩で占める。そこで初めて「ラブホテル」という語彙に詩の響きがうまれる。鯨の鳴き声も音というよりは「響き」だ。力業がバチッと決まるときのかっこよさ。
(作品には直接関係ないですけど、後書きもよかったです。現代短歌社の「Born after1990」のときも思ってましたけど。)

お野菜たっぷりヌードル買うときにWHOから拍手
ガスというガスを吸いこんだときの上半身だこれじゃあ
上牧晏奈「ふぁんふぁん」

一首目、「お野菜たっぷりヌードル」の時点でもうすでにこの一首の虜になっていると後から時間差で気づく。情報量が適切でそして十分におもしろい。「買うときに」だから、周りには体に悪そうなカップ麺がたくさん陳列されているだろう。そこで「お野菜たっぷり」を選べる〈私〉にWHOは拍手を送る。もちろんこのWHOは想像上の、で、だけどWHOのような巨大国際機関の賛辞を体言止めで置かれると読者としては全面的に作中主体を肯定するしかないという感じである。すごい。
二首目、結句の余らせかたが効いている。この歌の前に体を掻きむしる歌があるから、かゆくて体を掻いちゃって荒れた皮膚を作中主体は見ている。私もアトピーだからなんとなくわかるけど皮膚を掻いちゃって荒れてるのを見るときの「取り返しのつかないことをしてしまった」という罪悪感、あの(あ~あ、、、)っていう感じ、その後ろめたさが結句の字余りにとてもよくあらわれている。
一連の韻律感覚がおもしろいなと思いながら読んでいると、受賞の言葉に伊舎堂仁から短歌に入ったとあり、妙な納得感があった。

直訳が通じない表現じみた感情を持/って/たされて/いる
手取川由紀「直線」

名伏しがたい感情をもう一歩踏み込んだ表現としての「直訳が通じない表現じみた感情」。それを持っている/持たされているし切り刻まれている。感情の対象は明らかではないし、どのような感情かを知ることはできないが、その感情の存在がありありと伝わってくるのがすごいと思う。
この一連はおそらく競走馬と〈私〉の関係をもっと注視し、読み解かなければいけない気がするのだけど、現状まだできていないので、もっとよく読みます。

彼岸花わたしのここにも咲いていて此処が見えないとは言わせない
どん底のどんは身体が落ちた音 予感をかさねれば日々になる
安田茜「遠くのことや白さについて」

一首目、彼岸花は遠さと痛みの暗喩だとおもう。それが「わたしのここ」にも咲いている、痛みや遠さが自分のなかにあるという確信を手放さないという覚悟と、それを宣言することの裏側につねにつきまとう恐れ。それらが一首のなかでうねっているように感じる。
二首目、上句がすごい。飛び降り自殺の映像をいつか見たことがあるけれど、あのえげつない音、肉と無機質が激突するときの音が、二句目に突如あらわれる「どん」によって伝わってくる。それを受けての「予感」である。いつか自分もどん底に達するかもしれないという「予感」があり、その積み重ねが「日々になる」ことの果てしなさ。
個人的には一番印象的な歌が多い一連だった。

雪虫を払って海へゆく海へゆく海へ ああ 確かな尿意
てゅーてゅーてぃーと歌うともなく歌う子がつまずくだろう段差がふたつ
志賀野左右介「環境」

一首目、韻律感覚がすごいなと思った。韻律のふらつきがそのまま海へ行く作中主体の足取りのふらつきになるような感じがあり、だからこそ「尿意の確かさ」がより浮き彫りになっている。「ああ」で身体感覚と思考を結びつけるのもすごい上手い。
二首目、上句で子どもって確かに感覚をそのままに歌にすることがあって、その幼くて無垢なものの良さが十分にあらわされている。それを受けてその子どもの先にあるつまずきそうなふたつの段差を作中主体は見ている。この段差が見えるのは作中主体が大人だからで、その対比が段差を眼差している作中主体の恐ろしいことをしているような雰囲気をよりいっそう立ち上げている。

ボールペンで書けないことは 満月よ シャープペンシルでも書けないね
水沼朔太郎「兄の腹這い」

書くということの、メタ的な歌とおもった。ボールペンでも書けないことはシャープペンシルでも書けないという当然なことを、「満月よ」という呼びかけを仲介して書かれると、叙景という行為が常に景に対する負け戦のように感じられる。そのことを作中主体はとくに悲観していなさそうなところがとても良いなと思った。

僕にある人語の才能 明け方の海辺のキャンプの写真を撮って
雨月茄子春「スナフキン・ハート」

「僕にある人語の才能」という認識が一首のメタ的な描写にもなっているのがおもしろい。作中主体は写真によって海辺のキャンプの景色を切り取っているが、それと同時に自分にある人語の才能のことを実感している。おそらく「僕にある人語の才能」は自分のことばの限界を表しているのだろうし、写真を撮るという行為がある種の敗北宣言のように見えてくるのがおもしろい。

思ったと書くと思ったことになる 三日月のほうが剥がしやすそう
左沢森「思ったと思う」

この歌は読みが難しくて、「三日月のほうが剥がしやすそう」は「と思った」が書かれていないからまだ思ったということになっていないのか、思ったとは書いていないけど思ったことになっているのかが判断しきれない。
この判断のつかなさがこの一首の良さにつながっていると思う。短歌という表現と、短歌と地続きにいる人間の「思う」ということはどういうことかというテーゼを「三日月のほうが剥がしやすそう」というさりげないワンダーとともに提示している。昨今の思考の流れをそのまま書くというスタイルを一回り拡張した表現だと思った。

ドラフラワーと生花が合わさってパワーが生まれているインテリア
川村有史「更新作業」

この「パワー」がすごい良い。ここに書かれているインテリアを想起し、そこに生じているものを言語化したときに「パワー」になるのは本当にそう、という感じ。ドライフラワーの「ラワー」と「パワー」によって二句目と四句目の冒頭で押韻を踏むことで一首のなかで緩急が生まれているのも良い。


以上で終わります。僕も短歌をつづけていきますし、それが色々な人を飽きさせないようなものであるように、おもしろい短歌を作り続けます。




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