2022/03/12

最近あまり日記を書けなかった。何をしていたかというと、特に大したことはしていなかったのだが、かといってずっとベットの上にいたのかというとそうでもなく、「書く気にはなれないイベントが毎日ちょっとずつあった」というのが実際に近いと思う。しかし、「日記の王・ニッキングに俺はなる!」という気持ちも依然として心にはあり、それゆえ毎日少しずつ(日記書かないとな~)というストレスを感じていたのもまた事実ではある。日記は一日にしてならず。

今日は起きてすぐに春の気配を察知できるほど気温が高く、太陽もよくでていた。春の陽気にtwitterのみんなが浮足立っているのが伝わりこちらまで嬉しくなったが、天気があまりにも散歩におあつらえ向きだったために、何かの罠なのでは?という気持ちになってしまい一日中家に引きこもった。もらいもののパウンドケーキと自分で淹れたコーヒーが美味しかったので良かったということにする。

春の陽気にあてられて不意に中学校の卒業式の日の朝にマキシマムザホルモンの「予襲復讐」を聴いてから家を出たことを思い出して恥ずかしくなってしまった。マキシマムザホルモンと奥村鼓太郎の歴史は浅い。強いて言えばものすごく容姿のよい人が出していた「爪爪爪」の歌ってみた動画を中二の時に狂ったように見ていたが、それが電子の海に消えてしまったことを今でも悲しんでいることぐらいが人生とマキシマムザホルモンの接点だと思う。このことに関してはマキシマムザホルモンの監視力を恨んでいる(マキシマムザホルモンのMAD動画や歌ってみたはすぐに消されてしまう、インターネット七不思議)。

屋上の貯水タンクの風に冬すっげえこれもう僕いらないじゃん
石井大成「カノンロック」『キラーチューン』

ある景を詩にするとき、その景に詩をつくるという行為が敗北するということ。それでも短歌を作り続けることは矛盾しないし、むしろその敗北とどのように向き合うかにこそ重心はあるのだと思う。この一首には「屋上の貯水タンク」を見ている「僕」の位相と、それを短歌にしている作者の位相が混在している。その位相の混在が「すっげえ」というむき出しの感情表現によって可能になっていて、それがこの一首の独特の空気感、おもしろさにつながっている。


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