【一首評】たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる/佐クマサトシ

たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる
佐クマサトシ「lottery」

文學界2022年5月号

歌の意味内容としては次の通りだろう。
まず、日本には多くの仏像が存在するが、それらの中には常に公開されるわけではなく倉庫や博物館などに収容されているものも多くある。それらは得てして歴史的価値のある物で、その価値故にたまにしか公開されることはないのである。しかし、何かの催しがあるときなどは期間限定で公開されたりもして、多くの人がその仏像を一目見ようと集まってくる。そして、その公開期間は終了し、ふたたび仏像は元の場所へと戻っていく。

この歌を読んだとき、同作者のある一首が思いだされた。以下の一首である。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
佐クマサトシ「vignette」

思いだすと同時にこの歌を誤読していたかもしれないとも思った。
この歌で重要なのは「クリスマス・ソング」の響きそのものであって、「好きだ」→「好きだというのは嘘だ」という前言撤回的なレトリックではなかったのかもしれない、と。
一度好きだという評価を得ていた「クリスマス・ソング」とその評価を覆された後の「クリスマス・ソング」は微妙に位相が変わっている。そして、この一首を結句まで読んだ後、もういちど読み直すときにあらわれる3度目、4度目の「クリスマス・ソング」もまた、位相が異なっている。短歌を円環構造とすると、位相をすこしずつずらしながら、それでも脳内に延々と響きつづけるクリスマス・ソングの「響きそのもの」こそがこの一首の核だったように、今は思っている。だからこそこの一首を鑑賞するに当たっては「作中主体」は想定するべきでない。そこにあるのは短歌定型と「~が好きだ ~が好きだというのは嘘だ」という構造、クリスマスソングの響きだけであった。そして、この一首が多くの議論を呼んだ最大の理由は、挑戦していることの”ラディカルさ”にあったのではないか。短歌定型に否応なく現れる(ように私には思われる)作中主体を「構造」の力によって制圧するという取り組みは、この一首において成功している。成功しているが故に、議論を呼んだと言って良いかもしれない。

さて、ここまでの話を踏まえてもう一度読み直すと、

たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる
佐クマサトシ「lottery」

この一首はクリスマス・ソングの短歌と比べると作中主体の気配がうっすらとある。「たまにしか公開されない仏像が公開された後され終わる」という現象を認識している主体の存在の影があるように感じられる。
しかし、「たまにしか」という時間の限定が翻って「過去にも公開されたことがあり、未来にもいつかは公開されるだろう」ということを暗示しながら、下句では「公開された後され終わる」という本来あるはずの時間的幅を圧縮した表現を一首の中で行うことで、この歌にも(クリスマス・ソングの歌にも見られたような)位相をずらしながらの循環を見て取ることができるはずだ。しかし、ここでの位相のズレは、クリスマス・ソングの歌とはすこし性質が異なっている。すなわち、この一首においては読めば読むほど「仏像がいまはどの地点にいるのか」がズレていくのである。初読時には公開前から公開終了にかけての時間の経過に見えるのに、読めば読むほど仏像が「公開前」、「公開中」、「公開後」のどこかにいる、かつどこにいるのかが分からないという逆転現象が生じている。これは「たまにしか」の効果によって「公開前」と「公開後」という始点と終点が結ばれ、ひとつの円環になるからだろう。この円環を回ると最初にうっすらあったはずの作中主体の気配は霧散し、そこには仏像のイメージだけが残る。

私はこの「仏像」の歌を「クリスマス・ソング」の歌をアップデートした歌だと感じたが、それは最初にあえて作中主体の気配を残しておくことで読者を円環に「迷い込ませる」ことに成功していると感じたからである。「クリスマス・ソング」の歌はラディカルな「構造」による円環であったために、円環に飛び込む読者と飛び込まない読者に二分してしまっていたのではないか。しかし、この「仏像」の歌ではそこがクリアされている。読んでいるうちにすでに円環に入っており、仏像のイメージだけが脳内に残るのである。



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