共有と洗練と(長谷川麟『延長戦』批評会を経て)

 ※この文章は『延長戦』批評会でのパネリストの会場発言を含みます。適宜本批評会の文字おこしが収められた『現代短歌』2024年9月号をご参考ください。

 2024年6月16日に開催された長谷川麟の第一歌集『延長戦』の批評会は、パネリストとして瀬口真司・土岐友浩・永田淳を迎え、瀬戸夏子司会のもと行われた。この批評会を聞きながらぼんやり考えていたことは、昨今の口語短歌を作る者たちが洗練させてきた方法論や価値観、またそれによって作られた短歌のおもしろさが、その外側にいる読者にはリーチしない、広がりを持たないものかもしれない、ということだった。
 例えば、瀬口の発表における「平出奔や吉田恭大との文体の似通い」や、歌に立ち現れる「メタな主体像」などの指摘は、ある程度現代口語短歌のシーンや方法論の変遷を知っていれば、分かりすぎるほどである。瀬口がレジュメで引用している、

躓いたことすらプラスになる 分かる? スーパームーンにスキップをする

という歌に用いられる地の文での発話(=「分かる?」)と「?」の使い方、一字あけの使い方からは、何人かの他の作者の影が浮かぶ、という人も少なくないだろう。
 あるいは瀬口の「メタな主体像」という指摘は、土岐が『延長戦』の魅力を「多層的な私」としたこととも共通している。土岐は、

眠るのが趣味だと話していた頃の私は本当によく眠っていた

のような歌にある、私を俯瞰する眼差しや、歌ごとに立ち上がってくる「私」の多層性をこの歌集のおもしろさの一つであると話していた。しかし、このおもしろさは長谷川麟の、というよりは、むしろ口語短歌のそれであると思われる。

お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
          斉藤斎藤『渡辺のわたし』
ぼくにはぼくがまだ足りなくてターミナル駅に色とりどりの電飾                          
       阿波野巧也『ビギナーズラック』

「私」に対する俯瞰した眼差しやその多層性は、これらの歌の連なりの先にあるものであり、『延長戦』という歌集に固有の魅力であるとは思えなかった。むしろそれは、口語短歌が(近代的自己に基づくオーソドックスな文語短歌に対抗するかたちで)洗練させてきた技法の魅力ではないだろうか。
 
ここまで列挙したような論点は何ら新しいものではなく、すでにある程度共有され、それをもとにして新しい口語短歌は作られ/読まれている。長谷川もまたそれを踏まえて『延長戦』を作り上げたのではないだろうか。
しかしこのような口語短歌の「共有と洗練」が、実際にはかなり局所的にしか有効でないのかもしれない、と批評会を経て考えるようになった。そう感じたきっかけは、永田がいくつかの歌に対して投げかけた、「何が良いのか分からなかった」という評価であった。「良さが分からない」という評価は、「悪い」「つまらない」とは似て非なるものである。後者には評価軸があり、前者にはない。評価軸がないものを「これは良いものなんだ」と押し付けることは徒労に終わるだろう。『延長戦』批評会を終えて心に残った違和感は、この徒労の予感だったのかもしれない。
しかしこの「徒労」から逃れるために「方法や価値観を共有している人だけで楽しむこと」をよしとすることはできない。口語短歌の「共有と洗練」を摂取して作られたであろう『延長戦』の歌が「何が良いのか分からない」と評価されるならば、居直るのではなく「どうすればおもしろさが届くのか」ということを模索しなければならないはずだ(もちろん「そもそもおもしろくない」という可能性をも反省的に考えながら)。
その模索のヒントは、実は当の批評会のなかに現れていた。永田が提示した「虚辞にちかい措辞」というタームがそれである。永田は、

インスタにあげる写真がほんとうになくてお寺を何枚か撮る

などの歌を挙げつつ、「短歌のセオリーとしては省いたほうがいいところ(=「ほんとうに」)をあえて書くことで、その変さが長谷川の魅力にもなっている」と評価している。また瀬口は、この「虚辞にちかい措辞」について「体感から出てきた必要な言葉」と評価している。

どうして「ほんとうに」のような「虚辞にちかい措辞」が、「共有と洗練」を外部にひらくことを可能にすると感じたのか。その直接のきっかけは批評会の場で、土岐が

フレームのない眼鏡ならもう少し、今よりも少し視野が広がる

という歌を「虚辞にちかい措辞」の歌として挙げた際に、この歌のプラスの評価がパネリスト三名の間で、おそらくこの批評会において唯一、一致したことにある(あくまで体感ではあるが、会場全体にも、この歌は良い歌だと納得したような雰囲気があったと思う)。「虚辞にちかい措辞」には、評価を一致させるだけの力があった。
さて、この「虚辞にちかい措辞」もまた、「共有と洗練」の産物であろう。

元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた
     永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
4人ともくたびれていてしょうがなくいちばん笑うやつについていく
        谷川由里子『サワーマッシュ』
動物の住む場所を東西に分け、そこを渡ってゆくモノレール
            吉田恭大『光と私語』

しかし「虚辞にちかい措辞」は、先に挙げたような字開けや記号、メタな主体などとは違い、「共有と洗練」の外側にいる読者にも通じたのである。このことから、「虚辞にちかい措辞」には方法や価値観を共有していない読者にもその「おもしろさ」を届けるためのヒントがあると思い至った。

さて、ここまで繰り返してきた「虚辞にちかい措辞」は、似たタームがすでに存在している。それは、「かも」や「かな」などの短歌にほとんど意味を加えない「冗語」というものである。
玉城徹は「近代の濾過」(『近代短歌の様式』)において、近代短歌を、短歌の本質である「しをり」(=冗語)と「内面的時間の統一」が結合したものと定義した。次のような歌とともに確認しよう。

山道に昨夜(ゆふべ)の雨の流したる松の落葉はかたよりにけり
                  島木赤彦
青山の町蔭の田の水(み)さび田にしみじみとして雨ふりにけり
                  斎藤茂吉

赤彦の歌は、「かたよりにけり」とあることで、昨夜からの時間の持続が感じられ、湿った山の匂いや肌寒さまで感じられる。茂吉の歌は、「しみじみとして」と「雨ふりにけり」が重なることで、雨と水さび田だけが眼前に立ち現れ、しばらくその幻覚を楽しむことができる。例えば優れたアンビエント・ミュージックは、聴覚体験そのものが「環境」になるように、これらの歌は読むことによってその景色が目の前に現れたような錯覚をもたらす。冗語の効能は、このような体感レベルの「気分」や「環境」を立ち上げるときに極めて有効に作用する。玉城は、近代短歌の「洗練」をこのような「気分」、「環境」の立ち上げに見出し、またその後の「描写」や「構成」への傾倒を批判的に捉えた(ここでの「洗練」はかなりアイロニカルなものだが)。
それに続いて玉城は、次のような歌を挙げて戦後における「冗語を排除しようとする傾向」を指摘した。

移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ
                 佐藤佐太郎

しかしそれらの歌は、冗語が排除されているにもかかわらず、「移動する」「つたふ」などの自動詞によって「冗語性」を帯びている、とする。玉城はこのことを「冗語のない冗語性」といい、これと徹底的に正対することで短歌を変革する必要性を説いた。

さて本題は「虚辞にちかい措辞」である。口語短歌に用いられる「ほんとうに」のような「虚辞にちかい措辞」は、意味的に不必要であるという点で、極めて冗語に近いものといえる。さらに、「インスタにあげる写真がほんとうになくてお寺を何枚か撮る」のように、「虚辞にちかい措辞」が主体の体感の解像度を高めるために用いられるとき、「虚辞にちかい措辞」は冗語と一致すると言ってもよいのではないか(瀬口は「虚辞にちかい措辞」を指して、「むしろ僕からするとアララギっぽく見える」と言ったが、このようなことが背後にあったと推察される)。
玉城が提言した「冗語性との格闘」がこれまでどれほど取り組まれてきたのか、どれだけの成果をあげてきたのかは、それ自体考えなければならない問題である。そして同時に、戦後「冗語」との格闘が大なり小なりあったのに対して、ポストニューウェーブ以後の口語短歌が積極的にその「冗語性」を取り入れてきたということにも、一考の余地がある。
何にせよ、「フレームのない眼鏡ならもう少し、今よりも少し視野が広がる」という歌のおもしろさが「共有と洗練」の外側にいる読者にも通じた背景には、「冗語」というオーセンティックな技法を導入していたことと、それが「虚辞にちかい措辞」というタームで名指されたことがあるのではないか。そしてこれを、「口語短歌のおもしろさを伝える」方法の一つの成功例として検討することができるのではないか。

私は先ほど「どうすればおもしろさが届くかを模索する必要がある」と述べた。そして批評会と批評会を踏まえた考察の結果、その方法は「オーセンティックな技法の導入」に着地した。しかしそれだけで本当によいのだろうか。この方法を正攻法として繰り返すことは、すでに斥けた「方法や価値観を共有している人だけで楽しもうとする」姿勢の真反対にある、「すでに共有されているおもしろさを積極的に受け入れる」ものであり、その怠惰さは同程度のように思われる。かといって、この両極を無視して「自分だけがおもしろければそれでいい」とする態度にも、私は興味をもてない。
ではどのような方法が残されているのか。つまるところ、オリジナルとオルタナティブの両極に居座ることなく、その中間を彷徨い、その彷徨いの軌跡を批評によって捉えることしかないのではないか。このようなあまりにも当たり前のことを、しかしそれ故に忘れてしまいがちなことを、批評会に触発されて再確認することができた。

これまで口語短歌が共有し洗練してきたものはどれぐらい伝わっているのか、という制作の現場では想像するしかないことを体感できたことが、「『延長戦』批評会」から私が得た収穫である。そして、それが可能になったのは、この批評会の中心に、「共有と洗練」を屈託なく引き受け、貪欲に模索し続けた長谷川麟と『延長戦』があったからこそだと、言い切ってもよいだろう。


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