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海のものとも山のものとも

少し春めいたと思ったら気温はそこそこあるはずなのに妙に寒くて、真冬に逆戻りしたかのような数日間を過ごしている。

この時期になると寒暖差や花粉、様々な理由で周囲の人たちが体調を崩す。

かく言う僕も春は得意ではない。なにせ自分が障害を発症した季節なのだから。

もう丸九年になる。その前からずっと苦しい生き方をしてきたので、人生の半分ほどはうつうつと暮らしていることになる。あまり自慢できることではない。

今でも嫌な出来事を思い出して追体験したり、その時の感情を思い出してモヤモヤしてしまう。

だけど、そういったことはもう水に流してしまえるといいなと今思っている。

最近、街中でもどこでも他人に対しての怒りの沸点が低すぎた。怒る対象は少し身勝手な人たちだ。そういう人たちに共通するのは、僕がずっと自分を押し殺してきた対象の人たちと性質が似ていること。

つまり僕は過去に自分をしいたげた人たちに対して根に持っていて、それを似たような人たちに対してぶつけたくてしょうがないのだと思った。そしてそれを思った時、なんて愚かなんだろう。やめよう。と思った。

しかし長年、いや積年の恨みである。なかなか簡単には手放せない。だがまずは自分が恨みというのかなんというのか、根に持っている事実を受け止めてやらねばなるまいと感じた。

それは障害を持ち、はたから見れば人生を棒に振っている感もあるような生活なのだから根に持つのも無理はないだろう。障害を持たなかった自分を思わない日はないと言って言いすぎではないし、それを思うとやはり原因というと言いすぎだがきっかけを作った連中に対していい気持ちがしないのも無理もないだろう。

とは言え、今僕が生きているのは僕の人生である。その連中の人生ではない。その連中に囚われて生き続けてしまっては、これは逢坂志紀の人生ではなくその連中への復讐の人生になってしまう。そんなのはつまらない。仮に映画だったとして誰が見たがるだろう? 愚問だ。

どこかで目にした言葉だが、恨みがルーツの病気は治りづらいのだそうだ。道理だなと思った。まずは自分が根に持っていることを認めること、これが一番難しい。そんなことはダサいことだから。でもそれを出発点にすれば僕の心根が澄んでくるのではないかと思う。

心根が澄んで、自分の根っこがしっかりすればそこからでも人生いいじゃないかと思わなくもない。

とにかく、誰かのために生きること―それも自分をしいたげたような人たちのために生きること―はもうやめてしまいたい。

そうしたら自然に楽に生きられる気がする。後生大事に根に持っていたってなんの役にも立たないのだからさっさと水に流してしまおう。そして胸を張って自分のできることをやるのだ。それしかない。

志紀

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)