逢坂 志紀
好きなnoteたちを勝手にマガジンに…
筆者、逢坂志紀の掌編、短編集。
半年ぶりに、実家に帰って来た。 新しい彼氏が出来て、ケンカをしながらもそれなりに順調で、年齢的にも結婚の話が出てきたりなんかもして。 そんなことがある度に、わたしはあなたを思い出す。 小学生の頃からずっとわたしの部屋に鎮座する勉強机のひきだしを開ける。 そこには、あなたがくれたチュッパチャップス。 あんなに劇的で、だけれど間抜けた告白を受けたのは、最初で最後だった。 もしあなたが、あの頃、小学五年生の春先に転校をしなければ、わたしたちはお付き合
よく行く喫茶店でのお話し。 週に一度、よく行く喫茶店にオーナーさんが以前にしていたお店のスタッフさんがお子さんを連れて現れる。昨日がその日だった。 お子さんの名前はあっくんとしておこう。間もなく三歳を迎えるぷくぷくほっぺのかわいい天使だ。 あっくんとはもう一年半くらい顔を合わせ続けて、あっくんは僕のことをしっかりと認識してオーナーさんが「ヒゲ」と言うと僕の顔を見る。数か月前までは抱っこもさせてくれたが、強烈な自我の発達によって最近では「いや~!」と拒否される感じになって
先週の木曜日の夜だろうか、なんだか目が腫れてきそうだなというぼやっとした予感を持って眠った。 翌日の夕方、鏡を見る機会があって目元を見るとうっすら赤くなっていた。週末に突入してしまうと受診出来なくなるかも、それはいかんと思って時間を作ってピューッと眼科に行った。目薬を数種類処方されてことなきを得たのである。 その数日後、今度は風邪を引いた。葛根湯を飲んだりなんやしたり、早めのパブロンはしなかったが早めの対応でほぼ一日で回復に成功した。翌日にはシャキーンとはしなかった。体も
今日はちょうちょの話をしようと思う。 半年ほど前のこと。道路、アスファルトの上でひなたぼっこをするちょうちょを見つけた。 ふわふわと羽をゆらめかせ、それはそれは気持ちよさそうだった。 しかし、ちょうちょがひなたぼっこしているそこは車も通れば人も通る場所で僕はひどく心配になった。こんなに気持ちよさそうにしているのに、気が付かずに天に召されるのはかわいそうだと。 よってダメ元でそのちょうちょにひょいと手を差し伸べてみた。人差し指だけを伸ばしたETポーズでちょうちょと交流を
大泉洋のエッセイを買ったのは今年の一月の終わりだった、らしい。 らしい、と言うのも大泉洋のエッセイを買ったはいいものの長らく開くことをせずに本棚にゴーンヌッ! していた。そのゴーンヌッ! していた大泉エッセイに挟まっていたレシートを見ると一月三十一日の日付。つまりそのエッセイ本を寝かせるおむつムーニーマンしていたわけである。 いやにゴーンヌッ! とかムーニーマンとかふざけた調子で書いているのは明らかに大泉洋の影響を受けてのことである。大泉洋はさすがにムーニーマンなどとは書
今朝、玄関のチャイムが鳴った。アマゾンから荷物が届くことになっていたので、十中八九そうだろうと思って玄関まで行った。 直前になんとはなしにいつでも外に出られる格好に着替えていたので慌てることもなく玄関のドアを開けた。 アマゾンの配達のいかつめの兄ちゃん(親しみを込めて)がメチャクチャいい笑顔で「お宛名間違いないですか?」と確認をして荷物を渡してくれた。すごく清々しい兄ちゃんで、荷物と一緒に何かこう吹き抜ける風のようなものを受け取った気がした。 気持ちのいい人間でありたい
春というやつがあまり好きでなくなった、というか嫌いになったのは九年前。それ以来、春になるとそわそわイライラガタガタする。 新学年のクラス替えにドキドキワクワクするようなことはとっくのとうになくなってしまった。 思えばこの春を嫌いになった頃からとんとツキがなくなった。何をしてもどうやっても上手く行かなくなった。 まるでアリジゴクにはまってしまったように抜け出せずにもがき、あがく日々だ。 俗に言うスランプというのか、それにしては長すぎて少しくたびれてしまった。 九年前の
少し春めいたと思ったら気温はそこそこあるはずなのに妙に寒くて、真冬に逆戻りしたかのような数日間を過ごしている。 この時期になると寒暖差や花粉、様々な理由で周囲の人たちが体調を崩す。 かく言う僕も春は得意ではない。なにせ自分が障害を発症した季節なのだから。 もう丸九年になる。その前からずっと苦しい生き方をしてきたので、人生の半分ほどはうつうつと暮らしていることになる。あまり自慢できることではない。 今でも嫌な出来事を思い出して追体験したり、その時の感情を思い出してモヤモ
珈琲を毎日淹れ始めて二年半経つ。上達したのかと問われれば、正直なところ自分では分からない。 微妙な変化、それもいい変化と悪い変化を重ねて重ねて二年半という時間が経った。 はじめた当初に根を詰め過ぎたことを理由に一日休んだ以外は本当に最低一日一回は淹れている。根気強く向き合っていると言っていいかと思う。 だが正直なところ自分の現在地が分からない。どれだけ成長したのかが分からない。全く進んでいないようにも思うし、とんでもなく進んだようにも思える。だから時々ものすごく自信喪失
昔々、このような文章を読んだことがある。 どこで読んだか忘れてしまったし、原文がこの通りであったかも定かでない。思い出しながら書こうと思う。 半分以上自分の創作になってしまった。原文ほぼそのままなのは、王者の~感化するのか、部分だけである。それ以外は思い出しながらそれらしいことを当てはめた。 人としての話になるが、結論から言うと引用部分の王者の~のような生き方を叶うならばしていたいということである。 出来るなら命令や圧力で人を動かすのではなく、僕自身の生き方に共感して
年始、財布を替えた。 足かけ十五年使ったわずか七千五百円で購入した二つ折りの財布に、引退の時が来た。 色艶、耐久性どれをとっても抜群なのだが以前からお札はどうしても折っていれたくはなく。いつかは長財布にしようと決めていたので、このタイミングになった。 この七千五百円の二つ折りの財布だが、実は正規品ではない。その昔まだ野球をやっていて丸坊主だった頃にお年玉を握りしめてある商業施設へ行った時のこと……。 革小物がずらりと並べられたその店舗で僕は立ち止まって、食い入るように
石田衣良という作家の娼年シリーズ三部作を改めて読破した。 娼年との出会いは今は昔、二十歳の頃。 当時アルバイト先からの帰り道にレンタルビデオ屋があって、そこに古本のコーナーがあった。 大学に入学したものの、入学して一番最初に仲良くなった友人がカンニングで入学していたり色々なことで周囲との温度差を感じていた。 自分が何をしたいのかも分からず、何になりたいかも分からず、何にも命を燃やせない日々だった。 そんな時に古本コーナーで目に入ったのが『娼年』。 文庫本のその本の
今朝もまた珈琲を淹れた。 昨日、珈琲の淹れ方の指導を受けて感じた点が二つあったので記しておこうと思う。 ひとつ、直接言われたことだが繊細かつ大胆に珈琲を淹れる必要がある。不安や恐怖がルーツの感情を持って珈琲を淹れるとそれが珈琲に出る。珈琲にはウソをつけない。 もうひとつ、思いっ切りやった上での失敗の方が悔いが残らない。 丁寧に珈琲を淹れることはとても大切だと思う。もちろん、それは絶対にそう。丁寧さを失っては絶対にいけない。 だが慎重に慎重に石橋を叩いて叩いて、トント
今朝、昨日パン屋さんで買ったパンと自分で淹れた珈琲とで朝ご飯を終えて散歩に出た。 ふら~っと歩いて、気まぐれの気分屋の本領を発揮してものの五分ほどで家に引き返しはじめた。いつもと少しだけ違う道を通っているとたまに顔を合わせるご婦人と出会った。 その方が開口一番、「ウチのワンちゃん、亡くなったんです」と言った。 その亡くなったワンちゃんというのが、猟犬にルーツを持っていそうな足の長いそれはそれは立ち姿の美しい子だった。 あまり人が得意でないようだったけど、ここ数年僕はそ
なんだか賢そうなタイトルだが賢くないのに賢いふりをするタイプの人間、日本代表である僕のことなのでたいしたことない文章になると思う。そこんとこよろしくです。 新年の挨拶に代えて。 生きていく上で一貫性を持つと楽ちんなんだろうなと思う。このケースはこう対応する、みたいな想定問答集的なテキストを丸暗記してその通り生きるみたいな。 だがあまりに一貫性というか通り一遍すぎると人間である意味がなくなる気がする。 人間である以上、臨機応変に対応を変えることを迫られる場面も多々ある。
我が家にロッキングチェアが来た。 知り合いから譲ってもらった数十年物のこのロッキングチェア。座り心地抜群で家にいる半分以上の時間で座っている。 つまり僕はチェアマンになったのである。逢坂チェアマン。 年末のイッポングランプリに松本チェアマンの代理でこのロッキングチェアに座って出演していたら笑ってほしい。 あ~、しょうもな! さて。多分これが今年最後の投稿になるかと思われるのだが……書き始めて文句をつらつらになったので書き直す。 今年のまとめみたいな感じにしようかな