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小さなことの積み重ねでしか物事は決して成らない

珈琲を毎日淹れ始めて二年半経つ。上達したのかと問われれば、正直なところ自分では分からない。

微妙な変化、それもいい変化と悪い変化を重ねて重ねて二年半という時間が経った。

はじめた当初に根を詰め過ぎたことを理由に一日休んだ以外は本当に最低一日一回は淹れている。根気強く向き合っていると言っていいかと思う。

だが正直なところ自分の現在地が分からない。どれだけ成長したのかが分からない。全く進んでいないようにも思うし、とんでもなく進んだようにも思える。だから時々ものすごく自信喪失して、時々ものすごく慢心する。

珈琲を教えてくれているオーナーさんの姿を見ていて、本当に感心と言うか感動することがある。

物価が高騰しているとはいえ、珈琲一杯の値段なんてたかが知れている。千円も二千円もとれるわけではない。いわゆる単価が低い中でも珈琲と真剣に向き合う姿を目にできることは他には得られない経験だと僕は思っている。

見ていて歯がゆい時が多々ある。よそに珈琲を飲みに行ってももっといい値段をとるのに美味しくない珈琲を淹れる店がある。ある――というより大半。それは技術的な問題として。

そもそも珈琲を淹れる器だが、寂しいことに最近はほとんどが紙のカップだ。某大手コーヒーチェーンをはじめ、コンビニでもファストフード店でも紙のカップが当たり前。そしてそれらの大半は機械でドリップした無機質なコーヒー。

陶器のカップにハンドドリップで珈琲を入れて提供してくれるお店に最近入ったことがない、あるいは一度も入ったことがないという人もいるのではないだろうか。

時代に逆行して手間ひまをかけて店づくりをして、陶器の器でハンドドリップで珈琲を淹れるオーナーさんに何度か言ったことがある。オーナーさんの珈琲はもっと値段をとる価値がある、と。

もちろんそうなれば僕は今のように頻繁にはお店に通えなくなるかも知れない。それでもそれだけの価値があると感じていると伝えた。オーナーさんはひとこと、そうしたら今来てくれているお客さんが来られなくなるから、とだけ答えた。

正解という概念は学校までで、それ以降は最適解くらいしか存在しないと思う。しかし無機質で簡素な味気のないものにばかり傾倒していくこの世界でいいのかどうか、僕は考え直す必要があるように感じる。

ここ何年も流行の発信源であるInstagramはインスタントフォトグラムの略で、つまり我々は食品だけでなく情報も遂にインスタントで済ませるようになっているわけだ。

それに怖気が立つ僕の方がおかしいのだろうか? 人の手あか、温もり、そういったものが排除され続けたらそこは生きづらい世の中を通り越して生きられない世の中になる気がする。

志紀

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