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かっちょいい!

大泉洋のエッセイを買ったのは今年の一月の終わりだった、らしい。

らしい、と言うのも大泉洋のエッセイを買ったはいいものの長らく開くことをせずに本棚にゴーンヌッ! していた。そのゴーンヌッ! していた大泉エッセイに挟まっていたレシートを見ると一月三十一日の日付。つまりそのエッセイ本を寝かせるおむつムーニーマンしていたわけである。

いやにゴーンヌッ! とかムーニーマンとかふざけた調子で書いているのは明らかに大泉洋の影響を受けてのことである。大泉洋はさすがにムーニーマンなどとは書いていないが、一人称が“私”であるにも関わらず重たさを感じないふわっとした文章なのだ。

僕は昨日自分でこのnoteに書いたエッセイを大泉エッセイのあとに読み返してみた。なんと堅苦しいことか。人間性が堅苦しいことは自覚していたが、なんとまあ文章の堅いこと堅いこと。ガチガチのガチンコだった。

文章には人となりが出るというが、まあもうこの融通の利かない男の象徴たる文章であった。

僕としては普段からこの力みまくった感じをなんとかほんわかさせていきたいという目標がある。人間的に柔らかく懐深い人間になりたいとオールウェイズ思っている。

しかし昨日書いた僕の文章には親しみやすさのかけらもなく、大泉エッセイに影響を受けてムーニーマンをすることになったのだ。

では僕が普段からムーニーマンしていないのか? と問われれば実はムーニーマンしているのだ。今は母と暮らしているが、母に「ご飯、何がいい?」と聞かれた時に「任せるおむつムーニーマン」と答えることがある。頻度で言うと週に一回。なんと中丸君もビックリのシューイチである。

とまあ普段の力み倒している自分というのは、こういわゆる仮面を被っている姿なんですな。本当の僕はシューイチでムーニーマンしているし、大泉洋に影響を受けてゴーンヌッ! とか書いてしまうわけでして。それならその本性の自分でいられたらふわっと生きられるのかななんて思う。

大泉エッセイの良さというのは大泉洋がカッコ悪さをさらしていくところにあると僕は思っている。まだ少ししか読んでいないけれど、ダサい大泉洋が最高にかっちょいいのだ。

二枚目ぶることは誰にでも出来る。三枚目ぶるわけではなく、どうやら僕は根が三枚目寄りらしいのでムーニーマンしてゴーンヌッ! して生きて行けばいいのではないだろうかと自分で結論付けてみる。

昨日の文章の感じと打って変わった様子になったが、僕の根っこは変わっていない。カッコつけることを少しずつやめていきたい。そうしたら楽に生きられそうな気がする。根っこの自分に素直にほわんと生きたいものです。

志紀

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