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カーネーション、赤を2本、白を1本ください

僕にとって母の日は少しだけ嫌なイベントだった。
母の日はなんだか幸せいっぱいなイベントに見えたからだ。
家の近くにあるお花屋さんに行って、赤2本、白1本を買って帰るのが毎年の行事になった。

ぼくには、母親が3人いる。

お母さん
おばあちゃん
叔母さん

両親を4歳の頃に亡くし、祖母に引き取られ叔母のサポートを受け生活してきたからだ。いまは誇りに思うし、人とは違う感覚で母以外を見ているから、ある意味贅沢な気持ちをもらっていると感じれる。

必死で育ててくれたし、いつも向き合ってなげだそうとおもえばできたことをしなかった恩と感謝を感じる1日になっている。


でも、当時はそんなに優しい気持ちを持てていなかった。

特に白のカーネーションを購入するのが嫌だった。



母の日に小さい子がカーネーションを買う理由なんて誰でもわかる。家族にあげることがその日ばかりは確実にわかる。おつかいだけど、おつかいじゃないイベントに見える。それが嫌だった。


お母さんがいないと思われるのが嫌だった。


白のカーネーションは大人から見たら、一眼でわかるのが本当に恥ずかしい気持ちを思っていたからバッグに隠して持って帰ったり、洋服の中に隠して持って帰ったりしていた。それぐらい嫌なイベントだったのだ。

でもひとつだけ、たったの一つだけ嬉しいこともあった。


お花を渡すと祖母も叔母も笑顔になるからだ。


少し照れ臭そうに、わざわざいいのに〜なんてお世辞を言いながらしっかり受け取って、花瓶に大切に飾ってくれて、ちょっとだけ眺めたりしてて。

その眺めている時の表情をぼくは見ていた。

見ていたというより見に行ってたのかもしれない。その時にお花は人を笑顔にするものなんだと学んだ。たったの一本。豪華なものを渡さなくても、母の日を覚えていて、それを買いに行くことを予定して、3本買ってきたものを一つ一つ渡していく行為の中にある、優しい気持ちを具現化したものだからだ。

優しい気持ちは人を笑顔にする。


誰かに与えたいと思う気持ちではなく、
誰かに「あなたは大切だよ、特別だよ」と伝えるためのイベントは寂しさと嬉しさが混在する日。


母の日は、日常的に起こってほしいと思う優しい気持ちの具現化をイベントとして起こしてくれる日。


祖母も、叔母も定期的にお花を家に飾る人たち(おばさんのその習慣はおばあちゃん譲りだね」

でも、その日もらうカーネーションだけは、ちゃんと別の花瓶で生けてくれる。


カーネーションは無くなった人に渡す色として、ピンクもいいのだけど決まって僕は白を買っていた。

赤と白、交わったらピンク。


どちらもいなかったらぼくの母親という認識は今とはちがうはず。当時からそれは思っていた。だから、必ず赤と白。

3本買う時に、これは合計ピンクだから。


という自分の中でしか意味のわからない、納得していない理由をこじつけて、日頃の感謝の中に、優しい気持ちをそっと忍ばせて渡すようにしていた。


いつの間にか、ぼくは堂々と持ち歩くようになった。自分には3人も母親がいるんだぞ!!と自慢するように。誰にもわからないだろその想いと今では感じるけど、当時は胸張って歩いていたのだ。

どちらかと言うと、気づいて!と言わんばかりに堂々と持ってわざわざ両手に赤と白を持って見せびらかして歩いていた。

自分の両親がいない人生を受け入れた時には、ぼくは家に帰るまでの道をわざわざ遠回りして帰っていた。


お母さん
おばあちゃん
叔母さん


3人ともだいすき。



おれ、がんばれ。

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