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ゐどむの日

1(イ)月10(ドン)日。

本日(1月10日)は、いどんの日。

ということで、名前と意味から考える生き方の話。

「いどん」が愛称となるきっかけは、20年近く前までさかのぼる。
当時、俺はテレビドラマの制作スタッフ(AD)をしていた。
俺の本名(漢字)から「ポセイドン」を発想したTBSの磯山晶プロデューサーに「ポセ」のあだなをいただいた。

スタッフ、演者、みんなが当たり前にポセと呼んでいるものだから、本名と勘違いした初対面の方に「出身国はどちらですか?」と聞かれるようになった。この国籍不明な感じが面白くてとても気に入っていた。それを面白がれる雰囲気があった。このチームは本気の中にも常に遊び心があった。

その後、紆余曲折あって教育業界へいくことになったのだが、面白がっている人の授業はやはり面白いものだ。

面白がるって大事だ。

当然、俺も面白がっていた。
10年以上も本気で取り組んだものは他にない。教育を天職とさえ感じていた。ところが、面白がる感覚が消えた時期があった。

そんなとき井本陽久先生の森の教室に遊びにいき、M君に出会った。
なんとなくあの頃の「ポセ」と名乗り、由来(ポセイドン)をM君に伝えた。

M君「じゃあイドン!」

もしかしたら、俺が信じられる大人であるか試していたのかもしれない。
俺はイドンとしてその子たちと一日中遊んで、すっかり仲良しになった。

それで「いどん」に生まれ変わった。

そのとき所属していた組織は辞め、今は友人と『アリストテレスの窓』というオンライン教室をやっている。

さて、年末に太陽の塔にのぼってきた。

岡本太郎はこんな言葉を残している。

「ぼくが思う一番の友だちは、ぼくに問題をぶっつけてくる人だ。たとえ会ったことがなくてもね。」

岡本太郎美術館の近くに住んでいたり、岡本太郎記念館の近くの大学に通っていたこともあり、昔から岡本太郎は割と近くにいたのだが、あーだこーだ教育や人生について考えていたら、昨年、ついに岡本太郎と友だちになったのだ。

で、友だちの岡本太郎の「挑む」を見ていてふと思った。
「いどむ」と「いどん」は響きが似ていると。
そこで、机にあったペンで適当に落書きをした。

「挑」のカタチが非常口のマーク、まわりに赤で散りばめた「いどん」がしんにょうを彷彿とさせるのか、挑むなのに、逃げてる感が・・・

そもそも「ん」は打ち消しに使う場合もあるから、「いどん」は「やりますん」的な?

「いどん」の「い」と「ん」を旧字の変体仮名で表記したら、
「いどん」→「ゐどむ」

漢字にすると
「ゐどむ」→「挑む」

「ゐどむ」は、挑むのか、挑まないのか。


覚悟を決めろ!
挑むにしろ逃げるにしろ、その決断に覚悟があるかが大事なんだ。
他人がどう思おうがかまわないが、その決断に覚悟はあるのか?

友だちのそんな声が聞こえてきた。

ただ無意味に落書きしただけなのに、覚悟を問われている気持ちになるという・・・

でも、「ゐどむ(いどん)」と名乗る覚悟を決めた。


また、「ゐ」は、「みる」 ということばの結合にもみえる。

「自分の眼でみること」
「ものごとの本質をみること」
「その人が見ている世界をみる努力をすること」

旧字の「ゐ」は、草書の「為」が字源という。
「誰ガ為」「何の為」

特別意味などなかった名前と生き方が繋がり意味が生まれてた。

こんな「ゐどむ」として、2024年にゐどむ。

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