見出し画像

昨日は昨日でなく、トマトはトマト。

3歳次男の「昨日」は昨日ではない。

一昨日も昨日、

3日前も、半年前も昨日。

次男にとって、『昨日≒過去』なのだ。

明日も一緒。

日曜日にいったところが楽しいと、

「明日も来る!」

でのこれは保育園や仕事を休んで連れて行ってではなく、

「また」とか「今度」来たいという意味なのだ。


だから、「明日はお仕事だから、連れていけない」と戦う必要はなく、

「また今度、来ようね」でいいのだ。


それが最近、「前に」とか「今度」を使うようになった。

昨日は昨日で、明日は明日になったのだ。


つまり、今の次男に「明日、連れて行く」と約束したならば、本当に、明日、連れて行かなければ嘘をついたことになる。


言葉って、こうやって必要に応じて細分化してきたのだろうけど、詳細が伝わるが故に不便なこともあるんだなと。


以前の次男くらいの時間間隔で生きられる世界であったら、時間の概念がざっくりだったら、生産性とかどうでもよくかなり寛容な世界になるんじゃないか。

いや、寛容でいないと辛い世の中になるのかな。

でも、例えば中国人が漢字を苦にしないように、もともと時間の概念がなければ待たされることなども苦にならないのかもしれない。

誰がいつなにをやろうが自由。そんな世界だったりするのだろうか。



さて、今週、アリストテレスの窓の授業で、

イースターを扱ったのだけど、

そこから命について子どもたちと対話した。

「ドラえもんに命はあるのかな?」

「生きているってどういうことなんだろね」


あれこれ考える過程で、

「逆を考えると、死んでいるってことだから・・・」

ある子が、逆からアプローチをはじめた。


さすが!っと思っていたら、

1年生の女の子が、

「逆を考えると、新聞紙!」

「トマトも!」

ああ!

左から読んでも、右から読んでも、同じってことか!笑


この発言ものすごく奥が深いなあと。

ここから対話がさらに深まる。

ちなみに、これ、俺の中の相対性理論。

アインシュタインの相対性理論はわかっていないので、単に関係性大事だよって話ね。

子どもの発言(点)と発言を結んで線にするのを手伝うのが俺の仕事だと思ってる。

それらの点を線で結ぶと、いろいろな面白いカタチが浮かび上がってくる。

無駄な点(発言)は1個もない。


トマトの話に戻ると、

逆なのに同じって、実際にあるんだよなあ。

例えば、愛憎なんてそうなんじゃないか。


ほぼロボットの人間と、ほぼ人間のロボットは同じなのかもしれない。

死んでいるように生きているのと、生きているように死んでいるのは同じかもしれない。


以前、自然と人工について、ある人と対話したことを想い出した。

「人間も自然の一部なんだから、人間がつくったものも自然なのでは?」

「蟻塚ってアリが創った建造物だけど、人間が作るビルと何が違うのか?」

「そもそも自然と人間をわけることが、対立関係を生んでいるのでは?」

この対話をしてから、その二項対立は本当に二項対立であるのか考えるようになった。

老壮思想の道・タオは、人間も自然の一部。てか、ぜんぶ宇宙だ。
※雑ですみません(これもよくわかってない)

仏教の「空」って概念は、無いが有る。

そもそも完全に分かれていない。

言葉を定義して、細分化してひとつひとつ考えることで思考が進む一方、ついついまったく違うものとして、相反するものにしてしまっていることってあるなと。

もしかしたら、カブトムシもゴキブリも同じ名前だったら、同じ人気者でありえたかもしれない・・・これはないかー。

でも、宇宙からみたら違い何てわからない(肉眼で見えない)。

粒子レベルでみても違い何てわからない(肉眼で見えない)。

いろんなところから、いろんな倍率の眼鏡を使って、いい感じにみられるといいのだろうな。


6年生の男の子が、こんなことを言っていた。

「アリストテレスの窓に通って、物事をいろいろな角度や距離から見られるようになった」

「以前の俺では単純に憤っていたことも、いまではなんでだろうとまず相手のことを考えるようになった」

「こんなこと無理だろうと思っていたことも、できるって思えるようになった」

いやー、手前みそながら、いいことやってんな!








この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

子どもの成長記録

育児日記

会社をやめたため、サポートは非常にありがたいです!未来を創る子どもたちの教育活動に使わせていただきます。