佐藤公昭@Videograph Messenger

1972年生まれ。西東京市在住。 ビデオグラファー(演出と撮影と編集)。趣味は映像と自…

佐藤公昭@Videograph Messenger

1972年生まれ。西東京市在住。 ビデオグラファー(演出と撮影と編集)。趣味は映像と自転車と、たまにDJ(80s Classics!)。 仕事の事、アメリカの話、映像の話など、気ままに書きます。ご連絡はこちら→https://vgm-tokyo.com/

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カナダ逃亡記#1:カナダに逃亡をすると決めた話

はじめに これからここに載せる文章は、私が今から11年程前に体験したカナダへの国外逃亡の話です。2010年2月から2013年10月までカナダに住み、2014年の7月からワードプレスのブログに連載していました。そのブログはもう封印しているのですが、先日久しぶりに会った友人からそのブログの話をふられ、他人が読んで面白いものならまた出してみよう、という気になりNOTEに再掲することにしました。 10年過ぎればもうすっかり過去の話ですが、あの時の国外逃亡はその後の私の人生の指針、価

    • カナダ逃亡記#22:最終話 Pt.2 また会う日まで

      ディテンション・センターでの日々 ディテンション・センター(収容所)に入ってすぐに荷物の中身をチェックされた。一人一人の鞄の中身を全てチェックして、電子機器や財布の中身などを全て報告する。僕はここがどういう所なのかよくわからないので、とりあえず行儀よくするように努めた。子供たちはすでにこの場所に慣れ始め、その辺のものをさわって遊びはじめようとした為に、監視に怒られた。僕らのこの作業の為に4人程ついているのだが、彼らは僕らを家に捕まえにきたような屈強な連中ではなく、普通の人々

      • カナダ逃亡記#21:最終話 Pt.1 連行

        <前回からの続き> いつもと違う朝 「You know why we are here?…」 ドアの前にたつ大男にそう言われ、僕は2秒とかからない内に、この状況を理解した。 「わかってるよ」とひとこと言った後、 「少し待ってくれ、娘を学校につれて行かなくちゃいけないんだ」 、と言いかけ、やめた。 子供たちには彼らの権利がある! 学校に行く自由を誰も侵してはなならない! などと、この期に及んで言えない事くらいわかっていた。 子供が学校に行くことができないのを認識するこ

        • カナダ逃亡記#20:ドアのむこう、そして

          当局はいつ来るのか? 2013年の8月の終わり、カナダに合法的に留まる最後の手段であったP.R.R.A.(プラー)の申請が、連邦裁判所により正式に却下された。 いよいよ僕ら一家は当局から逃れる、アンダーグラウンドの生活を迎えることになった。 8月31日の朝8時、佐藤家はトロント・ピアソン国際空港の、一般の搭乗客とは別のある場所に出向いてカナダを出国しなくてはならかった。 エアーカナダの<トロントー羽田>間のチケットが5枚、正規料金で(おそらく税金で)購入され、準備されてい

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        カナダ逃亡記#1:カナダに逃亡をすると決めた話

          カナダ逃亡記#19:アンダーグラウンドで生きる決意

          ハードコアな弁護士 この頃の数週間、P.R.R.A.(プラー)の準備で、家→弁護士→子供の習い事→弁護士→仕事→弁護士と、目まぐるしい日々が続いた。担当の弁護士は強面のグイディー弁護士からダニエルという僕と同じような年の白人男性にかわり、彼がまた今まで会ったこともないくらい働き者の頼りになる男だった。 ダニエル弁護士は決して弱音を吐かず、希望的・悲観的観測で物事をいわない「リアリスト」だった。日本にいたときからこの時までに5、6人の弁護士に仕事を依頼してきたが、その内の何

          カナダ逃亡記#19:アンダーグラウンドで生きる決意

          カナダ逃亡記#18:カナダ在留をかけた最後の戦い

          <カナダ逃亡記#1>はここから プラー P.R.R.A. (Pre -removal Risk Assessment) 2013年5月、その長く寒い冬が終わると、トロントの木々や草花は一斉に柔らかい緑に被われ、鳥のさえずりが街中を包んだ。そんな頃、我が家をとりまく状況は大きく変化しようとしていた。 僕らの生活の根幹となっていた「難民申請」はいまや完全に却下され、その知らせが僕らのもとに封書で届いた。いずれはそれが届く事はわかっていたが、いざ届いてみるとなんとも心細く寂し

          カナダ逃亡記#18:カナダ在留をかけた最後の戦い

          カナダ逃亡記#17:未設定な私たち

          <カナダ逃亡記#1>はここから HAPPY YEAR 2013! 年は2012年から2013年へ。カナダに来てから3年が経とうとしていた。例年のごとく、「年賀ビデオ」をつくって遠く離れた日本にいる親戚や友達に、我が子らの成長をお知らせする。 「子供たちはすくすく育ってますよ」 彼らは日々何かを吸収し、心も体も成長していく。習い事にも精を出し、それなりに充実した日々を送っていた。 一方、僕や妻は殆ど一日中、子供の事に時間を費やしていた。 妻の場合、朝の弁当つくりにはじ

          カナダ逃亡記#17:未設定な私たち

          カナダ逃亡記#16:友人たちとの別れ

          <カナダ逃亡記#1>はここから 〜前回の話:カナダ逃亡記#15〜 撮影は始まった チェアマンとの撮影の日々が始まった。時間のある限り、僕は彼とその仲間たちと一緒の時間を過ごす。おのずと彼らの生々しいハードな日常が映像に記録される………はずであったが、実際には、そう簡単にカメラのファインダー越しにグっとくるものには出会えない。だからとにかくまめに、彼らの行き先に同行させてもらった。 ある時は、トロントから北に100キロ程上がったバリー(Barrie)という町に、ザ・トラジ

          カナダ逃亡記#16:友人たちとの別れ

          カナダ逃亡記#15:椅子男(チェアマン)との出会い pt.2

          <カナダ逃亡記#1>はここから 〜前回の話:カナダ逃亡記#14〜 ハーバーフロントのゲットー 2012年6月の末、僕はチェアマンに会いに行った。場所はオンタリオ湖のほとりにあるビショップ・チュチュ通り。トロントのダウンタウンにはオンタリオ湖に沿ってハイウェイが東西に走る。そのハイウェイよりもさらに南は「ハーバーフロント」と呼ばれるエリアで、ヨットハーバーや新興のマンションが建ち並ぶ。屋外アイススケートリンクなどもあって、ちょっとしたデートスポットのようになっている。ビショ

          カナダ逃亡記#15:椅子男(チェアマン)との出会い pt.2

          カナダ逃亡記#14:椅子男(チェアマン)との出会い pt.1

          <カナダ逃亡記#1>はここから ドキュメンタリーが撮りたい 2012年、カナダ・トロントにおける僕は、子供の面倒をみたり肉体労働のバイトをしたり、そのかたわら映像制作の仕事も極めて細々と続けていた。 映像の仕事は全てがお金になるものとは限らなかった。カナダ人の大好きな「ボランティア」の名目で、僕は何かを撮影して編集して、それをタダで渡すということもよくやっていた。しかし時間は限られている。どうせタダでやるなら、自分の好きな題材を撮りたい。そういうわけで、僕はドキュメンタ

          カナダ逃亡記#14:椅子男(チェアマン)との出会い pt.1

          カナダ逃亡記#13:トロントの切ない空

          <カナダ逃亡記#1>はここから 安定しない日々 2012年が始まった。もうトロントに来てから約2年が経ったことになる。子供たちの日常会話はすっかり英語になり、親子の会話も英語が半分くらい混じることになってきた。小学生と幼稚園生を抱える家庭なので、生活のリズムはすっかり一般的な幼い子を抱える家庭のそれになっている。 しかし、自分たちはあいかわらず「難民申請者」というステータスで、僕はなんとも腰の落ち着かない日々だった。 日本人として日本にいてもあまり経験することはないが

          カナダ逃亡記#13:トロントの切ない空

          カナダ逃亡記#12:ホームビデオで振り返る2011年

          <カナダ逃亡記#1>はここから 2010から2011へ 2010年2月にカナダにきてから1年が過ぎた。実に色々とあった1年だった。 一般的には「大変」と思われる日々を送っていたが、子供たちはいつもと変わらぬ気楽な日々を送っていた。日常を「普段通り楽しく過ごす」ことを親としては大切にしていたので、それもそうだろう。彼らはその点では「優秀」だった。 僕はとにかく仕事がないものだから、子供たちと過ごす時間はたっぷりとあった。ビデオ作家(ビデオグラファー)として食っていくことを

          カナダ逃亡記#12:ホームビデオで振り返る2011年

          カナダ逃亡記#11:リーガルエイド

          <カナダ逃亡記#1>はここから 弁護士を探せ! とりあえずRefugee Claimant(難民申請者)になることはできた。 これで合法的にカナダに滞在することができるようになった。 あくまでも「一時的に」だが。 このあと、I.R.B.(移民難民委員会)によるヒアリングが行われ、そこで最終的に難民として認めるか否かの判断がくだされる。 そのヒアリングまでに、数ヶ月から数年かかる。 ヒアリングに際して移民弁護士を雇うことになった。 ヒアリングに弁護士はマストではないが、

          カナダ逃亡記#11:リーガルエイド

          カナダ逃亡記#10:失意からの復活

          <カナダ逃亡記#1>はここから ドライブ・イン・ディスペア 失意の復路 オタワからトロントへ帰る運転は、今まで経験した運転の中でもワースト1になるほどの、つらく悲しくつまらないものだった。 本来なら、予定でいうなら、今頃みんなウキウキの笑顔で、みんなで歌なんかうたいながら、僕は運転しているはずだった。 今の僕には妻にかける言葉が見当たらない。前向きな言葉をかけてみても、渚に指で書いた文字のように、次の瞬間には「現実」という名の冷たい波に洗われ消えてしまう。 復路は往路と

          カナダ逃亡記#10:失意からの復活

          カナダ逃亡記#9:オタワのアメリカ大使館での出来事

          <カナダ逃亡記#1>はここから オタワにて 2010年10月30日、オンタリオ州都のオタワにあるアメリカ大使館で面接する日取りが決まった。トロントにもアメリカ大使館はあるが、オタワだと即日でビザを発行してくれる。 僕はこれまでに移民弁護士とも、「大使館員との面接」の練習をしてきた。全て準備万端。書類的にはまるで不備がない。 5,000ドルもかかってるんだから、そりゃそうだ。 レンタカーを借りてトロントからオタワまで運転した。かなりの道のりがあった。ずーっと続く平坦で真っ

          カナダ逃亡記#9:オタワのアメリカ大使館での出来事

          カナダ逃亡記#8:新天地への通行証

          <カナダ逃亡記#1>はここから 夏のおわり 8月も中頃をすぎると、トロントの空気は一気に秋の気配を帯びてくる。 「ちょっと早い気もするなあ、まだ8月だよ…」 近所に市営の屋外プールがあり、そこによく子供と通った。このころになると冷たい北風が吹き始め、季節が変わっていくことを濡れた髪ではっきりと感じることができた。 市街のいたるところに生えているメープルの大木が、それは見事に、夏の緑色から燃えるような秋の鮮やかな茜色にグラデーションをし始める。乾燥した空気が空の青さをいっそ

          カナダ逃亡記#8:新天地への通行証