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カナダ逃亡記#17:未設定な私たち

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HAPPY YEAR 2013!

年は2012年から2013年へ。カナダに来てから3年が経とうとしていた。例年のごとく、「年賀ビデオ」をつくって遠く離れた日本にいる親戚や友達に、我が子らの成長をお知らせする。

「子供たちはすくすく育ってますよ」

彼らは日々何かを吸収し、心も体も成長していく。習い事にも精を出し、それなりに充実した日々を送っていた。

一方、僕や妻は殆ど一日中、子供の事に時間を費やしていた。
妻の場合、朝の弁当つくりにはじまって、小学校までの往復5キロの道のりを子供らといっしょに歩いていく。
僕はバイトのかたわら、往復20キロの道のりをかけて息子をサッカーチームに運んだり、娘をスケート場に連れて行ったり、ほぼ毎日送り迎えをしていた。そこにとられる時間はかなりのものだった。

バイト代の多くは車の維持費に消え、何か仕事のためのカメラ機材などを買おうとしても、なかなか買えない。
相変わらずトロント市から失業保険はもらっていたが、ダウンタウンでの生活はまったく楽ではなかった。
最近(2015.4月現在)読んだあるトロントの記事によると、トロントで家族4人が普通に暮らすためには、両親ともにフルタイムで時給1800円分はもらえてないと無理らしい。

そりゃ、無理なはずだ。本当に大変だった。自分ひとりだったらどうにでもなっただろう。しかし子供が3人もいれば、そうはいかない。お金がないから習い事はできないなどと、手をぬくことができない。

マリファナは何のため?

僕は日々仕事ができないフラストレーションと経済的に自立できていないことからくる自己嫌悪で、泥の湿地帯を歩いているような気持ちだった。加えて、自分たちのカナダにおけるステータスが決まっていないので、父親としてはとても情けない思いだった。

自分たちが貧困の最中にあると自覚して、貧困に関する事にも興味を持ち、それについての本なども読みあさったりした(その前に貧困を抜け出る事に興味をもつべきだったが)。

ドラッグが貧困に蔓延する理由も理解できた。
どうしようもなく状況をかえられない人々が、安易につかの間の逃避をするために、ドラッグや酒はいつも安価でそこにある。

僕は当時、酒もタバコもやらなかった。金がないのに常習性のあるものには手をだせない。
代わりに、妻には内緒で韓国人の知り合いからマリファナを買って、うさを晴らすように目を真っ赤にしていた。己の力ではかえられない現実に辟易していた。

僕はそれ以外のドラッグに手を出す事はなかったが、安易なレクリエーションのためにドラッグに手を出して、気づいた時にはとんでもない事になっていた、なんて事はトロントやバンクーバーでは聞き旧された話だ。

ジャマイカ系カナダ人の友人チェアマンは一緒にいた時、実に多量のマリファナを吸っていた。下半身が不随で感覚が無いとはいえ、何かしらの痛みが下半身からくるらしかった。彼は「それを取り除くためにもウィード(草)が必要なんだ」、と言っていた。しかし僕は彼の状況をこう推測した。チェアマンにはどうしても直面したくない現実があって、そこからつかの間の逃避をするためにも痛飲ならぬ痛煙をしているのではないかと。

レクリエーションのためにマリファナを吸う人は多い。
精神的あるいは肉体的な苦痛から少しの間でも遠ざかるためにマリファナを吸う人も存在している。むしろ、毎日吸い続ける人には、そういう人たちの方が多いのではないか。

ヤングストリートにて(at Yonge Street)

ある日の夕方、ヤング・ストリート(Yonge St.)という多くの人が行き来する通りで「泥酔したイヌイットの女性」を見たことがあった。雑踏のなか、わきに酒をかかえ道にへたりこんで大声を上げて泣いていた。カナダではめったに往来で酔っ払いをみることはなかったので、思わず立ち止まって見てしまった。

初めはアジア人かと思ったが、脇に転がっていた酒の瓶をみてイヌイットだとわかる。カナダのイヌイットの「アルコール依存」は大きな問題になっている。イヌイットが居住するカナダ北東部のヌナブト準州の未成年の自殺率は「世界一高い」という事実も、このアルコール依存とともに取り組まなくてはならない社会問題になっている。

1950年代のカナダ政府の政策で、全てのイヌイットの子供たちが親元から引き離され、一か所に集められ全員クリスチャンに改宗させたれたという歴史がある。その結果、彼らの言葉や生活習慣などの文化は剥奪され、親と子との間に大きな深い溝ができた、となにかの記事で読んだ。

僕がヤング・ストリートで見たものはまさに「慟哭」だった。彼女はまだ20代そこそこの若い女性だったが、服も顔も薄汚れ地面にへたり込んで、まるで魂の底から泣いているようだった。全てのイヌイットの嘆きを象徴しているかのように。

夕陽がビルを照らすヤング・ストリートは、そのあまりにも悲しそうな女性のまわりにぽっかりと空間をつくっていた。

グーグルマップからのキャプチャ画像 ヤング・ストリート
まさにこの角のあたりに女性は座っていた。

ドラッグ、酒、自殺、貧困

思えば僕はこういうテーマには昔から興味があった。自分の育ってきた環境とは全く無縁だったからかもしれない。

ユージン・リチャーズという写真家が好きで、"Cocaine True, Cocaine Blue"という写真集の中で、売春婦が背中に子供を背負いながら事におよぼうとしている写真は印象的だった。

地域の図書館に行くと、これらについての本が山のようにあった。
その中で、ヨーク大学名誉教授、「自殺学」の権威、という変わった経歴の日本人がいることを知った。

僕はその方に手紙を書いたことがあった。自分と家族の難民裁判において、日本に詳しく且つカナダ国内でそれなりの地位にいる人のバックアップを得られないかと、探っていたのだ。その人は大変誠意のある方で、すぐに電話で連絡をしてきてくれた。後には食事にも招待してくれた。都合がつかずに行く事はできなかったが、その方の好意にはとても感謝している。

未設定な私たち

2010年12月に始めた難民申請であったが、2013年初夏に入り、ようやく終わりを迎えようとしていた。「難民申請は通らない」、という事がほぼ確定しようとしていた。

なぜ「ほぼ確定」という言い方かというと、カナダでは裁判において色々とルールがあって、一回や二回では裁判が全て終わる事はない。実際にこの段階までに、すでに一度申請を却下されていたのだが、雇っていた弁護士がそこに異議を申し立て、裁判は続いていたのだ。

しかしここにきて、私たちの言い分は通らないということがわかった。
僕らの「難民申請の裁判」は終了した。

あまい期待もしていたが、すべての言い分が却下された。想定内といえば、想定内だった。日本という司法国家から逃れてきた我々を受け入れるほど、カナダの難民申請もあまくない。もしこれを許す前例ができてしまったら、後々カナダにとって面倒くさいこともおこるだろう。

この時期、静岡に住む妻の母に検察庁の担当者から連絡があったという。「そろそろカナダの娘夫婦に動きがあれかもしれませんよ」、と。
この情報はまさしくカナダから日本の外務省→法務省を経て担当者に伝わったのだと思うが、何故そこがつながっているのかと不思議に思った。全てが“出来レース”、最初から無理だったのかもしれない。

余談だが、ある日検察の担当者が義母の所にやってきて、一枚のプリントアウトした写真を見せたという。
「この人の顔に見覚えはありませんか?」
義母にとって、写真の顔はたしかに見覚えのあるものだった。

後になってわかったことは、それは僕がFacebookにアップした「日本から来た妻の友達」の写真で、検察は僕のFBページからダウンロードしたのだった。
「えっ!検察って俺のフェイスブックとか見てるの?!」
どこか可笑しな気もしたが、写真をアップしたのは迂闊な行動だった。その時の投稿で友人の名前を明かさなかったことは幸いした。
それ以来、僕のFBページは僕の友人以外みることは出来ない設定にした。

しかし、却下されたとはいえ、このまま日本に帰ることはできない。そこだけは従うことができない。何のために全てなくしてまでカナダに来たのか。

そういう我々のような「理由あり」の人々が世界中から集まるのがカナダだ。実際に、自国に帰ったら即死刑になってしまう様な人も珍しくない。当然、そういう人々を救済するための別の裁判も用意されているわけだが、その辺りが「最後の裁判」になっている。そこにはまた弁護士を雇わなくてはいけない。

難民申請却下の通知を受けたあと、僕らはカナダの「国境サービスエージェンシー」という所に行かなくてはならなかった。ここは、自国に送還まじかだったり、そうでなかったり、どうなるのか決まっていない人々が隔週で出頭する所だ。そこにいる顔ぶれはいつもの、カリブ系、中国系、アフリカ系、東欧系、の人々だ。やあ、みなさん、こんにちは、久しぶり。

国境サービスエージェンシーに来た記念に写真をとる。それを、家に帰ってMacのiPhotoに取り込む。するとそこには「未設定」の文字がズラリ。
僕はおもわず笑ってしまった。
そう、私たちは未設定…

国境サービスエージェンシーでの「未設定な私たち」

<カナダ逃亡記#18>へ続く


 

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