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カナダ逃亡記#22:最終話 Pt.2 また会う日まで

ディテンション・センターでの日々

ディテンション・センター(収容所)に入ってすぐに荷物の中身をチェックされた。一人一人の鞄の中身を全てチェックして、電子機器や財布の中身などを全て報告する。僕はここがどういう所なのかよくわからないので、とりあえず行儀よくするように努めた。子供たちはすでにこの場所に慣れ始め、その辺のものをさわって遊びはじめようとした為に、監視に怒られた。僕らのこの作業の為に4人程ついているのだが、彼らは僕らを家に捕まえにきたような屈強な連中ではなく、普通の人々だ。男女いて人種も年齢もバラバラ。カナダの公的機関ではよく見る光景だ。

部屋に通されると想像と違って、他の収容者がだれもいなかった。これは収容者を女性、男性、子供がいる女性、子供がいる男性の4種類にわけているからであった。4人部屋が8室あるフロアに僕らだけしかいなかった。なんだかみんなでほっとしたのを覚えている。

食べ物が朝昼晩と決まった時間に出てくる。普通においしいと言えばおいしいのだが、これがカリブ系の味付けの料理しか出てこない。カレーチキンと豆、プランテーン(バナナのような形をした果物)、ジャガイモ、レタスが基本だった。食事が配膳されるときには、巨大なポリバケツも用意されて、残したものはセルフでこのポリバケツに捨てる。
毎回同じ食事が出てくるので、あっという間に飽きる。一旦味に飽き始めると、これが結構苦痛になってきた。量があまりにも多いので、食べ物も飲み物もあらゆる物を残すことになる。僕は努めて出された食べ物を残さないように生きてきたが、ここディテンション・センターでは本当に毎日食べ物を捨てていかざるを得なかった。

収容者には一日に2、3回、一時間の運動時間が与えられた。建物に囲まれたコンクリートの運動場で、周りには4メートル近い二重フェンスに鉄条網が張り巡らされていた。刑務所と同じだ。ただ監視員が武器を持っていないという違いだろうか。運動は女性、男性、子供のいる女性、子供のいる男性、と別々に与えられた。

僕らが運動しているあいだ、建物の鉄格子の窓からみんなが覗いていた。運動場は常に僕らの貸し切り状態だった。しかし、貸し切りだからといって楽しいわけではない。空気の入ってないバスケットボールとフラフープくらいしか置いてない。コンクリートの運動場のかたすみには、もうしわけ程度に子供の遊具があった。ここで子供たちとカナダで楽しかったことについて思い出話などをした。日本に帰ったら何が食べたいか、という事なども話した。

常に僕らの行く所には監視員がつくのだが、我が子らはすっかり持ち前の人なつっこさを出して、監視員とも友達になった。白人青年の監視員とは一緒にバスケットボールを楽しみ、中年の黒人女性とはゲラゲラ笑いながらダンスを教わっていた。壮年のインド人男性からは、ヨガのようなストレッチを教わっていた。環境に順応するスピードは、我が子らはとっても早い。

しかし、そんな子供たちでも夜寝る時になると母親のいない淋しさがこみ上げて来るのだろう、男の子などは泣いたりしてしまう。いつママに会えるの?
しかし僕にははっきりとした返事ができない。この先もずっと子供らを淋しい気持ちにさせ続けてしまうのかと思うと、僕の心はずっしりと沈んだ。

そんな時は、これから起こる楽しい事を想像して聞かせた。日本に帰ることは、全員にとって楽しみなことだった。食べ物、気候、友達、そして海。トロントにいる3年半の間、僕も家族も一度も海を見たことがなかった。日本に帰ったらまず海に行きたい。

またある時は、ベッドで子供たちに物語をきかせてあげた。
僕の定番は「杜子春」だ。芥川龍之介の原作のようには勿論話せないが、大筋はわかっているので、装飾たっぷり「俺バージョン」の杜子春を話してきかせた。
もうひとつ、これも芥川龍之介の「桃太郎」。
これは鬼ヶ島に住む平和な鬼の村に、動物をつれた桃太郎が侵略してきて、村人の鬼を殺戮する話だ。なぜこんな話を選んだのか。深くは考えていなかったが、ただ、物事はもうひとつ別の角度からもみることができると言いたかったのかもしれない。自分たちの置かれている状況は、悲しくも思えるが、もしかすると楽しい一面もあるのかもしれない、と。
この話も詳細は覚えていなかったが、いかに「桃太郎」が悪いやつで、鬼の親子がひどい目にあったかを俺バージョンで話した。
子ども達には好評だった。

子供達は平日の2時間くらい、別に用意された教室で外から招かれた先生の授業をうけていた。教室には他にも4歳くらいの小柄な男の子のが1人いた。この子は母親とこの施設に1年以上も暮らしているという。どこかアフリカの人々で、行き先が定まらないのだろう。こんな何もない不自由な所に1年もいることが、彼にどういう影響をあたえるのかを思うと、僕は残念な気持ちになった。

収容先でやらなくてはいけない事

トロントの家に残してきた荷物のことを人に頼まなくてはならなかった。日本人として育った私たちには「人様に迷惑をかけない」という美学がある。しかしこの状況ではかっこもつけていられない。というか、収容所の中にいては、人に頼るしか方法がない。この「困ったら人に頼む」という姿勢は、その後の僕の生き方のスタンスになった。

友人のアイーシャに車と犬のプーキーの事を頼んだ。僕のCHEVROLETのミニバンはアイーシャが乗ることになった。車内に残したままのプリンスの1999のCDもどうぞ。
プーキーは僕の最後の雇い主、エメットが飼ってくれることになった。あんな老犬、場合によってはそのまま保健所につれてかれるかもしれないのに、エメットは快く、知り合って間もない僕の犬を飼ってくれることになった。僕はしんそこ安堵し、彼のハートに感謝した。彼もプーキーも同じNY州出身で、犬が死んだら故郷NYに埋葬してくれと、冗談にも頼んだ。
その他、妻の友達が数名手伝ってくれて、山のような所有物の中から必要なものの荷造りをすませてくれた。

他にも収容所内の無料電話から、僕のバイト先のシク教徒の社長、子供の習い事の先生、子供の学校、友人など、リストの端から連絡をとった。

日本の友達にも連絡を取らなければならない。僕らが日本に帰る際に、真っ先に頼りにしたい友達だ。気を利かした妻が、ここに連れてこられる車中ですでに東京に住むこの友達にはメッセージを送っていたので、話は通っていた。

収容されてから何日かして、アイーシャや妻の友達が面会に来てくれた。強化ガラス越しの面会。照れくさくて僕はニヤニヤしてしまった。子供達も大喜び。不憫なぼくらを見るような彼らの表情が印象的だった。こんな形の再会、どうにかならなっかたのかと思う。

5日ほど過ぎて、妻と電話で話す事が特別に許可されたと、知らされた。
次の日、僕らは別のフロアの一室に呼ばれ、妻と受話器を通して話す事ができた。子供達はみんな泣いていた。おそらく、妻が先に泣いたのだろう。よかったな、よかったな、と思うと、自然に僕も目頭が熱くなる。
この時点で僕らはいつ日本に送還されるのか知らされていた。そしてうれしい事に、妻は僕たちと同じ飛行機に乗るということだった。子供達はみんな大喜びした。

ここに来て8日間程過ぎた。僕はここの生活に、かなりうんざりしていた。とにかくやることがない。腕立て腹筋してみたり、瞑想したり、ストレッチしてみたり、いろいろトライした。しかしこの時間をうめられない。拘束されるということはなんて不自由なんだろう。刑務所の方がもしかするとまだましかもしれない。あそこには懲役という刑罰があって、常に時間が決められているので、暇にもてあそばれることがない。そこに身をゆだねてしまえば、何も考えなくてすむ。

またある時は、夕闇せまる初秋の空に見とれていた。北米トロントの空気は乾燥していて、夏の終わりから秋にかけて、空の青から橙色へのグラデーションが美しい。この空を見るのも残りわずか数日になってきた。

Flight Back to Japan

フライトの前日に、同じ飛行機に乗るはずだった妻が次の日のフライトに変更ということがわかり、これは多いに子供達と僕を失望させた。同時に、日本に到着して、制服をきた職員(または警察)に子ども達の目の前で妻が連れて行かれることがなくなって、よかったと思った。もしかしたら、あれはカナダ側の取り計らいだったのかもしれない。

カナダには色々と配慮はしてもらったと思う。この先、僕らは二度とカナダに戻れないかというと、カナダに立て替えてもらった家族5人、2回分の航空券代を返金すれば、また入国できると説明をうけた。しかし航空券代は正規の値段なので、カナダに行くことはもうないだろう。子供たちはいつでも戻れるということだった。

日本に帰ってからの生活。僕の両親は鹿児島の南端の枕崎に住んでいた。僕はこの時点で親とは連絡をとっていなかったし、親の助けを得たいとも思っていなかったので、日本に帰ってからどこでどのように生活するのか、まるで決めていなかった。
「なんとかなるだろ。」
困った時には、そう考えるしかない。
言い換えるとすれば、今それを考えるには僕はあまりにも疲れていた。

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2013年10月3日、ディテンションセンターを離れ日本に帰る日がきた。友達になったばかりの監視員達とお別れをする。

一同護送車に乗り込みトロント・ピアソン空港へ。手錠こそはめられなかったが、空港担当の職員がつきそいながら、僕らは特別ゲートからエアーカナダの「強制送還オフィス(?)」に連行された。そこでは、荷物のパッキングでお世話になった4、5人の友達が待っていた。

みな、空港でこういった形のお別れをしたことがないのだろう。
僕もいつものへらっとした会話ができず、ただ、お世話になりました、と頭をさげた。
その後、ほんの5分ほど談話をして、皆様の健康を願い、お別れをした。
僕たちは寄せ集めでちぐはぐのスーツケースをカートにのせ、両手と背中には荷物をいっぱい持って、搭乗ゲートへ向かった。ゲートの向こうからまた手を振って、友達にお辞儀をした。付き添いの担当職員は、僕らが飛行機に乗る直前までそばを離れず、任務を遂行していた。

山のような手荷物を飛行機に持ち込み自分のシートに座り込むと、何かが終わったんだ、という感がしみじみと湧いてきた。
トロントでの3年8ヶ月は、長くて短かった。

カナダに来た本来の目的は、2010年2月の妻の収監から逃れて、最終的にはアメリカに渡ることだった。まだ乳飲み子だった下の子供から離れて収監されるわけにはいかないという、妻の火事場の行動力が原動力だった。僕は仕事を捨て、住居を売り、貯金を使いはたした結果、クレジットカードのブラックリストにのり、社会的に失ったものは大きかった。

しかし、家族との時間、異国の地での厳しい環境でどう生きるか、人として家族として何が大切なのかを体験することのできる、貴重で有意義な時間を過ごせたと思う。
また僕は、いつでも自分に都合の良い考えを持つことができる、考え方ひとつ、ということも学んだ。

カナダに来たからこそ出会えた人、出来た経験、感じた事、色々なことがあった。しかし、子供達にとってはどうであったか?それは今はまだわからない。だがいつか、「良い思い出だ」と彼らが覚えていてくれるならうれしい。トロントでの生活で、妻は子供達が楽しく暮らせるよう、持てる力の全てを注いでいた。僕はただそれをサポートする人だったが、それでも相当な時間を子ども達と過ごすことができてよかったと思う。

妻には感謝したい。色んな人を巻き込んだけれど、世話になった人にはこれから返していこう。そして、なによりも、ありがとうカナダ、大変お世話になりました。トロントの友達へ、また会える日まで、達者でいて下さい。

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飛行機は陸を離れ、GTA(グレイター・トロント・エリア)がどんどん遠ざかっていく。疲れがでたのか、子供たちは全員、シートに深くおさまって眠っている。僕はその寝顔を確認して、自分の身にこれから何が起こるのか想像してみた。日本の空港に着けばまた心配なことが待っている。僕が妻の国外逃亡を幇助(ほうじょ)した罪があるのかどうか、という心配だった。そして僕が当局につかまったら、子供達は一体どうなるのか。

だが、起こっていないことを今心配してもしょうがない。そうなった時に考えよう。この先どんなことがあっても、とりあえず自分は前向きでいよう。身も心も死ななきゃいいんだ。また新しい日々が始まるわけだから。

目の前の座席に据え付けられたモニターでは映画「ロッキー」が映されていた。まだ考えごとを続けていたかったが、これ以上考えることもみあたらなかった。太陽の光に起こされないよう窓のシャッターを閉め、目をつむった。眠りから覚めるころには日本の領空を飛んでいることだろう。

2013年10月 下田の海にて

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