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カナダ逃亡記#20:ドアのむこう、そして

当局はいつ来るのか?

2013年の8月の終わり、カナダに合法的に留まる最後の手段であったP.R.R.A.(プラー)の申請が、連邦裁判所により正式に却下された。
いよいよ僕ら一家は当局から逃れる、アンダーグラウンドの生活を迎えることになった。

8月31日の朝8時、佐藤家はトロント・ピアソン国際空港の、一般の搭乗客とは別のある場所に出向いてカナダを出国しなくてはならかった。
エアーカナダの<トロントー羽田>間のチケットが5枚、正規料金で(おそらく税金で)購入され、準備されていた。しかし僕らは空港には行かなかった。まさに「バックレた」、というのが相応しい。

当然、当局は僕たちが現れなかったことで、プランAからプランBに移るだろう。つまり、「僕らを捕まえにくる」。
問題は、どれくらい早く捕まえにくるか、ということだった。すぐ来るのか?一週間後にくるのか?

ちなみに2010年に日本を出国(逃亡)した際は、日本の当局は僕らが約束の場所に現れないとわかって二時間もしないうちに、僕の元職場や、子供の通っていた幼稚園などに来たらしい。妻の実家や、当時僕の両親が住んでいた鹿児島のど田舎までも泊まりがけでやってきた。さすがは真面目な国民性の人々だ。

しかし、きっとカナダ人のことだ、すぐ来ることはないだろう。

プラー裁判の判決が出る前、弁護士のダニエルに非公式ながら聞いてみた。もし僕らが空港に行かなかった場合、当局が捕まえにくることがあるのかと。
彼曰く、「CBSA(カナディアン国境警備)は必ず来る。でもそこで君たちがいなかったら、その先追ってくることはないだろう。かわりに彼らはその役目を警察に渡す。しかし警察は君たちのような(危険を及ぼすような者ではない)人々をわざわざ追ってはこないだろう。」

そうだ、CBSAは必ず来るけど、そのとき「居留守」でも使っておけばいいんだ。うん、それくらいできそうだ。
でも用心のために、この家はとっとと引っ越した方がよさそうだ。

9月、新学期は始まった

長女が通いはじめたばかりのアートスクール

長女は日本でいう小学5年生の学年だったが、公立のアートスクールに行くことが決まって、僕が毎朝車で連れて行くことになっていた。片道30分のみちのり。夏休みも終わり、忙しい日々が始まった。

カナダでは当局が、学校に通う子供の住居を特定して、その親を捕まえたりすることが法律で禁じられている。
つまり、親がどんなであろうと、子供は権利に守られ学校に行くことができる。カナダってほんと正しい国だよな。
他のどの国よりも、子供やマイノリティーの権利が認められている。

僕もアイーシャの知り合いの所で、新しい仕事を紹介してもらった。今まで持っていたワーキング・パーミッション(就労許可)は8月を最後に使えなくなり、トロント市からの生活資金援助もなくなった。
税金を払うような正規の仕事は見込めなくなり、代わりに現金払いのペンキ塗り、および解体作業の肉体労働をあてがってもらった。
いわゆる「不法労働者」になった。

仕事先の社長・エメットはNY州出身のアメリカ人で、とても人のよいおじさんだった。アイーシャから僕の事情を聞いて、経験のない僕をすぐに雇ってくれた。持つべきは友だ。僕は困った時は全力で困ったと伝える。

住み家は新たな場所への引っ越し準備のために、かなりゴチャゴチャとちらかってきた。妻は自分でデザインした子供服などを造る仕事をしていたので、彼女の荷物だけでも2トン車一台分くらいありそうだった。彼女は毎晩おそくまで何かをつくりながら、つかれて眠ってしまう。僕も妻も日々へとへとだった。

引っ越し前のちらかった部屋で、疲れて眠る妻

新しく住む場所

そんな時、あらたに住む家を見つけることができた。ダウンタウンから北に25キロ程あがったノースヨークにある一軒家の地下だった。そこをまるごと借りることで話が進んだ。この家のオーナーは韓国人の初老の女性で、僕はかつてここの屋根の雨樋にたまった大量の落ち葉をとってあげたことがあった。彼女は僕ら一家で地下に住むことを快諾してくれた。
ノースヨーク地区に限らず、トロントの郊外の一軒家はその多くが地下室を持ち、それを貸す家も多い。

しかし、妻は「地下に住むことはやめよう」と言いだした。
この期に及んで住む場所を選んでる場合じゃない!
ただ… たしかに地下に住むと一年中陽はあたらないし、冬はさむいし、子供のいる家庭の暮らし向きではない。

やはり僕も妻の意見に同意し、家探しは振り出しに戻った。

「あー、家さがしってめんどくさい。なんだか当局も僕らを捕まえに来る気配もないし、今の場所のままでいいかな」と、僕は持ち前の日和見主義をじわじわと発揮し始めていた。
子供たちの学校など日常があり、日が経つごとに夫婦間にも笑顔がもどってきた。一週間経ち、二週目も終え、もうこの頃になると、当局が来ることなどあまり考えなくなってきていた。いや、いつかは来るんだろうけれど、それが自分の日常に直結する話とは考えづらくなってきた。

あるいは、単に現実から目をそむけていただけかもしれない。

いつもと違う光景

9月も後半に近づいた、ある朝。
いつものように、僕は娘といっしょに朝7時半過ぎに家を出ようとしていた。下の男の子二人は、まだ学校に行く時間ではないので、パジャマ姿でくつろいでいる。

「行ってきまーす!」

妻は娘を居間で見送り、僕と娘は朝餉(あさげ)の残る部屋を後にする。日本から送ってもらった15歳になる老犬のプーキーが、これもいつものように自分の寝床から僕らを片目で見送っていた。

我が家は変わったつくりのマンションで、玄関だけが室内の階段をあがった所にあった。二階に玄関があるつくりだ。
いつの朝もそうであったように、遅刻せんとばかり急ぎ足で階段を昇り、玄関で靴をはいて、ドアをあけた。

するとそこには、いつもと違う光景があった。

ドアの向こうには体の大きな二人の白人男性と一人の黒人男性、それと白人女性が立っていた。
胸にはいかにも「それらしいバッジ」がぶら下がっていた。

たった今、この場所についたのか、あまりにもドアの真ん前に立っているのでこっちが面食らっていると、その大きな男は言った。

「どうして俺たちがここにいるか、わかるよな?…」

僕は彼の目を見ることができず、声にならず「Yes…」と応え、肩をすくめた。

玄関を出たマンションの廊下。制作中の棚と愛する老犬プーキー、R.I.P.。

<次回、カナダ逃亡記 最終話 Pt.1 >へ続く

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