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カナダ逃亡記#21:最終話 Pt.1 連行

<前回からの続き>

いつもと違う朝

「You know why we are here?…」

ドアの前にたつ大男にそう言われ、僕は2秒とかからない内に、この状況を理解した。
「わかってるよ」とひとこと言った後、
「少し待ってくれ、娘を学校につれて行かなくちゃいけないんだ」
、と言いかけ、やめた。

子供たちには彼らの権利がある!
学校に行く自由を誰も侵してはなならない!
などと、この期に及んで言えない事くらいわかっていた。

子供が学校に行くことができないのを認識することは、僕にとってはとても辛いことだった。親である自分たちのせいで、ここまできてしまった。今また親の都合によって、子供たちの環境が変わろうとしている。彼らに何も知らされていなかったことが、再び起ころうとしている。

「もう全て終わった…」と理解した時の虚脱した感覚を、今も体が覚えている。この現実が信じられない、という類いのものではなく、ただひたすらため息が出てしまうような、心底がっかりした感じだった。

しかし、妻の場合は、また違う感情であっただろう。

一旦玄関を開けて出てったはずの僕が、再びゆっくりと居間への階段をおりてくる。
もう何が起こったのか、勘のいい彼女は気付いていたのだろう。
階段をおりて部屋に入り彼女を見ると、すでに「うそでしょ?」という顔をしていた。僕には何も説明する必要はなかった。

一分もしないうちに、カナダ国境警備隊(CBSA)のエージェント達が階段を降りてきた。全員靴を履いたままである。
見ず知らずの人間に部屋の中をじろじろ見られることは、本当に気分が悪い。しかしそれに抗議する術はなかった。

女性のエージェントが「10分以内に荷物を準備してパックしなさい」と命令してきた。
「10分なんかじゃできない、30分くれ」と僕が言うと、別の男性エージェントは嘲るような表情と強い口調で「だめだ、10分で用意しろ」と言ってきた。交渉できる状況じゃない。彼らにとって僕らの事情などは、全く取るに足らないものなのだ。

3人の子供たちはそもそも、なぜ家族でカナダに引っ越してきたのかを知らされていない。そんな彼らはこの時両親の表情を読み取り、この先に起こることを理解しはじめ、全員泣き始めた。僕はなすすべもなく、それを妻に任せようとしたが、妻は一点を見つめたまま呆然としていた。おそらくこの時、今後の子供達の事を考えていたのだろう。僕はじっと子ども達が泣き止むのを待っていたかったが、仁王立ちの男達の無言の命令に従わないわけにはいかなかった。

やがて妻は取り乱す事なく、泣きじゃくる子供達をなぐさめながら荷物をまとめるよう促した。同時に自分の荷物も準備し始めた。

僕は、もうここには戻ってくることはできないと聞いたので、リュックにMac Miniとキーボード、外付けハード、それと2、3日分の服をつめた。僕にとって生きていくのに絶対に必要なものなど、たいしてない。大変なのは妻の方だった。日本から所有物を全て持ってきたような状態に加え、カナダで手に入れた物も山のようにあった。この瞬間、引っ越しのための準備など殆どできていなかった。

僕はポケットに手を入れて思わず「あっ」と声を出しそうになった。先日手に入れたばかりのマリファナの小さい袋がポケットに入っていた。CBSAは警察ではないので刑事沙汰にはならないかもしれないが、余計なトラブルは避けたい。僕は「あー、うー、」などと言いながらひどくあせった振りをして、他のリュックの中身をあさるようにして、うまくポケットの中身をそのリュックに押し込んだ。エージェントはそこには大して注意を払わなかったので、うまくいった。

しかし、どうにもならないこともあった。飼い犬のプーキーのことだ。
僕らが犬を一緒に連れて行けない事は、聞かなくてもわかった。

プーキーは僕と妻がニューヨークに住んでいた1998年に、ノースショアアニマルリーグという動物保護施設からアダプトしたジャックラッセルテリアだった。この時に15才くらいになるので、もはや飛行機に乗せられるような年齢ではなかった。それに犬を日本に持ち帰るには、注射だなんだと少なくとも2週間くらいの準備がかかる。だから僕には、これがこの犬との今生の別れになる事がわかった。彼は自分の居場所の上で丸くなって寝ている。耳が遠くて、顔の毛も白ちゃけて、かなりの老犬だ。
「ごめんよ、プーキー」
僕はじっと彼の顔を見て、そして別れを告げた。

10分程経って、みな必要最低限のものだけの準備を終えた。
子供たちもなんとか自分のリュックに必要なものを準備したが、5歳になる下の子は子供用の小さなリュックにおもちゃを一杯につめていたので、衣服など生活用品に詰め替えた。こんなちっちゃな子が準備などできるわけがないのだ。
しかし、子供達に必要なものは、衣服などよりも「おもちゃや絵本」だったのだと、今になればそう悔いる。

それぞれのリュックを持って、家を後にした。
建物のエントランスの真ん前には、CBSAのロゴが入った2台の大きな車が停まっていた。1台の車に僕と息子達、もう1台に妻と娘が乗り込んで、僕らは連行された。

もう戻る事のない我が家には、さっきまでの生活がそのまま残されている。冷蔵庫の中身や食器類、本棚の絵本、やっと買えた楕円のテーブルと子ども達用の椅子。ベッドのシーツにはまだ温もりが残っている。プーキーは人がいなくなって静かになった部屋で、ふたたび朝寝をしているだろう。

2013年7月頃。この2ヶ月後、いろんなものを残してこの家を去る事になった。

トロント・ディテンション・センター

僕らは空港の近くにあるディテンション・センター(DC/収容所)に向かっている。窓の外のダウンタウンの街並がどんどん遠ざかっていく。連行される車の中で僕は、非常事態に追い込まれた隊長のごとく、今対処すべき問題を思い起こしていた。

収容所はどういう所か、妻に何か伝える事はないか、残りの荷物や犬を誰に頼むべきか、僕らのこの状況をまず誰に伝えるべきか。

これはつい最近になって知ったことだが、この時の車中で、娘はメモ帳に走り書きで妻に手紙を書いて渡していた。そこには、妻とともに一生懸命に取り組んできたアイススケートをこれからも続けること、どれほど自分が母親を愛しているかということ、離れていても心配しないで、ということが書かれていた。

やがて車は刑務所のように鉄条網を張り巡らした建物の敷地内に入っていった。トロント・ディテンション・センター。ゲートが開き、車がそのまま建物の中に入って、車を降りてすぐでも外に逃げられないような構造になっていた。

車を降りてからほんの数分間、家族がひとつになることができた。
妻と僕は簡単に「大変だと思うけど、よろしくね」「心配するな、しっかり面倒みるから」という感じの会話をして、その後全員でしっかりハグをして妻と別れた。妻は別の場所に連れていかれるようだった。笑顔で別れるという感じでは勿論なかったが、みな腹がすわったのか、子供たちは誰も泣いていなかった。

僕らは日本に強制送還されることがわかっている。ということは、妻は羽田空港に到着すればそのまま、検察当局の管理下に置かれる事になる。子供達と妻はこの先、少なくとも18ヶ月は離れて暮らすことになるだろう。その事をいまさら危惧してもしかたがない。なるようにしかならない。
僕はそう自分に言い聞かせ、再び開いたゲートの外に妻が消えていくのを見送った。

トロント・ディテンション・センター フェンスが二重になっていて、小さな刑務所のようだった

<次回、カナダ逃亡記 最終話 Pt.2> へ続く

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