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カナダ逃亡記#15:椅子男(チェアマン)との出会い pt.2

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前回の話:カナダ逃亡記#14

ハーバーフロントのゲットー

2012年6月の末、僕はチェアマンに会いに行った。場所はオンタリオ湖のほとりにあるビショップ・チュチュ通り。トロントのダウンタウンにはオンタリオ湖に沿ってハイウェイが東西に走る。そのハイウェイよりもさらに南は「ハーバーフロント」と呼ばれるエリアで、ヨットハーバーや新興のマンションが建ち並ぶ。屋外アイススケートリンクなどもあって、ちょっとしたデートスポットのようになっている。ビショップ・チュチュ通りはそのハーバーフロントの外れにひっそりとある小さな通りだった。

やっと日の暮れた初夏の午後九時、僕は約束の時間通り彼の住むビショップ・チュチュ通りに到着した。一歩入ったその通りは、近隣の新興マンションが並ぶ通りとは趣が違う。歩いている人の種類や、家々がひしめくように立ち並ぶ具合が違う。詰め込んだ感じ。そう、ここは「ゲットー」なのだ。

僕はかつて住んでいたニューヨークのハーレムを思い出す。ここトロントのゲットーはファミリー向けだとはあまり思わないが、居心地は悪くない。むしろこの雰囲気、僕は好きだ。トロントにもこういう場所があったんだ、と感心した。

トロント・コミュニティ・ハウジング

チェアマンの住む建物(日本のちょっと古いマンションのようなサイズ)には見覚えのある看板が取り付けられていた。TCH(トロント・コミュニティー・ハウジング)の看板だ。TCHはトロントの随所に集合住宅を運営して、低所得者に優先的に住む場所を提供している。何を隠そう僕と家族もこの時、ハイウェイを横切った所にある新築のTCHに移り住んだばかりだった。僕らはかなり広いマンションの部屋を低価格で借りていた。僕らのマンションもやはり(おそらく)低所得者の家族ばかりで、基本的にはカリブ系の家族、東ヨーロッパ系の人々、昨日アフガンから着いたばかりのような家族、そしてアフリカのソマリア系の家族が多かった。どこの家族も自国での戦争を機にカナダに渡ったような人々だ。

チェアマンの住むTCHの建物の前には真っ黒の高そうなベンツが停まっていた。この場所にふさわしくない、いや、むしろふさわしい存在。僕の住むTCHの駐車場内では、まっ金金の金ピカに塗装されたフェラーリを見た事があったが、いったいどんなDRUG LORD(麻薬王)が乗っているんだろうと想像したものだ。そのフェラーリの持ち主を見ることはできなかったが、もう間違いなくカリブ系の悪い人だったろう。そしてこの黒いベンツにも、きっとそんな人が乗っているんだろう。

ゲットーで黒いベンツを見かける時は、大抵悪そうな人が乗っている

いざチェアマンの部屋へ

建物入り口のドアで指定された部屋番号をプッシュした。しばらくして「ジャー」という乱暴なブザー音と共にドアの鍵がガチャンと外れ、僕は中に入ることができた。はじめて行く人の家はいつもどこかワクワクするが、今回はそこに緊張も加わった。もしチェアマンが怖い人だったらどうしよう。

はたしてチェアマンは笑顔で僕を迎えてくれた。
彼の部屋は決して広くはないが、独りものの男がくらすには十分な広さであった。
一般的な部屋と違う点は、床が教室や病室のようなハードフロアになっていること。車椅子での移動を容易にしている。あまりぬくもりの様なものは感じない。

今日僕がここに来たのは、チェアマンのドキュメンタリー撮影前のオリエンテーションのためだった。僕が撮りたいことと彼が撮ってほしいことのゴールは同じ方向をむいているか?
話しているうちに、彼はこの映像を自分が運営する会社の宣伝のように使いたいのだな、と思った。そういう始まりでもかまわない。僕はただ色々な時間を彼らと共に過ごして、少しでも彼らの生活を垣間みることができればいいと考えていた。

「車イスのハンディキャップを背負った黒人男性が、どうサバイブしているのか」
そんな金にもならないような話は、まずTVでみることはない。仮に、車イスに乗る障害者のドキュメンタリーがあったとしても、彼のような「元不良、いまも不良」みたいな人の映像は見た事がない。トロントにおけるシノギを削るショービジネスの世界で、彼のようなhandicapped(障がい者)がどのように仲間のリスペクトを得て、人をまとめているのか。僕はそこにとても興味があった。車イスだからといってなめられる事はないと思うが、他の誰よりもアクティブなパーソナリティでないとやっていけないだろう。

ヒップホップ 9つの要素

チェアマンのことを考える時に「ヒップホップ」のキーワードを外す事はできない。
トロントのジャマイカ系コミュニティー出身の彼は、子供の頃から十分にアメリカのヒップホップカルチャーの影響を受けて育ってきた。
そもそもニューヨークで70年代に誕生したヒップホップカルチャーは、特に音楽においては、ジャマイカ系移民は大いに貢献した。彼らの影響なくしては現在の姿はなかっただろう。
それくらいジャマイカ系移民とヒップホップは深い関係にある。

先生(The Teacher)と呼ばれるラッパーの大御所「KRS-ONE」によると、ヒップホップであるために必要な9つの要素として、
1. ブレイクダンス
2. ラップ
3. グラフィティ・アート
4. DJing
5. ビートボクシング

などがあって、さらに、

6. ストリートファッション
7. ストリートランゲージ(言葉)
8. ストリートナレッジ(知識)、そして
9. ストリートアントレプレナー(起業精神)
というのがある。

このヒップホップの要素のもと,
チェアマンは今までにどんな人生を送ってきたのか。

あるジャマイカン・カナディアンの物語

1974年、チェアマンはジャマイカ移民の両親のもと、トロント郊外のスカーボロに産まれる。
スカーボロはトロント近郊で最も移民の多い所で、多種多様な人種で構成されている。彼らは各々の出身国のモラルも全て持ち込み、そのためか犯罪も多かった。

チェアマンの父親はラスタファリアンでミュージシャンだった。母親はボブ・マーリーのバックコーラスで有名な「アイ・スリー(The I-Threes)」の一人と同郷の幼なじみらしく、彼らがトロントに来る際にはいつも同行していた。

チェアマンが2才の時に、父親がジャマイカ系移民の争いに巻き込まれ銃弾に倒れる。
それまではラスタの子らしくドレッドヘアーだったが、父親の死をきっかけに母親は息子の髪の毛を切ってしまう。もうラスタファリは実践できないということだった。

たまたまチェアマンは父親を早くに亡くしたが、多くのジャマイカ系の家庭には父親の姿が不在だ。
これは長い歴史の中で、ジャマイカの奴隷黒人男性が「動産」として扱われ、その結果、社会での色々な役割を女性が担ってきたからだというレポートがある。
かつてジャマイカの男達は家畜のように売り買いされ、何百年にもわたって父親としての役目を次世代に伝えることはできなかった。男達は女が子を授かるための「種」であって、父親の役目を担うことから除外されてきた。
僕は1994年にジャマイカに行ったことがあったが、実際に働いているのは女性ばかりで、男たちは木陰に座ってだべっていたりした。

はたしてチェアマンも父親不在の家庭に育った。
母親の厳しい折檻から逃れるために14才頃から半ば家出状態の生活を送っていた。同時期に近所の年上男性から「ドラッグをやらないか」とすすめられ、それ以来現在にいたるまで毎日かかさずマリファナを吸っている。

15才になる頃には、ドラッグの売人の手伝いを始め、恋人との間には男の子が産まれる。
16才の時には本格的にドラッグをさばいて生計を立てていた。彼らのような少年達にとって、「ドラッグをさばいてはいけない理由」などなかった。そんなモラルは誰からも教わっていない。まわりには常にそれを求めている客がいて、簡単に、あっというまに、その辺の大人の月給の何倍ものお金をかせぐことができる。いい暮らしができる。

しかし、いいことはいつまでもは続かなかった。
17才になったある3月の朝、彼の住む5階建て団地3階の玄関の扉が乱暴にノックされた。

「警察だ今すぐ開けろ!」

とっさに玄関とは反対方向のベランダに逃げるチェアマン、どうしても捕まるわけにはいかない。ベランダから下を眺めると、外には昨晩降った雪が白く積っていた。

逃げられる…

チェアマンはその柔らかそうに積った雪が優しくクッションのように自分を包み込むことを想像して、ベランダから飛び降りた。そして気を失った。
しばらくして我に返ると、彼は病室のベッドの上だった…

3月の雪は思ったほど積っておらず、彼は着地と同時に背骨と足の骨を折った。それ以来、下半身がパラライズド(paralyzed=麻痺)になった。

彼はここがターニングポイントだったという。
あのままドラッグの売人を続けていれば、きっと自分は死んでいただろう。実際に多くの仲間が死んでいる。
まわりの反応はというと、何か「ユニーク=特殊」なものとして彼の状況を捉えていたらしい。警察から逃げて撃たれて死んだり、売人同士のいざこざで刺されて死ぬような話はありふれていたが、高い所から飛び降りて下半身が動かなくなったという話には「へー、なんか違うね」程度の反応だったという。

その後、チェアマンは車イスの生活を始める。しかし今までまともな仕事などしたことはない。学校だって今から行こうとは思わない。
自分が今まで生きてきたやり方で何か金を稼ぐ方法はないか?

そこで彼は友達にもすすめられラッパーとして活動を始めた。どうしてラッパーになったのかと聞くと、自分は他の人よりラップがうまかったからだ、と回顧する。
車イスにのるラッパーは珍しい。しかし、ラッパーはそのラップのスタイルと言っていることの内容が全て。見た目は逆に珍しいほうがいい。

「アイアンサイド」という70年代に流行ったアメリカのTVドラマ(主人公が車イス)のステージネームをとり、活動を始めた。
かつて、アメリカンラップのスーパースター、ノトーリアスB.I.G. のトロント公演の前座も務めたという。

Ghetto Concept "Still Too Much"
(オープニングに出てくる白人は、かつて世界中で流行ったSNOW。彼はトロント・ノースヨーク出身)

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「まあ、それが俺の人生のハイライトだよ」
と、チェアマンはマリワナを燻らせながら話した。
その後はドラッグの売買には手を出さなかったが、銃の不法所持で刑務所に入ったりしている。
しかしこれからはミュージシャンを発掘して売り出したり、コンサートをプロモートする会社でやっていくという。

ドキュメンタリーの撮影を開始

「じゃあ、ちょっと車でその辺を走ろう。俺たちDisabled(障がい者)がどうやって運転するのかを見せてやるよ。」
僕たちは外に出た。チェアマンが向かった車は、ああ、やっぱり、あの悪そうな黒いベンツだった。

「これから新しいドキュメンタリーの撮影が始まる。」
この先2ヶ月後にトロントで行われる“カリバナ”というカリブ系の大きな祭りを最終日と決め、僕とチェアマンの共同作業が始まった。
僕にはこの時点でどういうものが撮れるかということは、はっきりしていない。でも少なくとも、自分は楽しめるだろう、そう思いカメラを回し始めた。

<カナダ逃亡記#16>に続く


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