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カナダ逃亡記#16:友人たちとの別れ

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前回の話:カナダ逃亡記#15

撮影は始まった

チェアマンとの撮影の日々が始まった。時間のある限り、僕は彼とその仲間たちと一緒の時間を過ごす。おのずと彼らの生々しいハードな日常が映像に記録される………はずであったが、実際には、そう簡単にカメラのファインダー越しにグっとくるものには出会えない。だからとにかくまめに、彼らの行き先に同行させてもらった。

ある時は、トロントから北に100キロ程上がったバリー(Barrie)という町に、ザ・トラジカリー・ヒップ(The Tragically Hip)という、カナダでは超ビックなバンドのコンサートを観にいった。コンサート主催者が、プロモーター仲間のチェアマン達を招待してくれたのだ。

会場についてみると、そこは見渡す限り、20代〜30代くらいの白人だけだった。会場にいる「非白人」なのは僕らだけ。僕は普段、多人種が織りなすトロントの町の風景を見慣れていたので、この光景にはちょっとした驚きだった。

他のお客さんにとっても車イスのブラザーは少し「異質」だったはず

確かに僕らはこの会場ではちょっと浮いた存在だった。しかしだからといって何か変な空気を感じるわけでもない。アメリカの南部に行った時に感じたような、人種間の隔たりみたいなものは感じにくい。そこはカナダだ。

R&B/ヒップホップ系のコンサート以外にも顔を出すのか?と、チェアマンの連れのマーヴィンに聞いてみると、「自分たちは金になることなら別に音楽や客層にはこだわらない」、とのことだった。実際に彼らはこの頃、アコースティックギターを弾く18歳の白人女性シンガーのプロデューサーをしてた。

ジャマイカン・カナディアンの日常

誤解を恐れずに言うと、チェアマンを通して知り合った多くのジャマイカン・カナディアンは基本的に全員「不良」だった。愛すべき不良たち。いつでもどこでも大麻をすっている。

家族や仲間が刑務所に入ることは日常茶飯事で、彼らはそこに諦めのようなものを持っている。金を稼ぐには結局ルール外のことをしないといけない。

チェアマンに僕の家族が「刑務所行」を逃れてカナダに来た話をすると、ふーん、そうなんだ、程度の反応だった。そんな話は彼のまわりではありふれた話だった。実際に、チェアマンの腹違いの弟が急に姿を見せなくなったので理由を聞いてみると、「ジェイル(拘置所)に入っていて暫く出てこれない」とのことだった。

アメリカから来たDJ DRAMAの撮影時のひとこま。正直、彼らが何をしゃべってるのかよくわからない時も多々あった。

また別の時、チェアマンが少年時代の一時期を過ごしたレックスデイル(Rexdale)というトロント郊外の町を訪れた。

この町の一画は、かつてジャマイカ/カリビアン系の人々が主な住民であったが、今はアフリカ系の移民に塗り替えられている。数週間前に、この住宅地のど真ん中で銃による殺人事件が発生した。

現場には枯れた花が供えられていた。時が過ぎて住む人々の出身が変わっても、昔と同じような事件は繰り返される。それがゲットーなのだ。

レックスデイルにて。アフリカ系の若いブラザーが撃ち殺された。

 

ナイン・ナイツ (Nine Nights)

撮影が始まってから2ヶ月程たったある時、マーヴィンの姉が亡くなるという事件が起きた。詳しい事はわからないが、持病の薬の処方を医者が間違えたとか、ありえないような事が原因で急に亡くなってしまった。

「撮影はしばらく待ってくれ」とチェアマンに言われたが、「こういう時こそ撮らしてくれ」と願い出て、撮影は 続行の形をとった。

マーヴィンの姉の葬式にて。棺桶の右前を持つのがマーヴィン。左前のドレッドは、ジャマイカらから葬儀のために渡加したキメキメのお父さん。親族はみんな白い服を着ている。セレモニーではキメるのが流儀。

マーヴィンの姉が亡くなった後、「ナイン・ナイツ」というイベントが彼女の母親の家で行われた。これはアフリカに起源をもつ、死者を弔う古い習慣だ。

人が亡くなってから9日後、親族や友達が亡くなった人の家に集まり、みんなで飲み食いする。ナイン・ナイツはジャマイカをはじめとするカリブ海全域の奴隷の子孫たちに受け継がれている。楽しくパーティーをするわけではないが、亡き人がもうこれ以上「この世からの苦しみ」を受ける事がないことを皆で祝う。

ナイン・ナイツでは「100プルーフのジャマイカン・ラム」を飲むことが慣わしになっている。アルコール分は50%だ。おかげで、ヘロッヘロに酔っぱらってしまったラスタマンがいた。彼は普段は飲まないのだろう。

かつてこのナイン・ナイツでは、亡骸を入れた棺桶を皆が見えるように壁に立てかけ、それを囲みながら飲食をしたらしい。僕はひそかにそのシュールな光景を期待していたが、さすがにこの近代的なカナダでは行われなかった。

ナインナイツの夜。手には家族の手料理とラム酒を持っている。左の真っ黒い人がセイジで背中をむけているのがマーヴィン

その場に居合わせるのは家族や親類、近しい友人たちだけだ。

マーヴィンが僕に、「おまえもファミリーの1人だな」と言った。
うれしい反面、なにか居心地の悪さも感じた。

実は、僕はこの時点でドキュメンタリー撮影のポイントがはっきりしなくなっていた。何を撮っていくべきか?どこにフォーカスしていけばいいのか?

たんたんとした彼らの人生の表面をカメラで切り取ることはできる。しかし、彼ら一人一人が抱えた葛藤や人生のドラマはまだ何も撮れていない。俺はこの人たちと仲良くなるために、ここに来ているんじゃない。

「憧れ」への小さな別れ

僕は撮影すればするほど、彼らに疎外感のようなものを感じていた。

撮影当初は、肌の色も育った環境も全然違う僕らが「ヒップホップ」という共通語を通じて、「何をお互いに語りあることができるのか?」ということに思いを巡らせていた。ヒップホップさえあれば僕らは理解しあえる、と思っていた。

しかし実際には、自分とは多くの点で価値観が違う人達なのだ、ということを知る。

ある朝、チェアマンと二人でマーヴィンの家を訪れた。
居間の床に、映画「スカーフェイス」のポスターが額に入って置かれているのに気付いた。アル・パチーノが好きなのか?とマーヴィンに聞くと、「スカーフェイスはヒーローだ」という答えが返ってきた。

「スカーフェイス」は1983年にアメリカで公開されたギャングスター・ムービーで、言わずと知れた名作だ。アル・パチーノ扮する「トニー・モンタナ」がマイアミで麻薬王へと登り詰め、やがて崩れていくというストーリーだ。多くの映画ファンにとっては、その過激なストーリーとパチーノの鬼気迫る演技が、強く印象に残っていると思う。

無一文のキューバ移民の若者(トニー)が、自分の才気と度胸で登り詰める。仲間と家族を大切にし、非合法とか刹那的とか、その結果最期がどうであろうとか、関係ない。今がよければいい。全てはMoney、Power、そしてRespect。

映画としてはとても楽しめるが、僕にとってこの主人公の破滅的な生き様は決してロールモデルにはならなかった。ヒーローになどなり得ない。僕のような一般的な日本人にとっては、どこか遠い国の話のようだった。

だがこの映画は、ヒップホップに生きるアメリカやカナダの(主に非白人の)若者の内では、「教科書のような位置づけ」にある。

実際に多くのヒップホッパー/ラッパー達に影響を与えてきた事は、ネット上の記事でも読むことができる。「自分もトニーのように生きようとしていた」と。

その事を知った時、僕は少なからず衝撃を受けた。少年の頃からヒップホッパ―を自称して、青年から中年に至るまでそれを堅持してきた自分の根底を揺るがすような事だった。

「俺は今まで自分のことをヒップホップだと思っていたけれど、俺のヒップホップとは一体なんだったんだ。」「結局、俺には真のヒップホップを共感することなどできないのではないか」

本当のヒップホップかどうかなどは、僕の今の生活に影響を与えるようなことではない。どちらかというと、どうでもいい類のことだ。それでも、まるで「あの時の俺たちの友情はウソだったのか?!」と、かつての親友にでも言いたくなるような感情が僕の心にわきあがった。


昼前にも関わらず、マーヴィンはヘネシーをショットグラスで僕に渡すと、こう言った。
「コウショウ、俺たちには気にするものなど何もないんだ。金を稼いで、イイ女に出会って、イイ音楽が聞ければ、それでいい。」
それは確かにいい。でも僕には、それを貫く生き方などできない。

同じものを観て聴いて感じてきたつもりだったが、自分にとってヒップホップはただの憧れだったのだろう。

北米に住む「黒人」たちには昔から親近感を持っていた。しかし結局のところ僕は、彼らと同じ立場で同じシステムの中で人生を歩んできたわけではない。日本というぬくぬくとした環境で、システムに対して何の疑いも持たずに暮らしてきた。

心の中で、「昔からの親友」に小さく別れをつげた瞬間だった。

ドキュメンタリー撮影の終焉

その後も撮影は何度か行われたが、僕は決定的なストーリーを見いだせず、撮影はエキサイティングさを欠いていった。やがて秋も深まり、ドキュメンタリー撮影もそろそろ終着点を見つけなくてはならなくなった。

スカーボローにて。チェアマンはここで多感な時期を、マーヴィンや他の仲間と共に過ごした。

その後、ドキュメンタリー撮影のクライマックスに設定した、あるアメリカから来るDJのコンサート撮影は、アーティスト自身が「ダブルブッキングで来れない」という、馬鹿げた理由でキャンセルになった。

僕らの撮影は完全に尻窄みになった。僕のほうからチェアマンに連絡を入れても、なんの返事もないという状況が続き、とうとう僕も撮影を断念した。向こうも興味を失ったのだろう。僕も彼らの興味を持続させることはできなかった。

僕の2012年のドキュメンタリー撮影は、そしてジャマイカン・カナディアンたちとの関係は、そのようにして終わりを迎えた。

<カナダ逃亡記#17>に続く

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