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カナダ逃亡記#13:トロントの切ない空

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安定しない日々

2012年が始まった。もうトロントに来てから約2年が経ったことになる。子供たちの日常会話はすっかり英語になり、親子の会話も英語が半分くらい混じることになってきた。小学生と幼稚園生を抱える家庭なので、生活のリズムはすっかり一般的な幼い子を抱える家庭のそれになっている。

しかし、自分たちはあいかわらず「難民申請者」というステータスで、僕はなんとも腰の落ち着かない日々だった。

日本人として日本にいてもあまり経験することはないが、難民申請中のような「ステータスのはっきりしない立場」だと、どうにも仕事を選ぶ事も難しくなる。面接でのっけから「ウソ」をつかないといけなくなる。一度はどこかの運輸会社に採用がきまったが、来年ここにいられるかどうか判らない状態だったので、お断りした。

難民申請の公聴会の準備は順調

この夏にはIRB(移民・難民審査委員)の公聴会を予定していた。僕らのケースを受け持つモルデカイ弁護士はとってもよくやってくれていた。僕らの公聴会での争点は次のようなものだった。

妻が日本で受けた判決は、犯した罪の内容からして、不当に厳しい処罰がくだされている。
・これはカナダの似たようなケースに照らし合わせても厳しすぎる。
・最高裁への上告では、その道の権威(摂食障害や依存症の専門医、日本で最も名の知られている医者の1人)からの意見書が提出されたが、それは全く鑑みられなかった。

他にもたくさんの資料を公聴会の為に準備した。
日本での刑務所の実態、日本で起訴された事件の異常に高い有罪率。これはつまり、起訴されたらまず有罪ということだ。

刑事事件に縁のない人にとっては、遠くの国の戦争のような話だ。「しっかりとした対応をしてほしいけど、自分の生活にはまず関係のない事。」
僕もそうだった。

しかし、妻が刑事告訴されることによって、そのやり方、進め方などを知り、また他の国のシステムなどと比べてみると、実にひどいやり方が進められている。ホリエモンの事件の時のやり方もそうだったけど、検察なんてホントに敵にまわすと恐ろしい。裁判官なども、決して公正な司法のシステムで行われているとは思えない。検察側と裁判官はがっちりつながっているとさえ思った。

日本の司法制度のあれこれについての書類を山ほどコピーして、モルデカイ弁護士は公聴会の準備をしていった。

ただこの弁護士、どこか頼りない。なによりも勝ち気な所がない。カラッとした「明るい自信」が感じられない。

たしかに僕らのケースは今までにないケースだと思う。
「日本から難民申請?冗談でしょ?」と言われることもしばしばあった。

しかし公聴会での争点を見つけた以上、弱音は吐かないほうがいい。
医者も弁護士も、もしもだめだった時の事を思ってか、「このケースは難しい」みたいなことを言いたがる。

これまではうまく行っていた。難民申請が通ったことも、リーガルエイドで弁護士を雇えたことも、僕らに全く勝機がなければ叶わないことだった。

とにかく、前向きでいこう。ダメだった時は、またその時考えよう。何よりも、日々やることが結構あるので、ダメだった時のことなど考えている余裕がない。

子供の送迎とバイトの日々

僕のやる事というのは基本的に子供の学校の送迎と「バイト」だった。そして放課後の子供の習い事の送迎。

トロントでは子供が10才になるまでは、親が登下校に付き添わなくてはならない。これは結構大変だった。家計に余裕がある人の大半はフィリピン人のナニーを雇う。下校時刻の校庭には、ナニーで構成されるフィリピン人コミュニティーが出来上がっていた。

僕は、バイト以外は基本的にいつも家にいたので、子供の送り迎えを毎回していた。

それが終わってから、車で30分くらい走ったダウンタウンにあるフトン(FUTON)屋で配達のバイト。
フトンや家具を売る店で、客が購入したものを家まで届けるバイト。時々その家具を客の家で組み立てる。このバイトはトータルで2年程やった。全部で1200軒近くのトロントニアンの自宅にお邪魔した。

冬も近くなるとトロントはいつもこんな天気

人種のモザイク トロント

トロントはおそらく地球上で最も「外国からの移民が多い町」だ。姓名もいろんなものがある。殆ど読めない聞いた事もない名前も、いくらでもあった。また、どういうわけか、英語表記にすると笑ってしまう苗字の人も少なからずいた。

女性器を意味する「Cunt」さんや「Sperm」さん。学校の女性教師でとっても気難しそうな方がいて、その苗字が「Moody」さんだったのには笑った。気分屋さん、という意味だ。

僕は人に興味があるので、フトンを運んだ先ではいつも客に話しかけた。その人がどんな仕事をしていて、家族はどこから来たのか。どんなバックグラウンドを持っているのか、可能な限りおしゃべりをした。
おしゃべりをして、仲良くなればチップも弾んでくれるかな?と甘い期待をかけたものだったが、それは殆ど関係なかった。
くれる人はくれる、くれない人は全然だめ。総じて皆さん、くれない。

本当に金に困っている時に20ドルのチップをくれたお客さん。感謝を忘れまいと、撮った。

印象に残るトロントニアン

基本的にはフトンの配達なので一度しかあわないが、それでも印象に残っているトロントの人々はこんな感じだ。

・つい先ほど、暴力をふるう夫から新しい住まいに逃がれてきた、いろんな事に疲れきってしまった中年女性。(本人談)

・ドラッグの中毒者のような風体で、市から提供されている住居で大きな犬とくらしている女性。起きてるのか寝ているのかわからない。部屋はうすぐらく、とても散らかっていた。

・美人な二人の白人女性。いわゆる「片付けられない女達」のようで、部屋中にゴミや紙幣、下着などが散らばっていた。二人は同じベッドに寝そべっていた。

・簡素で清潔な部屋に住む、ガンで余命数ヶ月と宣告された、見るからにやせ細った初老の白人男性。とても紳士的だった。

・重度の自閉症の白人青年で、ほとんど目を合わさずに動物のような動きをしていた。市からの介助人が3人もついていた。サインボードで介助人を通して会話をしていると、全く普通に会話をすることができた。これはとても良い経験だった。人を見た目で判断しては決していけない。

・両腕にびっしりイレズミを入れた、半裸の白人女性。

・まるでミュージックビデオにでも出てきそうな、とても荒廃した部屋に住む青年のアパート。真っ暗な部屋の床に置いたTVだけがついていた。床にはコンクリートの破片などが散乱していて、とても人の住むような所ではない。この家でソファーを組み立てるときは、初めてこちらから「お断り」しそうだった。ハンマーでふいに襲われそうな雰囲気。
しかし話してみると、結構会話は成立した。「何か問題でもあるのか?」とたずねると、自分は精神異常だと市から認定されていて、このように市の補助だけで生活している、仕事はしなくてもいい、という。
ソファーを組み立てている最中、いきなり隣の部屋からヒゲが伸びきった「ガリガリの浮浪者」が出てきたのには度肝を抜かれた。この浮浪者がおもむろに僕の作業を手伝いだした。無言でしかもよく働く。聞くと、この青年の父親だった…

もちろん、お客はこんな「訳あり」な方々たちだけではない。普通の人々が大半だったけれど、中にはカナダでは有名なジャズドラマーなどもいて、後日撮影させて頂いた。

美しいトロントの空も心は満たせない

トロントの北のシムコー湖に配達に行った帰り、運転しながらジョイントを吸っていた。図書館で借りてきたジェファーソン・エアプレーンのCDを爆音で聴いている。
一直線の高速道路。どこまでもどこまでも広がる北米の乾いた空。太陽が沈むころには片方の空がオレンジやパープルに染まる美しい空。

この陸地をどこまで行っても自分はこの国から出ることができない。日本には帰れない。アメリカにも行けない。
「一体自分はここで何をしているんだろう…」

しかし、そんな疑問を家に持ち帰ることはできない。
次の日には、子供たちの新しい一日が待っている。だから僕の個人的な気持ちはハンドルを握っている時、車の中だけにとどめておかなくてはいけない。

配達のバイト中、運転しながらよく空の写真を撮っていた。
美しいから撮ったんじゃなく、わが心の行き場のない虚しさをそこに納めようとしていたのかなと、今は思う。

トロントの空はとても広かった

<カナダ逃亡記#14>へ続く


 

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