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『あの時に戻りたい!』の正体

『あの時に戻りたい』

誰もが一度は思ったことがあるだろう。

僕もある。

「あの時の、自分に戻れたら、あんなことや、こんな事もできたのに…」
「どうして過去の僕は、あんな判断をしてしまったのか…」
「昔の楽しかった、あの頃に戻りたい…」

なんて気持ちになったことは数え切れないほどある。

しかし、思う。
無駄だと。

いくら今を嘆いて、過去に戻りたいからと言っても、時間は絶対に戻らない。

「なにを今更!そんなのわかっているよ!!」

と思われる方も多いと思う。

そう、時間が戻らないのは、子供だってわかる。
しかし、思うだろ。あの頃に戻りたいと。

どうしたって、過去には戻れないのに、どうして僕たちは、

『あの時』

に戻りたがるのだろうか。

『あの時』の正体

漠然と僕たちが思う、『あの時』とはなんなのか。

あなたが思う、あの時とはなんだろうか。

僕が思うに、『あの時』というのは、人によって、2種類に分かれると思う。

  • 『具体的』なあの時

  • 『抽象的』なあの時

具体的なあの時は、比較的分かりやすい。

・小学生の、なにも悩みがなかった時期に戻りたい!
・高校2年生の、文化祭の時期に戻りたい!
・大学1年生の、初彼氏との時期に戻りたい!

なんていうのはいずれも、具体的なあの時だ。

「あの時に戻れたら、幸せ!」

と思うのが、具体的なあの時だ。

では抽象的なあの時とはなにか。

抽象的なあの時とは、

・学生時代にもっと勉強しておけば良かった…
・若いうちに結婚しておけば良かった…
・もっと早く転職しておけば良かった…

なんてのが、抽象的なあの時だ。

「あの時に、選択を間違えた!」

というのが、抽象的なあの時だ。

こうやってあげてみると、『具体的なあの時』と言うのは救いがある。

なぜなら、具体的なあの時を思って、懐かしむのは、思い出を楽しむのと一緒だから。

「あの時は楽しかったなぁ…」

なんて、思い出にふけるのはいいだろう。
今の人生は、『あの楽しかった日々』を作り出すために、生きていると言ってもいい。

だから、『具体的なあの時』はまだ、救いがあるのだ。

問題は、抽象的なあの時だ。

抽象的なあの時は、抽象的であるがゆえに、救いがない。

抽象的なあの時は厄介

抽象的なあの時は、思いの外、厄介だ。

なぜなら、抽象的なあの時に戻りたいと思うのは、今の自分が本当の自分だと思っていないから。

「あの時に戻れれば、今の僕はこんな染みったれた生活をしていないのに…」

なんて今の自分を否定して、過去の自分に戻りたいと願う。

前提条件として、絶対に時間は戻らない!

というのは、すべての人が理解しているはずなのに、抽象的なあの時、というのは、その前提条件すら抽象的であるかのように、思考をぼやけさせてしまう。

思考がぼやけたままだと、今の自分は自分じゃないと言う気持ちも一層強くなる。

今の自分は、紛れもなく、今の自分だ。
どうしたって、今の自分は、今の自分にしか変えることはできない。

そんな当たり前が、抽象的なあの時に戻りたい、と願うことで、ぼやけてしまうのだ。
抽象的なあの時は、今の自分をぼやけさせる。

なので、『あの時に戻りたい』と願うのであれば、具体的なあの時に戻りたい、と思っていたほうが、まだいいかもしれない。

合理的に今を生きる

『あの時に戻りたい』なんてのは合理的ではない。

なぜなら、『あの時』なんて絶対に戻れないから。
そんな絶対に戻れない、『あの時』に思いを馳せていても、意味はない。

やれることは、今、目の前にあるタスクだけだ。
目の前にあるタスクに集中して、取り組むことが、結局一番合理的な方法だし、それがいずれ、将来の自分のためになる。

というか、それしかできない。
僕たちができることなんて、今、目の前のタスクに集中することだけだ。

シンプルだ。
答えは結局シンプルだ。

結論

『あの時に戻りたい、は非合理的だ』

でした。

あなたが思っている『あの時』は、思い出だろうか、それとも後悔だろうか。
もしそれが、後悔であるのなら、今すぐそれは非合理的だと理解しよう。

多分、そんなところからだから。

ということで、毎日行き当たりばったりの、このnoteの執筆も、今に集中することで、なんとか切り抜けられました。

引き続き、次の目の前のタスクに集中することにします。

おしまい。

サポートされると、僕が喜びます。僕が喜ぶと、文章のノリがポジティブになります。