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最近の生きてて思うこと

 今日で異性とチョメチョメした最後の日から160日が経過した。22週と6日。月換算にすれば、5ヶ月と7日。あと一ヶ月余りで半年に手が届くという。昔の私からしたら考えられないことだ。まあ、届かなかったわけだが。

 厳密には159日で記録は止まった。

 私はこれをいま、デリヘル嬢にお世話になったイチモツをぶら下げながら書いている。(パンツは履いている)
 久々に突如として訪れた、あの突き上げるような欲動。昨日の夜半すぎには感じてすらいなかったはずの欲求が、まるで159日の過去などなかったかのように、強靭に思われた意志は、あっけなく霧散した。

 まあよいのだ。(性格はともかく、)嬢にはよくしてもらったし、なにより気持ちのよいひとときを堪能できたのだから。大枚をはたいたにもかかわらず、後悔というものがない。むしろ、価格に見合った満足感だったといってもよい。

 とはいえ、私が通常デリヘルユーザーの日常に戻るのかというと、そんなつもりはない。やはりなんというか、この気持ちよさには底が見えてしまっているというか。当然だけれど、恋仲のそれとはまったくの別物。
 性感帯を舐めてもらっている最中、「いまなに考えてるの」と聞くと、「『無』ですね」と返されて笑ってしまった。

ーーと、そんな話はどうでもよいのだ。私が今日こうしてパソコンの前に座って、集中力を高めながら書こうとしているのは、いたって真面目な話。それは、読後感想というか、人の考えに触れたことで、いままで心の深海に沈んで、砂に埋もれかけていたような、心の奥に閉じ込められていた本音(のようなもの。本音なのかどうかは断言できない。が、きっとそれでいい)についてだ。

 その触発された本というのは、本というかZINEであり、もとはブログを集約して加筆されたものなのだけど。『35歳からの反抗期入門』というタイトルの本。タイトルにこそ「反抗期」と付いているが、私としては、こんなやさしい(穏やかな?)反抗期もないだろう、と思っている。しかし、このタイトルが付いている理由も頷ける。きっと、反抗期を経験しなかったという彼女にとっては、大きな意味を持っていることは、本書を読めばわかる。

 いまからここにつらつらと綴っていくつもりの、まとまりのない思索は、決して彼女がそうと述べていたわけではない。もちろん、重なる部分もあったり、私のほうが過激だったり、荒削りだったり、稚拙だったりする。「そんなことについて一言も触れていない」ということについても、ひとりでに言及したりするかもしれないが、それらはすべて、彼女とは無関係であることをはじめに断っておく。ほとんど読者もいない過疎ブログにこんな断りはそもそも必要ないのかもしれないが、個人的なけじめとして書いた次第。(そのくせ引用は多用するかもしれない。だからこそこう断ったのかもしれない)

 ただ、こうして自分の心の声にきちんと耳を傾ける素振りを、まずはポーズからでもいいからチャレンジしてみようと思わせてくれたのは、ほかでもない、著者である碇雪恵さんの文章のおかげだと思う。だからこそ、本書の名前を出したといえる。

 ではなぜ、触発されたのか。彼女の思索は、私の本音の部分を振動させる呼び水となったのか。

淀んだ瞳が語るもの

 どんなに社会を厭世的に捉えて生きていようとも、私たちは社会の一員として生きている。そんなつもりはなくとも、大きなものに集約され、同意はなくとも同意と見做されてしまう社会の決まり事に、いちいちNOとは言っていられない。その数はあまりにも多すぎるし、仕事だってあるし、享楽にだって耽りたい。社会問題に常にアンテナを張っておくことは、一個人のキャパをあきらかに超えている。

 だけどそのことは、確実に私たちの心を削りに来ていて、どんなに表面的には平気な顔をして生きていても、本当の本音の部分では、自分を騙せない。それが溜まりに溜まると、有象無象の社会現象として、じわじわと表出する。(もちろん、私たち個人にも、ストレスという形で蓄積されている)私にはそう感じられる。

同意したつもりはないけれど

「わからないことをわからないなりに言葉にしてみる」「わからないことを、『わからない』と言い、少しそのことについて考えてみる」

 これは簡単なようで、非常に難しい。大人に限った話ではなく、大人や社会に迎合してしまう子供も例外ではない。

(前略)正しさがネットを吹き荒れるこのごろはなおさらそう思う。何かを思っても、素早く心の中の他者からツッコミが入る。自分の思いを自分のなかですら大切にできない。

P87

 「正論」っぽく見えることや「断言」されたことは、たとえそれが多くの人の心にもやもやとした疑問符を浮かべるものであっても、勢いに押されてしまい、「反対する」ほど、確固とした意見ではないから、と、態度保留にして口を噤んでしまう。そうしているうちに、それがある種の「是認」となってしまう構図は、世の中によく見受けられる。相手を黙らせる言葉。「反対するなら代案を示せ」「嫌ならこの国から出ていけ」「そんなに悩んだって仕方がないじゃん」

 だが、そういう誰にでも再利用しやすい、組み立てられた言葉は、それを発した本人の気持ちはおろか、物事の本質を覆い隠していることが往々にしてある。
 「わかりやすいもの」の影には、それが作り上げられる過程で切り落とされた「端切れ」がたくさん落ちている。その「端切れ」はなかったことにされるが、存在している以上、「見ないこと」はできても、「ないこと」にはできない。「端切れ」は、明瞭な声こそ持っていなくとも、たしかに明滅はしている。それでも無理矢理「ないこと」にしようとすると、必ず個人や社会のどこかに綻びが生じ、なんらかの形でしっぺ返しがくる。ちょうど私たちが、現在の政治にうんざりしつつも、明確な論理でそれらを一つ一つ諭すことができず、心が日毎荒んでいくのと同じように。

「正しい言葉」への漠たる不安

 SDGsの目標を筆頭に、「多様性」や「ジェンダー平等」「差別をなくす」「地球のためのエコ」などの勇ましい言葉が闊歩している。このことに違和を唱えれば、「変わった人」として無視されるか、「なぜ反対するのか」という喧嘩腰の言葉が聞こえてきたり、「逆張りおつ」のような冷笑を返されたりすることは、想像に難くない。

 お言葉だが、そういう反応を示す人たちよりは少なくとも多様性やジェンダーや差別やエコについて考え、学んできた自負はある。

 それを踏まえて。そもそも、100%同意を得られる主張なんて、あるはずがない。と私は思う。それはなにをテーマに話すにしても、大前提ではないのか。それがたとえ「平和」という言葉一つとってもそうだ。というと、「じゃあ戦争してもいいのか」という極論に加工した言葉を返してくる人もありそうだが、私が問題にしたいのは、白か黒かではなく、グラデーションの部分だ。

 社会も人間も、二択や三択の有限の選択の中で生きているわけではない。にもかかわらず、「正論」の持つ力に引っ張られ、「賛成か、反対か」に集約しようとする力学がはたらく。グラデーションを持った曖昧なものはいつだって面倒くさいし、気持ちを不安にさせる。安心・安全・安定を生存戦略としてきた人類(こと日本人)にとって、それはいたって普通の反応なのだろう。だからこそ、曖昧模糊とした意見や態度には本能的にイライラさせられる人が多く、彼らに「口を挟むな」と言われればすぐに押し黙ってしまうのも、本能に刻まれた印籠を、両者が拝まされているからかもしれない。

あるときは妙に露悪的だったり、ある時は妙に相手に合わせたり。そうじゃなくて、自分が思っていることを普通に言えるようになりたい。そのためにはまず自分の気持ちを整理して把握しよう。そんな感じだったんだと思います。

P5

 彼女が日々、ブログに書き綴ろうと思った理由は、自分の気持ちを棚卸しして、整理することだったようだ。たとえ整理できなくても、一度じっくり見つめるだけでもいい。答え合わせや間違い探しをしているわけではない。自分のほんとうの気持ちを、「いまはそう感じているんだね」と自身で認めてあげること。それができないから自分や相手を大切にできなかったりするのかもしれない。彼女の思索の軌跡を通して、そんなことを私は思った。

(前略)なんかそんなふうにわがままばっかり書いている気もしますが、正直な気持ちだから仕方ない。それどころか、わがままを一旦良し悪し判断せずに見つめたことが自分を卑下しなくて済むようになった一つの理由じゃないかと思います。

P7

「変化」「適応」という言葉の罠

「時代に合わせて変化・適応すること」は、人として当然のとるべき戦略・行動だ。生き残ってきた人類はみなそうして生きてきたし、あのダーウィンだってそう言っている。……みたいな言説をよく耳にするが、私はそもそもこの論理が苦手というか、「私の生存そのもの」を否定されているような感じがして、居心地が悪い。脅かされる。静かに腹が立つ。(※今調べると、そもそもダーウィンはそんなこと言ってないらしい……→https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000284924

 いまザッと検索しただけでも、この誤った「ダーウィンも言ってる『適応説』」を嬉々として引用しているのは、ビジネス礼賛自己啓発促進日々成長労働資本教が出資しているようなメディアと、それらを信奉する個人ブロガーのようだ。

 これらのメディアや信者でなくとも、昨今の社会はそういう言説を流布し、「目まぐるしいテクノロジーの進化」についてこられない者は、淘汰圧にさらされますよ、といった風潮がある。

「価値観をアップデートしましょう!」という掛け声はよく聞くし、自分も記事を書きながら表現に困った結果つい手頃な場所にあるそんな言葉を選んでしまうことがある。だけど、自分の育った価値観をそんなに簡単に捨てられるものだろうか、とも常々感じる。

P68

「AIによって、無くなる仕事」みたく、多くの人の不安を焚き付ける言葉もその典型例だ。この言葉の背後には「適応しなければ、あなたみたいなのはこの先、生き残れませんよ〜」という残酷なメッセージが見え隠れする。

 人々がこうした報道に憤りを憶えたり異論を唱えられないのは、「自己責任論」が、一人一人の精神に強く植え付けられ、すっかり根を下ろしてしまっているからだろう。

 だから私はこうした風潮には断固として反対したい。なぜなら、かつて「プログラミングがさっぱりわからず、ついていけずに挫折した私の苦い経験」が想起されるからだ。

 はじめて飛び込んだプログラミングの世界。「努力次第でどうにでもなる」と、エンジニアの諸先輩方やSNSや個人ブログで発信される言葉を固く信じ、プログラミングに取り組んではみたけれど、一年かけてもなお、最初の一ヶ月からまるで成長が見られないままやむなく辞めた。もちろん、個人的な努力不足というのは認める。なにより周りにいた人らは、(おそらく、)休みの日でさえ勉強を惜しまず、むしろコードを読むのが好きでやっているような人たちだった(「それは自分のレベルに合った会社選びに失敗したからでは?」という意見には頷きかねる……。本当に小さな会社だった。)し、私はといえば、一応机に向かいはするものの、躓いてばかりでいっこうに参考書が進まず、進んだとしても、復習のためもう一度戻ってくると忘れている。成長速度、理解度、ともに亀の歩み。もともと学生の頃から勉強が得意ではないし、成績も常に中の下の下、くらいだった。(個人的には努力したつもり)
「それは学習のやり方が悪いのでは?」と言われればその通りなのだと思う。だが、それも「(学習のやり方を見直す)努力不足だから」という言葉に回収されるのだろうか? だとしたら私は、怠け者の努力不足野郎でいい。自分の人生の時間(ほかにやりたいこともダラケたい時間も)を削ってまで、プログラミングもとい、仕事に心血を注ぎたいとは思えない性格なのだから。(とはいえ、「自分の学習の仕方が悪いこと」に気付き始めた時期もあって、そのときはそうした「学習の仕方」「ロジカルシンキング」「自己啓発」といった本を読み漁ったりもした。したのだが、実務の成果につながることは、あまりなかった。そこでまた私は挫折を経験している。ようするに、根本的に「学習」する能力やセンスがポンコツなのだと思う)

 仕事のことを考えるたび、「出来損ない」という言葉が脳裏に浮かび、それが私を苦しめた。休日さえ心から楽しむことはできなかった。一年経って言われたのは「これ、一ヶ月目で出来ててほしい初歩の初歩なんだけど……」という、温厚な上司からの絶句の言葉だった。私はとてもショックを受けた。パソコンのキーボードが、滲んでぼやけた。

 さて、こうした経験を持つ私に、あなたはまだ次の言葉をかけるのだろうか。

「適応しなければ、あなたみたいなのはこの先、生き残れませんよ」

 だとしたら私は、人生終了なのだろうか。
「そうだ」というのなら、私は哀しいし、この社会もあなたのことも、憎む。

「紳士的な男性の振る舞い」について

 私は過去記事で、「男の優しさ(紳士的振る舞い)は、ポーズにすぎない」ということについて、そのメカニズムを仔細に書いたが、今回図らずも、その主張を裏付けるような言葉に出会った。

個人的になった男性が一見親切で「紳士的」な振る舞いをする人だとしても、視線、言葉、醸し出す空気の中に、支配/非支配の気配や女としてのランクを査定する気配を感じ取る。むしろ「紳士的」に振る舞う人ほど、ランクを査定していたように思う。連れている女は自分の従属物であり、その女のランクは自分自身のランクに関わるからだろう。

P34

 過去記事にも書いたが、現在の私も、根本的には変わっていない。露骨な査定をしているつもりはないが、異性としての関係の進展を望む相手と相対するとき、結果的に査定というか、ジャッジをしている感覚は、ある。まあそれは、男に限った話ではないのかもしれないけれど。(ひとつだけ反論させてもらうなら、「視線」での査定は、昔から「人として失礼だ」というエチケットのようなものを幼い頃から身につけていたので、「性的な視線」だけは、そうした関係に発展してはじめて発動したりしなかったりする。もしも立場が逆で、女性から執拗に視線を送られれば、居心地が悪いし気持ち悪いと思うから)

ジェンダー論の行き着く先は、「私は一人の人間として、どう生きたいか」だと思う

 なんとなく、碇さんの考え方や、その思索の奥行には「田中美津さんみがあるなあ」と思っていたら、やはり本書に登場した。彼女は田中美津さんの存在を2019年11月に知ったようだ。

 この映画の田中美津さんを見て気が付いたのは、矛盾を無理やり解消することよりも、まるごと引き受けることが自分の解放につながるのかもしれない、ということだった。矛盾を理論に照らし、理論からはみ出る部分を無いものとして切り捨てる方がよっぽど非人間的な態度なのかもしれない。スクリーン上の田中さんは、矛盾をそのまま受け止めながら大きく生きる人だった。

P36

(前略)自分には違和感を無視することができない。でもきっとそれでいい。田中さんは矛盾を抱えながら大きく生きていたじゃないか。

P38

 私が田中美津さんの著作、『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論』を読んだのは2019年9月。ジェンダー関連(ヘテロセクシャル)についての本を読み漁っていた当時、なかでもトップクラスに心に激震が走ったのは、ついこの間のことのように思い出せる。それくらいインパクトのある読書体験だったし、こんな前衛的な考え方が1970年代の日本のウーマン・リブ活動の先駆者であった女性が書き記していたなんて、と衝撃を受けた。

(前略)むりやり最初の話につなげると、フェミニズムは人間が人間らしくあるためのものだと思う。「女だからこうあるべし」もある種のファンタジーだし、「子どもを産んだら母性がオートマチックに付与される」もファンタジーで、女性を育児にしばり付けるために作られたものに感じる。

P46

 美津さんの言葉に触れたときも強くそう思ったことだが、ジェンダーにまつわる、「男らしさ」「非モテ」「女らしさ」「女性蔑視」「多様性」。こうしたことについて考えることは、突き詰めていくと、「自分がどう生きたいのか」に帰結する。
 もちろんその過程で、他者や社会というしがらみがたくさん登場する。「私が変われないのは、環境が、仕組みが、相手が悪いからだ」たしかにその側面は大いにあるだろう。男尊女卑を例に取り上げれば、日常的に女性が被る社会的な立場の弱さは、少なくとも、平均的な一般男性より知っているつもりだ。(この言い方にもミサンドリーやミソジニーが感じられて、あまり使いたくはないが、ここまで長文を書いてきた疲れも出てきているかもしれない。だけど、私は、いまの私は、この表現が限界なので、あえて書き直すことはしないでおこうと思う。時間が経って、見直すときが来て、違和感を覚えれば、加筆修正するかもしれない。最善は尽くすけれど、完璧であろうとすることは、もうやめたいから)

 だが、これまで生きてきた経験と、同時代及び先人たちの知恵から学び得た私の暫定的価値観から導き出されたものは、「それで、お前(自分)は、どう生きたいんだ?」という内なる声だった。

 私は、どういう私として生きたいのか。
 私は、どういう人間でありたいのか。
 私は、この命を、どう育んでいきたいのか。

「なになにです。」という答えは出ない。答えではなくて、大事なのは、この問いを常に胸に抱き、己に問い続けることだと思うから。

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