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12 結婚したい女たち 不都合な現実 一花

市内の中央にある九階建てのマンションに一花いちかは一人で住んでいる。

寝室の隣にある部屋へ久しぶりに入ると何も置いていないその部屋は知らない部屋に思えた。ここは夫の部屋だった。デスクと椅子に加えて趣味の楽器なんかが所狭しと置いてあったけど離婚と同時に夫はすべてを運び出した。

その部屋のカーテンをカフェ風のレースのに付け替えて床は水拭きで隈なく拭いた。クローゼットの中も掃除しようと開けたら(あれ、なにかある)と上についている棚に箱をみつけた。

開けてみると息子が生まれた時にもらった赤ちゃんの靴下だった。あの頃は履かせる間もないほどに次から次へとたくさんの服をもらった。あっという間に大きくなる息子にはすぐにサイズが合わなくなって結局箱から出すこともない服がたくさんあった。きっとそのうちの一つだろう。
(なんでこんなとこに。もう一人生まれたら履かせようと思って取っておいたのかな)
夫は優しい人だった。母が亡くなって独りぼっちだった一花に深く同情して
「四十歳までに結婚したいんだ」
と三十九歳の夫は結婚を急いだものだから、押されるように出会って半年で結婚した。十六歳も年上で一花にとっては父親のように思える人だった。

とここでこれ以上思い出さないように一花は頭を振った。気を取り直して壁に姿見の大きな鏡を置いた。これから冬になると乾燥するから加湿器も置きたい。ZOOM(ズーム)用のカメラも置かないといけない。配置を考えながら一花は楽しみでならなかった。次の日曜日この部屋でお琴にヨガを教えることになったのだ。

お琴と香と山へ登った帰りにほんの思いつきで、
「ヨガを教えさせてほしい」
と無計画なままに頼んでしまった。とは言え一花はちょうどプライベートレッスンへ向けて新しいポーズを開発中ではあった。生徒の体の悩みは一人一人違う。肩こり、腰痛、冷え、頭痛、むくみ、いろんな症状を抱えている。それを改善してあげられるポーズを提供できれば独立も夢じゃなくなるだろう。でも一花にはできるポーズでも生徒たちにはどうだろうか。どんな反応を示すのかは想像もつかない。教えながら試行錯誤したのでは信頼を失ってしまう。そんなことを考えていたからついお琴と香に頼んでしまった。

そしたら意外な反応があった。快く引き受けてくれると思ったお琴が難色を示し断られるかもと予想した香が喜んで引き受けてくれたのだ。しかも香は二年ものヨガの経験があった。いつでも想像と違う香。山登りの時もそうだ。突然ネイティブのような発音で英語を喋り出した。留学していたと言うしきっとお金持ちのお嬢さんだ。香のあの幸せそうな雰囲気は裕福な家庭で生まれ育ったからなのかもしれない。私生児の私とは全く違う。だからこそ一花はあの時もっと頑張らなくちゃと内心焦って出た言葉が「新しいポーズを作るために教えさせてほしい」だった。

次の日曜日の夜にリモートで二人にヨガを教えた。香は一度言えばすんなりポーズを取れたけどお琴はそうはいかなかった。体をどう動かせばいいのか全く分からない様子だった。ほぼお琴に付きっ切りになったのだけど香が自分のポーズに集中していてくれてよかった。

だって一花がこのレッスンでなにより嬉しかったのはお琴の素人ぶりだったから。生徒さんがヨガなんてしたことのない「ヨガって何?」と言う友だちや家族を連れてくることがある。そういう人がレッスンに混ざった時のためにポーズの難易度を下げたバリエーションを用意しておくといいのだけどその練習になる。

お琴の指導に時間がかかって三十分の予定が一時間になってしまった。「三十分は短くない?」とレッスン前に言っていた香は満足そうだった。でもお琴は「もういやだ」と言い出すかもと心配になるくらいへばっていた。なのに次の日「次はリモートじゃなくて直(じか)に教えてほしい」とLINE(ライン)が来たのだ。一花は度肝を抜かれたけれどそれ以上に嬉しかった。いつでも前向きで頑張り屋。お琴のこういうところが好きだ。というわけで元夫の部屋でレッスンをすることになったのだ。


つづく


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