【ヴァジュラバイラヴァ】金剛の恐るべきシヴァ
こうだったらとても都合が良いね!という妄想の話です。
この瞑想する人noteでは、霊性の探究というのを大事にしています。
しかし霊性なるものが実体としてあるのか?その探究には何か意味があるのか?スピリチュアルな妄想なのではないのか?という疑問もいまだにあります。
それにもかかわらず、さらに都合の良い妄想の上塗りです。
私としては「グノーシスの弊害」を避けたいと考えています。
霊性の探究にあってはそれを乗り越えたいと思っています。
要するに、
、ということを乗り越えたいという思いです。
霊性なるものがあって、その霊性は以下のものだったら「グノーシスの弊害」を乗り越えるのに都合が良いんだけどなあ……。
マガジン:金剛大乗(金剛荘厳)
BGM:ガーヤトリー マントラ
霊性の側の顕現の「意志」
心理学者、脳科学者、進化生物学者の中には「人間(の脳ミソ)というのは、神々や亡霊、信仰、そして宗教を生み出すものだ」という人がいます。
信仰や宗教、スピリチュアリティについても、それは脳ミソの生み出した妄想・虚無であるという意見もあれば、個人にも社会にも価値ある役割を担ってきたし今後も担うだろうという肯定的な意見もあります。
中には、臨死体験やサイケデリクス、瞑想などを通して、霊的存在やスピリチュアリティの実在を信じるようになった科学者だっています。
もちろん個体差はあれど、とにかく、霊性、スピリチュアリティを求める衝動は生物学的にも人間の内にあるのではないかと私は感じています。
神経学者もこのような見解を述べたことがあります。
さて、ここからが「グノーシスの弊害」を乗り越えるための都合勝手な妄想なのですが、
、ということです 。
そして、この人間を通して顕現しようとする霊性の「意志」を、積極的に認めるならば、「グノーシスの弊害」を乗り越えるのに役立つのではないかということです。
つまり世俗に背を向けて、忌避し、清潔で超俗的な霊性に向かおうとすることや、そのような実践による「救済」、モクシャ、ニルヴァーナではなくて、むしろ、
人間を通してこの世俗に顕現しようとする霊性の意志に積極的に参入するというものです。
この瞑想する人noteでは、霊性というのはとりあえず智慧・慈悲というものに関係しているだろうとしています。
智慧と慈悲の結合の歓喜の実践というのを重視しています。
関連note:【ヤブユム】智慧と慈悲、その結合の歓喜。 ヨガ、瞑想、密教、生命エネルギー、バクティ
なので人間を通してこの世俗に顕現しようとする霊性の意志に積極的に参入するということは、日々の生活において智慧と慈悲の結合の歓喜の実践ということになると考えています。
信仰的な大げさな表現を用いるなら、霊性の大いなる意志に、自己を虚しくし、エゴ、自らの意志を捧げるという実践です。
この顕現しようとする霊性の意志にエゴ、自らの意志を捧げるということも生起次第に含めるべきでしょう。
関連note:道次第の考察 ―― 顕教と密教、生命エネルギー、生起次第、究竟次第
文字通り、金剛智の(世俗社会生活の)荘厳による大乗の実践というわけです。
ところで、以上のようなことはインドの宗教家、ヨーガ指導者オーロビンド・ゴーシュ(Sri Aurobindo Ghose)の思想の中にもあるようです。
オーロビンド自身は宗教的な生活に入ってからは、あっちこっちと活動的だったヴィヴェーカーナンダなどとは違って、実に瞑想的な隠遁生活だったのですが。
以下は、さらに勝手都合の妄想の上塗りです。
集合的な意識・無意識にも関係するのか?
人間に霊性を求めようとする衝動があり、霊性の側にも顕現しようとする意志があり、こういったものに神経生理的・生物学的な基盤があるのなら、
この霊性、衝動、意志は、ひょっとすると集合的な意識・無意識とも何か関係があるのかもしれません。
また、確かに、霊性を「大いなるもの」とし人間を通して顕現しようとする霊性の意志を「大いなる意志」と表現するのは、スピリチュアルなものではあるけれども、的外れな表現ではないと感じられます。
霊性やその意志というのは人間の個々人の内にあると言えるだけではなくて、遺伝子によって太古からと連綿と人類に受け継がれてきた個体を超えた「大いなるもの」でもあると言えるということです。
さてスピリチュアルなひとりごとですが、もし集合的な意識・無意識とも何か関係があるとするのなら、
伝統宗教であれ新興宗教であれ、カルト宗教であれ、スピリチュアル、ヨガ、瞑想、サイケデリクスであれ他のなんであれ、霊性・スピリチュアリティの探究に熱心な個人やとくにグループにあっては、シンクロニシティ、神秘体験、「導き体験」、(サイキックな現象、)集団的な幻覚体験・情動体験、集団催眠・熱狂ヒステリー、、、などが生じやすいのかもしれません。
もし集合的な意識・無意識の影響にある個々人の集団、グループ、群集において、集団的な特殊な体験が生じ得るのなら、その心理学的、意識ー神経生理的な ―― さらには物理的な ―― メカニズムが気になるところではありますが。
ヴァジュラバイラヴァ ―― 金剛の恐るべきシヴァ
霊性やその意志が、もし、集合的な意識・無意識にも関係するような「大いなるもの」ならば、霊性の探究や実践については注意すべきこと、畏れるべきものもあるのかもしれません。
リスクもあるということです。
この畏怖すべき性質に関して、ヴァジュラバイラヴァのイメージを採用したいと思っています。
Wikipedia:大威徳明王(ヤマーンタカ、ヴァジュラバイラヴァ)
ヴァジュラバイラヴァ ―― 智慧の恐るべき側面、金剛の恐るべきシヴァです。
シヴァ神はヒンドゥー教最高神の一つであって、創造、破壊/再生、ヨガ、瞑想、解脱などを司る神とされています。
見るからに恐るべきバケモノです。チベット密教では凄まじい呪殺法の本尊として用いられたなどの言い伝えもあります。
チベット仏教ではなぜだか智慧のホトケ、文殊菩薩の化身とされています。
集合的な意識・無意識にも関係するような霊性の探究における畏怖やリスクを表すのになかなかピッタリのイメージです。
さて、
霊的・精神的な伝統で今までに言われていたことではありますが、霊性の深甚なる探究を通して触れることになるかもしれない、ある種の影響力、「意識、力」は、その向き合い方によっては、創造になることもあれば、破壊をもたらすことになるかもしれないということです。
このことで、破壊的なものをもたらしてしまったのが、まずは、オウム教祖・教団だと考えています。
あと不確かなのですが、ひょっとすると、ヒトラー・ナチスもそうだったのかもしれません。
集合的無意識を提唱したユングは「ヒトラーは無意識からの声に耳を傾け、従う」といったようなことを述べていたようです。
オーロビンドにもヒトラーについての不思議な言及があります。
(ちなみに、アメリカの有名な「霊能力者」とされるエドガー・ケイシーも、その「透視リーディング」の中で、ヒトラーが心霊的に導かれているということを肯定したんだそうです)
オウム教祖もヒトラーも、霊性やこれに関する集合的な意識・無意識について、なにかしらの生まれ持った素質・体質があったと思われます。
オウム教祖の場合には、素質だけでなくて、さらに密教的な実践もありました。
特に顕著にスピリチュアルな集団であり、激しい密教的な実践のあった「クンダリニー教団」、オウム教団は、集合的な意識・無意識の領域をも含む霊的・心霊的な影響力、意識、力に触れて、凄惨な破壊的な結果となってしまったのかもしれません。
関連note:オウム「タントラ ヴァジラヤーナの救済
このnote記事にあるようなアイデアはラムリムやマハームドラー(大印契)についての考察に関係するかもしれません。
またゾクチェンの思想とも関係してくるかもしれません。
関連note:【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?