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【ヴァジュラバイラヴァ】金剛の恐るべきシヴァ

こうだったらとても都合が良いね!という妄想の話です。

この瞑想する人noteでは、霊性の探究というのを大事にしています。

しかし霊性なるものが実体としてあるのか?その探究には何か意味があるのか?スピリチュアルな妄想なのではないのか?という疑問もいまだにあります。

それにもかかわらず、さらに都合の良い妄想の上塗りです。


私としては「グノーシスの弊害」を避けたいと考えています。
霊性の探究にあってはそれを乗り越えたいと思っています。

関連note:「グノーシス主義」と神秘体験(宗教的体験) ―― その問題について >> 概要

要するに、

・「グノーシス」には、探究、実践のベクトルが超俗的霊性にばかり向かってしまうところがある。

・そうするとこの物質的な社会を軽視し、忌避・敵対視するような反宇宙的二元論の思想が生まれることがある。

・この反宇宙的二元論によって破壊的な思想や教義、実践、グループの形成に向かう危険性がある。

、ということを乗り越えたいという思いです。


霊性なるものがあって、その霊性は以下のものだったら「グノーシスの弊害」を乗り越えるのに都合が良いんだけどなあ……。


ヴァジュラバイラヴァ(ヤブユム

マガジン:金剛大乗(金剛荘厳)


BGM:ガーヤトリー マントラ




霊性の側の顕現の「意志」

“ 荒野に 主の道を備え
砂漠に われらの神のために大路をまっすぐにせよ ”  イザヤ書40:3

“ 城門よ こうべを上げよ
とこしえの門よ 身を起こせ
栄光に輝く王が通られる ” 詩篇24:3


 心理学者、脳科学者、進化生物学者の中には「人間(の脳ミソ)というのは、神々や亡霊、信仰、そして宗教を生み出すものだ」という人がいます。

信仰や宗教、スピリチュアリティについても、それは脳ミソの生み出した妄想・虚無であるという意見もあれば、個人にも社会にも価値ある役割を担ってきたし今後も担うだろうという肯定的な意見もあります。

中には、臨死体験やサイケデリクス、瞑想などを通して、霊的存在やスピリチュアリティの実在を信じるようになった科学者だっています。


もちろん個体差はあれど、とにかく、霊性、スピリチュアリティを求める衝動は生物学的にも人間の内にあるのではないかと私は感じています。

神経学者もこのような見解を述べたことがあります。

“ われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。
…… やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追究せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。” p.21 

アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』PHP 2003


さて、ここからが「グノーシスの弊害」を乗り越えるための都合勝手な妄想なのですが、

人間に、霊性 スピリチュアリティを求めようとする衝動があると考えるのなら、
逆に、
人間の内にある霊性 スピリチュアリティの側にも、人間を通して顕現しようとする衝動があり、そのような意欲 ―― 「意志」があると考えることもできるのではないか

、ということです 。

そして、この人間を通して顕現しようとする霊性の「意志」を、積極的に認めるならば、「グノーシスの弊害」を乗り越えるのに役立つのではないかということです。

つまり世俗に背を向けて、忌避し、清潔で超俗的な霊性に向かおうとすることや、そのような実践による「救済」、モクシャ、ニルヴァーナではなくて、むしろ、
人間を通してこの世俗に顕現しようとする霊性の意志に積極的に参入するというものです。


この瞑想する人noteでは、霊性というのはとりあえず智慧・慈悲というものに関係しているだろうとしています。
智慧と慈悲の結合の歓喜の実践というのを重視しています。

関連note:【ヤブユム】智慧と慈悲、その結合の歓喜。 ヨガ、瞑想、密教、生命エネルギー、バクティ

なので人間を通してこの世俗に顕現しようとする霊性の意志に積極的に参入するということは、日々の生活において智慧と慈悲の結合の歓喜の実践ということになると考えています。

信仰的な大げさな表現を用いるなら、霊性の大いなる意志に、自己を虚しくし、エゴ、自らの意志を捧げるという実践です。

この顕現しようとする霊性の意志にエゴ、自らの意志を捧げるということも生起次第に含めるべきでしょう。

関連note:道次第の考察 ―― 顕教と密教、生命エネルギー、生起次第、究竟次第

文字通り、金剛智の(世俗社会生活の)荘厳による大乗の実践というわけです。

文殊菩薩:金剛大乗の「本尊」

世俗での智慧と慈悲の実践なのだから
モクシャ(の超俗)ではない

モクシャではないからと言っても

エゴ、自らの意志を「大いなる霊性の意志」に捧げるのだから
輪廻でも悪趣でもない


※ ちょっとひとこと

ひょっとすると、修行によって「内なるもの」を求め、そしてその「内なるもの」の顕現しようとする意志を感じ取ったことが、大乗仏教発生の生理的な根拠なのかもしれません。


ところで、以上のようなことはインドの宗教家、ヨーガ指導者オーロビンド・ゴーシュ(Sri Aurobindo Ghose)の思想の中にもあるようです。

“ …… この単一性ワンネスを外から眺める視点は存在しない。というのも、それこそが存在そのものだからである。プロティノス(Plotinus)が簡潔に述べた言葉を借りれば、ここでは「すべてがともに呼吸する」のであり、シュリ・オーロビンド(Sri Aurobindo)によれば、「この事物のヴィジョンにおいては、宇宙は単一の存在として、その統一性と全体性をみずから開示する。自然とは具現化する力であり、進化とは、物質の中で自然が徐々に自己開示するその過程である」ということなのである(Aurobindo 1987,211)。” p.54

“ …… 主要な宗教は、そのどれもが「上昇」を教えの核心に置いており、そして、この元型アーキタイプが私たちの文化に今なお深く根づいたまま伝わっている……。アジアと西洋の宗教のいずれもが、「上がって抜ける(up-and-out)」ことによって救われるとしており、人生の最終ゴールをキリスト教の天国、イスラムの至福の楽園、あるいは仏教における浄土のように、地球外のどこかにあるスピリチュアルな楽園に置いている。生きとし生けるものを救うためにこの世に何度でも戻ってくると誓う菩薩までもが、衆生を「涅槃」「究極の悟り」、あるいは本来肉体なしの悟りに至らせることで解脱させようとしているのだ。
 オーロビンドは、これらの宇宙論は、存在というものの不完全な理解によるものだと言ったが、私も彼が正しいと思う。……” pp.55-56

クリストファー・M・ベイシュ 著 『天からのダイヤモンド ―LSDと宇宙の心(マインド)』ジュン・エンジェル 訳 ナチュラルスピリット 2023

オーロビンド自身は宗教的な生活に入ってからは、あっちこっちと活動的だったヴィヴェーカーナンダなどとは違って、実に瞑想的な隠遁生活だったのですが。


以下は、さらに勝手都合の妄想の上塗りです。

集合的な意識・無意識にも関係するのか?

“われわれの理論からは、数々の驚くべき帰結が導かれた。すなわち、神話が、生物学的過程によって強制的に作られてくるということ。儀式が、神秘的な合一状態に入るために直観的に考案された動作であるということ。神秘家が、必ずしも狂気に陥っているわけではないということ。すべての宗教が、一つのスピリチュアルな木から突き出している枝であるということなどである。われわれが最も興味深く感じたのは、この究極の合一状態を合理的に支持できるという事実だった。” p.251

アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』PHP 2003


 人間に霊性を求めようとする衝動があり、霊性の側にも顕現しようとする意志があり、こういったものに神経生理的・生物学的な基盤があるのなら、
この霊性、衝動、意志は、ひょっとすると集合的な意識・無意識とも何か関係があるのかもしれません。

また、確かに、霊性を「大いなるもの」とし人間を通して顕現しようとする霊性の意志を「大いなる意志」と表現するのは、スピリチュアルなものではあるけれども、的外れな表現ではないと感じられます。

 霊性やその意志というのは人間の個々人の内にあると言えるだけではなくて、遺伝子によって太古からと連綿と人類に受け継がれてきた個体を超えた「大いなるもの」でもあると言えるということです。


 さてスピリチュアルなひとりごとですが、もし集合的な意識・無意識とも何か関係があるとするのなら、
伝統宗教であれ新興宗教であれ、カルト宗教であれ、スピリチュアル、ヨガ、瞑想、サイケデリクスであれ他のなんであれ、霊性・スピリチュアリティの探究に熱心な個人やとくにグループにあっては、シンクロニシティ神秘体験、「導き体験」、(サイキックな現象、)集団的な幻覚体験・情動体験、集団催眠・熱狂ヒステリー、、、などが生じやすいのかもしれません。

もし集合的な意識・無意識の影響にある個々人の集団、グループ、群集において、集団的な特殊な体験が生じ得るのなら、その心理学的、意識ー神経生理的な ―― さらには物理的な ―― メカニズムが気になるところではありますが。


ヴァジュラバイラヴァ ―― 金剛の恐るべきシヴァ

“ さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。
これは主の命令に反することであったので、 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

 その時モーセはアロンに言った。
「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」
アロンは黙していた ”   レビ記10:1-3


 霊性やその意志が、もし、集合的な意識・無意識にも関係するような「大いなるもの」ならば、霊性の探究や実践については注意すべきこと、畏れるべきものもあるのかもしれません。
リスクもあるということです。

この畏怖すべき性質に関して、ヴァジュラバイラヴァのイメージを採用したいと思っています。

Wikipedia:大威徳明王(ヤマーンタカ、ヴァジュラバイラヴァ)


ヴァジュラバイラヴァ

ヴァジュラ=金剛。無明を粉砕する壊れることのないホトケの智慧。密教も意味する。もともとは『リグ・ヴェーダ』の中心的な神インドラの雷電・武器をさすようです。

バイラヴァ=シヴァ神の恐るべき側面(マハー・バイラヴァ)、威力、威徳、怖畏。

ヴァジュラバイラヴァ ―― 智慧の恐るべき側面、金剛の恐るべきシヴァです。
シヴァ神はヒンドゥー教最高神の一つであって、創造、破壊/再生、ヨガ、瞑想、解脱などを司る神とされています。

見るからに恐るべきバケモノです。チベット密教では凄まじい呪殺法の本尊として用いられたなどの言い伝えもあります。
チベット仏教ではなぜだか智慧のホトケ、文殊菩薩の化身とされています。

集合的な意識・無意識にも関係するような霊性の探究における畏怖やリスクを表すのになかなかピッタリのイメージです。


 さて、
霊的・精神的な伝統で今までに言われていたことではありますが、霊性の深甚なる探究を通して触れることになるかもしれない、ある種の影響力、「意識、力」は、その向き合い方によっては、創造になることもあれば、破壊をもたらすことになるかもしれないということです。


このことで、破壊的なものをもたらしてしまったのが、まずは、オウム教祖・教団だと考えています。

あと不確かなのですが、ひょっとすると、ヒトラー・ナチスもそうだったのかもしれません。

集合的無意識を提唱したユングは「ヒトラーは無意識からの声に耳を傾け、従う」といったようなことを述べていたようです。
オーロビンドにもヒトラーについての不思議な言及があります。

関連note:シャクティーパット? アドルフ・ヒトラーの霊力!? 生命エネルギーのサイキックな現象 >> ヒトラーの霊力!? 数々の逸話集

(ちなみに、アメリカの有名な「霊能力者」とされるエドガー・ケイシーも、その「透視リーディング」の中で、ヒトラーが心霊的に導かれているということを肯定したんだそうです)


オウム教祖もヒトラーも、霊性やこれに関する集合的な意識・無意識について、なにかしらの生まれ持った素質・体質があったと思われます。
オウム教祖の場合には、素質だけでなくて、さらに密教的な実践もありました。

特に顕著にスピリチュアルな集団であり、激しい密教的な実践のあった「クンダリニー教団」、オウム教団は、集合的な意識・無意識の領域をも含む霊的・心霊的な影響力、意識、力に触れて、凄惨な破壊的な結果となってしまったのかもしれません。

関連note:オウム「タントラ ヴァジラヤーナの救済


 このnote記事にあるようなアイデアはラムリムマハームドラー(大印契)についての考察に関係するかもしれません。
またゾクチェンの思想とも関係してくるかもしれません。

関連note:【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?