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心の琴線に触れられたなら–原作知らずのわたしが見た『マチネの終わりに』

人は、時に誰かの心の琴線に触れてしまうときがある。それがたとえ一瞬でも、その人の心の深いところに達してしまったなら、人はそれを忘れることができない。きっと死ぬまで。

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まずは、映画を観ようと思った。

先日、11/1(金)公開の映画『マチネの終わりに』のnoteユーザー限定先行試写会に行ってきました。原作になった平野啓一郎さんの小説はあえて読まずに。

わたしは長らく自宅にテレビのない生活をしているので、石田ゆり子さんが出演していた『アナザースカイ』も、その他の番宣も何も見ることなく、事前に見たのはYouTubeに載っていた映画予告だけ。

そんなわたしが観た『マチネの終わりに』について話そうと思います。

ありえる?ありえない?

たった三度会ったあなたが、
誰よりも深く愛した人だった

本映画を代表するこのフレーズ。これを読んで、みなさんはどんな感想を持つでしょうか?「ありえる」?「ありえない」?

鑑賞前のわたしは、「ああ、ありえるな」と直感的に思いました。それがたとえ幻想かもしれないとしても、本人がそう思ったのなら、それは「本当」だし「真実」だと思うからです。

そして、会った回数もさることながら、どれだけ互いの心の深いところに触れ合ったかが、相手への想いの強さを変えると思うから。

映画の中で福山雅治さん演じるギタリスト・蒔田聡史と、石田ゆり子さん演じるジャーナリスト・小峰洋子は、日本、パリ、ニューヨークで三度出会います。六年の中で、三度。その間もメールや電話で相手と直接やりとりしたり、ニュースや知人を通じて間接的に互いの様子を知ったりはするのですが。

たった三度しか出会ったことのない二人が惹かれ合うのは、何より、互いのひと言ひと言、仕草、それまでの人生観が、それぞれの心の琴線に強く触れたからというところが大きいのだと思います。

二人、だけではないからこそ。

二人が惹かれ合う一方、洋子には蒔田と会った当初から婚約者がおり、蒔田のそばには蒔田に心酔するマネージャーの女性が。

蒔田・洋子の二人の関係は、互いのそばにいる別々の異性によっても大きく影響を受けていきます。

洋子の婚約者も蒔田のマネージャーも、洋子と蒔田、それぞれに自分の心の琴線をつかまれたからこそ、相手を失いたくないと思ってしまう。心を強く揺さぶられた相手だからこそ、自分も相手の心の奥底に、琴線に触れたい・触れようとせずにはいられないと思うこともあるのかもしれません。それが恋慕であっても、別の感情であっても。

心の琴線に触れられたなら。

心の琴線に触れられたなら。この言葉には二つの意味があるように思います。一つ目は、誰かの心の琴線に自分が「触れることができたなら」。二つ目は、自分の心の琴線を誰かに「触れさせてしまったなら」。

きっとどちらも意図的な場合もそうでない場合もあるでしょう。生きていくからには、どちらも起こりうること。

毎日、とは言わないまでも心の琴線に触れられるような人生の一瞬一瞬を抱きしめていきたい。過去のあの瞬間がそうだったのかもしれないと、あのときから見た未来である今、改めて感じたい。

映画全体を彩る美しいクラシックギターやピアノの旋律に包まれながら、そう思ったのでした。

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あの染み渡るようなメロディーと、登場人物のひと言ひと言、そして、登場人物たちの迫りくる表情、何より手の動きの美しさはこの映画ならでは。秋冬にぴったりな、時に痺れるほど甘く、時に悲しいほどビターなこの作品。原作を知らない方もきっと楽しめる映画です。

ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。