でんちゃん (城野 恵)

呼吸するパン でんぱん 川根本町の山の上の小さなパン工房 楽健寺酵母(りんご、人参、長…

でんちゃん (城野 恵)

呼吸するパン でんぱん 川根本町の山の上の小さなパン工房 楽健寺酵母(りんご、人参、長芋、米で作った自家製酵母)の小麦パン グルテンフリーの米粉パン 平日、訪問看護師 元難病患者、パーマカルチャー、移住、食物アレルギー、麦っ子畑保育園、循環型の自然な暮らし

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    蘇のパンセット

    - 楽健寺酵母1斤パン - 丸パン10個 りんご、人参、長芋、玄米で作った自家製天然酵母で焼き上げたパンです。有機小麦使用で、材料は自然のものを使用してます。見た目は素朴ですが、食べると口一杯に広がる豊かな酵母の味を食べて、一日を元気に始められたらと思います。
    2,300円
    denpan
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    ケのパンセット

    楽健寺酵母 - 1斤パン - 丸パン10個 - ベーグル3個 - イングリッシュマフィン3個 自家製天然酵母、自然の材料を使って焼き上げてます。毎日のパン、ケのパンとして常備しつつ、朝のバリエーションを豊かにするセットです。
    4,200円
    denpan
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    米粉パンセット

    - グルテンフリー米粉1斤パン 2本 白神こだま酵母使用 材料は、米粉、洗双糖、天然塩、米油、酵母とシンプルです。
    2,400円
    denpan
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    蘇のパンセット

    - 楽健寺酵母1斤パン - 丸パン10個 りんご、人参、長芋、玄米で作った自家製天然酵母で焼き上げたパンです。有機小麦使用で、材料は自然のものを使用してます。見た目は素朴ですが、食べると口一杯に広がる豊かな酵母の味を食べて、一日を元気に始められたらと思います。
    2,300円
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    ケのパンセット

    楽健寺酵母 - 1斤パン - 丸パン10個 - ベーグル3個 - イングリッシュマフィン3個 自家製天然酵母、自然の材料を使って焼き上げてます。毎日のパン、ケのパンとして常備しつつ、朝のバリエーションを豊かにするセットです。
    4,200円
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    米粉パンセット

    - グルテンフリー米粉1斤パン 2本 白神こだま酵母使用 材料は、米粉、洗双糖、天然塩、米油、酵母とシンプルです。
    2,400円
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私のルーツ

自分には生まれ直した、立ち帰る場所、記憶があります。 今は元気なのですが、2歳の時に腎臓の難病になりました。幼少時のほとんどを入院して過ごしました。 ステロイドの大量療法やありとあらゆる治療をしましたが、全く効果がありませんでした。 ほぼ1年排尿がほとんどありませんでした。 ステロイドの副作用が酷くムーンフェイスで 肥満、成長が止まっていました。 一日の水分制限は200mlまで、無塩食が続きました。私が一番つらく怖かったのは治療ではなく、夜でした。 昼間は友達と遊べま

    • ナースがパン屋になりました。ケのパンについて。

      ケ のパン かつての日本人は 1〜2食/日、玄米、お新香、味噌汁 などの素食だった 身土不二、地産地消 身の回りでとれる旬のものだけを 食べていた 川や海の近くに住んでないと 魚は食べられないし 山に住んでないと 肉も食べなかっただろう その人に必要な食材は 身の回りに自生するらしいけど。 その素食で何里も飛脚できるほどの 健脚をもち、 米俵を持ち上げることができていたから タンパク質がどうとか カロリーがどうとか 関係ないのかもしれない 昔はハレの日とケの日が はっ

      • ナースがパン屋になりました。蘇について。

        蘇 のパンセット 小川糸さんのライオンのおやつ  という本がある 瀬戸内海の島にあるホスピスの話 そこで始めに出されたおやつが 蘇 だ。 主人公は、そのクリーム色した蘇を 淡い卵なような、 生まれたてのひよこのような色と たとえている。 一口目の印象は懐かしい。 二口目は、じわじわと甘い味が 広がっていく 正体をつかめそうになると すーっと手のひらから尻尾が逃げていく  ようで追いかけっこをしているみたいだ と表現したあと たとえた言葉が 神様の母乳 だった 蘇と

        • 我が家がアレルギーを克服するためにした、いくつかのこと

          我が家は、全員何らかのアレルギー体質 特に下の娘は0歳2ヶ月くらいより 乳児湿疹が全身に広がり 節々や耳が赤く亀裂が入り  夜泣きが酷かったです。 月齢とともに痒みが広がり 血が出るまでかくので 手袋をしていました。 夜は痒みで夜中じゅう激しく泣くので ずっと抱っこして歩き回ったり シャワー浴したり 私は万年寝不足で疲れ切っていました その後、アナフィラキシーを起こしたことを きっかけに 初めは米、大豆、卵、乳、小麦など さまざまな食物アレルギーが 見つかり離乳食始まる時

          ¥200
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          ナースがパン屋になりました。その2

          移住先を探しながら、 畑の勉強とパーマカルチャーを学んで 三年前に静岡の川根本町に移住した。 神奈川のマンション時代から 味噌、梅干し、麹、干し野菜など、 発酵食品や保存食を作っていた。 米粉パンを作るようになり、 通販で販売しながら 色んな酵母を作り、 その酵母でパンを焼くようになった 美味しいけど、売るほどではない 売るには人を動かすほどの 何かが足りない・・・ という感じでモヤモヤが続き、 試行錯誤を繰り返していた 何か、こう、人を元気にして 美味しい、他の店のパ

          ナースがパン屋になりました。その2

          ナースがパン屋になりました。その1

          今は食べられるが、下の子が食物アレルギーだったので、我が家のパンはグルテンフリーの米粉パンをずっと食べていた。アレルギーのない上の子も米粉パンの方がおいしいといっていたほど。 当時は、まだ、米粉パンのレシピはほとんどなく、日本ハムが出している冷凍米粉パンともう一社くらいが出しているものくらいを買うしかなく未知の世界。これらもスーパーに売っている訳ではなく、取り寄せなければならない。とにかく、作るのが難しいというイメージ、噂しかなく、焼いてあるのもさほど美味しそうではなかった。

          ナースがパン屋になりました。その1

          全てに丁寧なホテル

          先日、広島のとあるホテルに泊まった。息子の中学の行事に参加するため片道8時間の道のりを一人長距離運転したときのこと。 三原市は、ビジネスホテルの激戦区。有名なホテルたちがしのぎを削っている。検索中、4200円のホテルが出てきた。一人だし、お金かかるし、泊まれればどこでもいいや、と期待してなかった。が、口コミがまさかの高評価。そこには、必ず、従業員の対応が素晴らしいとか、凄いとか書いてあるのだ。どんな接客?どんなだとこんな書き込みされるの?と想像が膨らんだ。 4200円とい

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          大好きなカフェM2

          今は、牛乳だけですが、下の子にはかつて食物アレルギーがあった。小麦、乳製品、卵が主なもの。これらがあると、外食・旅行がとても難儀だ。綿密に下準備をして、内心緊張して出かけたものだ。小さい頃はもっと沢山あって、全身に蕁麻疹が出たり、アナフィラキシーを起こしたこともあった。放射能も気にしてたので、旅行の下調べ、下準備は念入りにしたものだ。 大体、行きたいとこ、やりたいことの目ぼしい場所の宿を探し、宿の食事を調べる。対応してくれるとこは調整しておくのだが、私は基本的に自然食の宿を

          自分で考えて、行動する人生の始まり

          これまでの人生で、1度だけ死のうと考えて、死のうと行動したことがあります。3歳の時。しかもなかなか死ねない方法で。 その時は、自殺という言葉すら自分の中に存在しない時代。人に自分の経験を話す機会が10代の時にあり、あの時の記憶は自殺だったと認識し驚いたのだ。 2歳10ヶ月の時に、ネフローゼ症候群という難病になった。どんな病気にも段階があるが、自分の症状は重いものだった。1年間ほとんどおしっこが出てなかった。ステロイドの大量療法も何度かするも無効だった。今は、移植、腹膜透析、

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          自分がどうありたいかについて掘り下げてみる

          私は平日、訪問看護の仕事をしながら、週末や空き時間にパン屋をやっている。パン屋起業前の二年前、変わったビジネススクールに入った。その名も生業ブランディング道場。エネルギー(宇宙からのエネルギーの受け取り方、繋げ方、与え方など宇宙エネルギーとして自分や自分の生業をどう考えるか)と実際のビジネス論から自分の生業を考えていくという両輪を整えていくかつてないもの。内容は独自すぎて面白すぎた。 やっているのは、以前、沖縄で下の子のアトピーを治してくれたひだまり堂の由美さん。もう一人は

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          必要な物にだけ囲まれて生きる

          私の母親は、とても片付けられない人で実家は物に溢れていた。狭い団地に物がひしめき合い、斜めにたおれかかって物が積み上げられていた。その溢れかえったものを収納するために収納棚をどんどん買ってしまう人で、今度は収納棚だらけになる。その収納棚も寸法を測るでなく、何となくここら辺にという感じなので始末が悪い。統一感のない家具たちと家具の配置に苦しめられた。夜寝るのがとても怖かった。地震が来たら、100%この物たちの下敷きになるからだ。 小学2年の頃の私の日課は、台所を磨き上げること

          必要な物にだけ囲まれて生きる

          人に良いものについて考える

          人に良いものと書いて、食という字だけど体にいい食事とか、体に悪い食事とかいう。自分もいつも使っちゃうんだけど、いい食材とか、悪い食材とかじゃないんだよね。本当は。その時のその人にとってよかったり、悪かったりする訳で、食材にいい・悪いとかはなくてホント全てはバランス・調和なんだと思う。 下の子の小学校は家の前までスクールバスが山を登ってきてくれる。そのスクバの運転手さんがとってもいい人で、優しくてあったかくて大好きなんだけど、その人は部類のギャンブル好きなのだ。でも、お金には

          人に良いものについて考える

          ゆでたまご その2

          看護学校を受験したのは、24歳の時。20年間患っていた難病が完治したからだ。主治医に「今までやりたくてもできなかったことを好きなだけやれ」と言われ受験することにした。看護学校は健康状態の査定が厳しい。高校卒業するときも受験しようかと考えたが断念した。 その頃、私は介護福祉士として特養で働いていたのを退職して、サックスを吹いてた。バイトに練習、セッション、バンド活動の日々を送っていた。看護学校を受験することにしてから、バイトを減らし、日中、図書館に行って4時間勉強した。高校生

          愛のエネルギー

          沖縄にいた時に、下の子のアレルギーで病院に通っていた。と言っても数回だけど。アナフィラキシーを起こして救急搬送された時、対応してくれたのがアレルギーの専門医だった。その縁で、調べてもらったり、注射をしてもらったり。その日は、少しずつ注射をして30分おきにアレルギー反応を確認していた。その間、子供と2人で病院内で時間を潰していた。 ママ友が私の見てないところでアレルギー食材を食べさせて、アナフィラキシーを起こしてから、人と食事をすることが苦痛で恐怖になっていた。毎日、凄く痒が

          やりたくないことで死なない

          山に移住して、すごく思うことはよく都会で生きてきたな、ということ。正常な思考なんて働かないよなと心底思う。情報量が多過ぎる。半端ない。視覚的にも、聴覚的にも刺激しかない。 最近、凄い変化してる、とか進化してるって言ってもらえるけど、多分、都会にいたらやろうやろうと思いながら、一生やらないで終わることが、何かやろうと迷わず始めて、進められているからだと思う。 都会にいると自分のことなのに、全てが物理的にも、時間軸的にも遠い場所の話になってしまうのは何故なんだろう? ここにいると

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          京都で知ったコミュニティを考えるきっかけになった場所

          20代の京都旅行でタクシーに乗った時、「京都の南側お願いします」とお願いすると「京都では、南側って言わない方がいいよ。嫌がる人いるから」と言われた。その時はそれがどういう意味なのか分からなかったけど、その10年後、私はその意味を知ることになった。 結婚して大阪に住んでいた時に、まめもやしというNPOの仕事を頼まれた。京都の南口にある市営住宅の管理人をしながら、まめもやしのしごとをした。 かつて、40番地といわれたその場所はパッチギの映画のモデルになった所。川沿いに掘っ立て

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