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自分で考えて、行動する人生の始まり

これまでの人生で、1度だけ死のうと考えて、死のうと行動したことがあります。3歳の時。しかもなかなか死ねない方法で。
その時は、自殺という言葉すら自分の中に存在しない時代。人に自分の経験を話す機会が10代の時にあり、あの時の記憶は自殺だったと認識し驚いたのだ。

2歳10ヶ月の時に、ネフローゼ症候群という難病になった。どんな病気にも段階があるが、自分の症状は重いものだった。1年間ほとんどおしっこが出てなかった。ステロイドの大量療法も何度かするも無効だった。今は、移植、腹膜透析、血液透析など色々あるが、当時は小児の移植は日本でも1例のみで選択肢として上がることがなかった。小児の透析はなかなか導入しない。でも、自分の腎機能は透析寸前の末期状態だった。

未就学児期のほとんどを私は病院で過ごした。病院の記憶しかない。幼稚園も体調悪くほとんど行けなかったから。

入院生活はそれなりに楽しんでいた。友達と遊べるし。ただ、無塩食の厳しい食事制限、1日コップ1杯の水分制限、体のものすごいだるさ、自分だけおやつがないということ、親と1日2時間しか面会できない、治療が辛いなど挙げればキリないが、日中は友達と過ごしてごまかして生きることができた。

とにかく怖かったのが夜の時間だった。みんなが、寝る時間。真っ暗で静まり返っている時間。暗くて、深くて、闇で。私は窓際のベッドでカーテンをしていない窓から、ずっと外を眺めていた。病院の裏側には養護学校があった。当時、珍しくテレビにも出たことがある。小児病院の敷地内に養護学校がある病院だった。闇に浮かぶ学校は実に不気味。じっと見続けていると闇に吸い込まれそうになる気持ちだった。

長い長い夜の間、毎日毎日、繰り返し考えるのは、死ぬことについて。ハマりまくる孤独沼。泣きながら早く朝になることを望んだものだ。何で、自分が病気になったのか、何のために病気になったのか、何か自分に悪いことがあったのか、先の見えない不安、死ぬってどういう感じだろう、どれくらい苦しいか、死ぬって1人なんだな・・・

小さいながら、薄々分かっていた。親が大変な思いをして遠くまで毎日面会に来ていること(バス、電車を乗り継いで片道2時間半くらい)、何だか治らない重めの病気だってこと、元気に普通の生活送れるようにならないのではということ。
そして、本当に不安なことは人に言えない。病気や治療で我慢を強いられていると、やたら耐える力が身について吐くということ、甘える事ができなくなる。私は自分のその時の不安や思いを誰にも打ち明けずにいた。というか、小さすぎて打ち明けるとかいう発想に至らなかった。

3歳の私は、もう終わりにしようと決めた。生きるのをやめることにした。食事をすることをやめた。いわゆる、消極的自殺だ。
看護師に口に無理矢理食べ物を入れられても吐き出した。食べなければ死ねると思っていた。当時、テレビは食堂に1台だけ。ほとんど見る時間がなく、情報のない3歳児が考えることはそれくらいだったのか。投身や絞首などの発想はなかったから。3歳の考える発想って感じ。でも、強い意志があった。終わりにするという。

小さ過ぎてどれくらいできたのか分からないけど、1週間くらいだったのか、数日の話だったのか。結果として私は生きているので、死んでいない。ただ、3歳児が自分で考え、強く決断して実行するということを自分のことながら、すごいな、そこまで考えるんだな、子供がと思う。誰にも相談せずに全てのことを決断する人生がここから始まっていると思うのだ。

年齢とか関係ない。人は、考えて、発信して、実行する。強い意志を持って決断することができる、行動する生き物なのだと思う。看護師としても何度かそういう患児に出会っている。死を恐れていない子、死を受け入れている子、大切な人の笑顔のために生きる子。すごいな、強いな、特別な子だな、とか思われがちだけど、そうではない。小さい時にそれだけの経験をすれば、嫌でもその域に行けるというか、行かざるを得ないのだと思う。我が人生を悟り、受け入れていくしかないのだ。

自分の子供たちを見ながら、元気に暮らしているとこういう生活を送るんだな、と思って見ている。毎日が、楽しいことの連続で、ワクワクしていて、こういう感じなんだな、と思うのだ。自分にはなかった生活、真逆の生活。命を繋ぐことだけに必死だった生活。勉強も運動も考え方も幼稚で、遅れていて、生きるのが下手くそで、自分の能力が劣っているからとずっと考えていたけど、元気だったら私も意外にこういう感じだったのかもな、とか考えても無駄なことを巡らしたりする。

自分の経験から、子供にも患児にも私は対等というか、一人の人間として接する。小さいからわからないと考えない、考え、分かっている生き物だと認識して接する。子供扱いしないのは、自分の経験からなのだと思う。子供は小さくてもいろんなことを考え、大人が考えている以上に凌駕していたりするということ。

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