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京都で知ったコミュニティを考えるきっかけになった場所

20代の京都旅行でタクシーに乗った時、「京都の南側お願いします」とお願いすると「京都では、南側って言わない方がいいよ。嫌がる人いるから」と言われた。その時はそれがどういう意味なのか分からなかったけど、その10年後、私はその意味を知ることになった。

結婚して大阪に住んでいた時に、まめもやしというNPOの仕事を頼まれた。京都の南口にある市営住宅の管理人をしながら、まめもやしのしごとをした。

かつて、40番地といわれたその場所はパッチギの映画のモデルになった所。川沿いに掘っ立て小屋を建て在日コリアンが身を寄せ合って生活していた。京都の道路や橋の建設のため多くの韓国人が労働者として移住してきた。故郷を離れ、経済的に豊かになりたいと希望を抱いてきた日本。そこに待ち受けていたのは過酷な労働と差別の日々だった。帰る故郷もなく、名前を奪われ、言語を奪われ、学業を奪われ、仕事を奪われ。行き場のない在日コリアンたちが、助け合って気丈に生きていた場所、それが40番地だった。近寄る人も少なく、社会保障が受けられない代わりに無法地帯だった。

その長屋地帯で火事が起きたことに加え、天皇陛下の京都入りに際し、見栄えが悪いと強制退去とともにそこに建てられた市営住宅にみんな入れられた。

ちゃんとした家に住めるんだからよかったというわけではなかった。密集して助け合っていた距離間が、個室をあてがわれ、人間関係にも距離が生まれた。自分たちのルールで自由にいきていたのに、強制的に日本のルールやしがらみに押し込まれるようになった。

市営住宅は、その頃、6〜7割が在日コリアン、半分以上が生活保護、その他も低所得世帯とシングルで構成されていた。私の仕事は、営繕やゴミ、環境整備、クレーム対応、自治会費や家賃の管理、取り立てなど多岐に渡った。それ以外にまめもやしの仕事もした。まめもやしは在日コリアンを何十年もサポートし続けているNPO法人で、この方々の長年の活動により多くの社会保障を受けられるようになった。日本は、社会制度も人としても全く人権を無視した対応をしていたのである。

まめもやしでは、在日コリアンの町作り、コミュニティ作り活動をした。井戸端的スポットを何ヶ所も作ったり、管理事務所でコーヒーが飲めるようにしたり、週に一度デイサービスみたいなことをやって、食事を作ったり、配食もした。あとは、字が読めない人の書類作成を手伝ったり、病院対応、救急対応、ゴミ屋敷の掃除、喧嘩の仲裁、生存確認などなど、何でもやった。

始めに行った時は、みんな名前が4〜5個あるから覚えるのが大変だった。韓流ドラマのように大きな声で勢いよく話すから怒ってるのかと思った。1回約束をミスると信頼関係を取り戻すのがとても大変で失敗が許されなかった。信頼関係ができると家族のように接してくれた。

ほとんどが高齢者で病気を抱えていた。みんな決まって病院でなく、家で死にたがった。印象として、その思いは日本人よりとても強く、生きることを諦めない、死を恐れない強さがあった。

ある高齢母子で住んでいる家があった。母親は癌のターミナルで寝たきり。娘が介護していたが、ヘルニアが悪化し、入院することになった。24時間介護が必要な母。入院を提案したが、頑としてひとりで家にいることを選んだ。さて、介護者不在の身の回りのことが一切できない独居高齢者が自宅に1人、どうするか話し合った。朝と晩に30分ずつ訪問看護に入ってもらい、その間は、午前、午後に私が体位変換、吸引、水分補給、尿道カテーテル管理、オムツ交換をして繋ぐことにした。本来、看護師として働いてない私はしてはいけない行為、家族でもない。バレたら大変なことになるが、そこは無法地帯。こういう状況、コミュニティで支えないと、コミュニティでしか支えられないと、そこに行き着いた。母は、娘を案じながら静かに1人で息を引き取った。

ある意味、昔の日本のコミュニティ。誰かが困れば、誰かがみる。家族やご近所さん、関わる人みんなで支え合う。今は個人情報保護かわ厳しく何かと情報を伝えたり、知ることができないが、ここは無法地帯。みんなに伝えて助けてもらう、みんなが気にかけて変化は知らせてもらう。面倒だったり、煩わしい近所付き合いも困った時に助け合える絆で繋がるから大喧嘩を頻繁にして揉めたりするが、侮れないと思った。

この市営住宅に来て、在日コリアンの人に日本が如何に不当な対応をしていたのか、僅かに知ることができた。貧しさと差別を生き抜いた人たちの生き方は潔く強いなと思った。今の日本人にはない強さがあった。昔の日本人は同じように強かったんだろうと想像した。

仕事として、看護師として、制度として、規則、ルールとして人と向き合うのでなく、私は人として人と付き合いたいと、強く思った在日コリアンたちとの思い出。

差別がなくて平和な日本と思ったら大間違いで、色んな場所で根強く、根深く日本にも差別が残っている。

戦争も貧困もさまざまな問題の根源は、差別から生まれてるなと思う。そんな私も日々、色んな大小の差別を自分の中に気づく訳で。戦争のニュースや世界や日本の貧困に心を痛めながら、私は自分の身の回りの小さな世界の平和すら実現できない。そこからだな、と思う。

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