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必要な物にだけ囲まれて生きる

私の母親は、とても片付けられない人で実家は物に溢れていた。狭い団地に物がひしめき合い、斜めにたおれかかって物が積み上げられていた。その溢れかえったものを収納するために収納棚をどんどん買ってしまう人で、今度は収納棚だらけになる。その収納棚も寸法を測るでなく、何となくここら辺にという感じなので始末が悪い。統一感のない家具たちと家具の配置に苦しめられた。夜寝るのがとても怖かった。地震が来たら、100%この物たちの下敷きになるからだ。

小学2年の頃の私の日課は、台所を磨き上げることだった。学校から帰ると散乱した物達を片付け、たわしでシンクやコンロを磨き上げ、拭きあげる。すると、その小さな空間だけでも美しい場所があると心が落ち着いた。ただ、その空間は長続きしなかった。汚さないで維持してくれと母親に話しても、彼女はあっという間に元の状態に戻す天才だった。汚す→磨く→汚す→磨くの攻防は続き、私の心は疲れ切った。イライラする自分に疲れた。磨きあげると落ち着くが、それをまた汚されると心が揺さぶられを繰り返した。この揺さぶりを納めるにはどうすればいいのか?何度言っても改善してくれる気配はなかった。

私が出した結論は、母親はお片付けができないという人間なんだということを受け入れるだった。直そうとしても直らない。なぜなら、片付いていないことに気づいてない。片付いている、片付いてないは主観的で、一人一人感じ方が違うのだ。この家では無理だ。自分がこの状態に慣れていくしかない、という結論に至った。私は、汚い家でも楽しく生きる、綺麗な家でも楽しく生きるという心にシフトすることにした。相手を変えようとしても変わらない、変わるなら自分が変わるしかないという現実に小2で気がついた。

ここまで書くと、うちの母親はかなりのダメ人間となるが、目の前のやりたいことに全集中する人、こうと思ったら貫く人とでも言えばいいか。書道を教え、自分も読売展など色々な作品展に出展していた。昔も今も、彼女の人生の生き甲斐であり、やり甲斐であり、支えだった。書道教室が20時くらいまでになるとそれから夕食となり、私たち兄弟は部屋に閉じこもり、毎日お腹を空かせていた。リビングで教えていたのでテレビが見られなかった。

母は、私は書道で忙しいからできないんだと言っていた。働いたことがない私は仕事と家事をきちんと両立している人はいくらでもいるし、言い訳としか思えなかったが、証明できなかった。
私も看護師になって一人暮らしを始めた。3食自炊し、どんなに疲れていても食器は必ず片付けた。仕事と家事を両立していた。それは、子育てを始めても同様だった。本当に忙しいからできなかったのか検証してみたかった。結果はできる人もいた。できない人もいる。実家の空間に慣れるように心をシフトしたとはいえ、苦痛であることには変わりがなかった。引っ越して、厳選した自分の好きな物達に囲まれ、自分基準で片付けられた部屋は本当に心地よく、いかに物達に囲まれた生活が苦痛だったのかに気がついた。

物に圧迫されて育ってきた幼少期の影響で、生活空間に自分の腰より高い家具は置かなかった。台所用品と本とCD,LP以外は物がなかったが、これらは多かった。納戸や押し入れに上手いこと収納し外にあまり物を出さなかった。テレビも見るときだけ押し入れから出してみていた。だから、来る人、来る人に物が少ないと思われていた。実際は、引っ越しすると手伝ってくれた友人に物が多いねと言われた。
独身時代に5回、結婚して6回引っ越ししている。引っ越しは慣れている。内見の段階で、メジャーで計りながら、物の配置を決める。梱包は収納をイメージして詰める。段ボールは部屋、棚ごとに分け、すぐに荷解きができる状態にしていた。配置はすでに決めてあるので、そこに置いてもらい、その場所ごとに段ボールを置き元に戻す。大体、3時間位で荷解きが終了し、普通の生活を始められた。引っ越し前に、事前に掃除と生活用品のセッティングも済ませていた。

ここまで書いて、私は物が少ない家が好きかというとそれだけではない。漫画やレコード、本やその人のコレクションが面白くその人なりの配列でごちゃごちゃしている部屋もたまらなく好きなのである。じゃ、なぜ、同じごちゃごちゃでも実家のごちゃごちゃが苦痛だったかというと、不要なもの、心のないもの、愛着のないものでただ雑然と埋め尽くされていたからだと思う。

私は今、というかこれまでを振り返ると、ずっとミニマリストを密かに目指している人間だった。自分が尊敬する人、憧れる人のほとんどがミニマリストだ。物に支配されていない、執着していない生活は、本当に美しく見えた。物があればあるほど、所有、維持、支配のストレスが続く。これから解放されていることは本当に楽なんだろうな〜と想像する。

移住にあたり、生活費の固定費に当たる部分を見直し手放した。手放すといかに維持していることがストレスだったかを知った。でもこれは、所有して手放して分かることで、以前の私はこの経験を経ずしては知ることがなかったので、大きなお金は動いたが大切なことだ。

今は洋服を仕事着を除き、定数制にした。衣装ケース1つ分となった。着ないのにデザインが好きで置き続けていた服、年に1度、数年に一度くらいの頻度で着ていた服も感謝をしてさよならした。お皿もそうだ。引っ越し前の1/5まで減らした。これらの作業は、1度ではやらない。まず、1回ざっと処分して1週間様子を見、その上でまた自分に問いかけ、必要か査定し、必要ないなと思ったら、感謝してさよならした。

ミニマリストは断捨離とは違うのか?手段として断捨離するものもあるが、自分に必要な物、好きなものを厳選してそれに囲まれる生活をするのがミニマリリスト。そして、所有、維持のストレスから解放されやりたいことに集中することなのだ。物一つの所有の度に、自分はどう生きたいか、そのためには何が必要で、何が必要でないかを問いかけ続ける旅なのだ。物をこれくらいまで減らすということでもないし、ここまで減らすとミニマリストということでもない。

スティーブ・ジョブズじゃないけど、禅の生活に憧れる。持ち物は柳行李一つのみ。中身も服が3着くらい。布団も敷布団だけでワッフルみたいに包まれて眠る。食器も3種類くらいと箸だけで、沢庵とお茶で茶碗を洗い、一度水に潜らせるだけで洗わない。料理の鍋も3種類だけ。本当に必要最小限の物だけで生活している。物がなくて、不便で窮屈で、つまらないという見方もあるけど、私はやっぱり心が楽になるだろうなと思えてならない。

まずは、どう生きたいか、そのためにこれは必要か、と問いかけながら一つずつ自分に必要なものだけに囲まれたコンパクトな身軽な生活をしていきたい。

と、思いながら現在我が家は築200年の古民家に住んでいる。せっかく物を減らした私だが、再度物に溢れた他人様のお宅に住まわせて頂いている。かなり、片付けたが各時代を経てきている物たちは、容易に処分できず、また、物に囲まれた生活をしている。私の人生これの繰り返しで、生涯をかけて追求していくのかな、と思う。

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